先日、NHK BSプレミアムで表題の番組を放送していました。
城郭考古学者として有名な千田嘉博奈良大学文化部教授ら3名の方々が、実際に史跡を訪れながら解説してくださる豪華な番組でした。
そこで、番組内で扱った場所の一部を実際に訪れてみましたので、番組の感想等と併せて書き残したいと思います。
番組の概要
番組名:絶対行きたくなる!日本不滅の名城「江戸城」
放送局:NHK BSプレミアム
放送日:令和元年7月27日21:00〜22:00放送
出演者:千田嘉博,原史彦,山田由香里(敬称略)
番組のあらすじとしては、以下の通りです。
江戸城は、究極の木造建築だった天守や、数多くの門、櫓(やぐら)、華麗な御殿が立ち並ぶ、巨大な城だった。城を防衛するための壮大な戦略を、城郭研究の最先端に立つ「城マスター」たちが解き明かす。桜田門は、ある独特の型で設計されているが、その理由とは?名所・千鳥ヶ淵と、戦国の城との知られざる相関関係。石垣のみが残され、幻となった天守再建にまつわる謎。最盛期の姿をCGで復元し、江戸城の真実に迫る決定版。
番組全体の構成としては、まず導入部として江戸城の外観、二重橋や伏見櫓、江戸城の正門・大手門から三之門、四之門、中雀門、本丸と続く道のりなどを紹介。
次いで、原史彦氏が「城門」をテーマに、千田嘉博氏が「城壁」をテーマに、山田由香里氏が「幻の天守」をテーマに、さらに千田嘉博氏が「石垣」をテーマに、それぞれ実際に史跡を訪れながら解説するという豪華な番組となっておりました。
最後に、ナレーションで綺麗にまとめて番組終了という、面白い1時間番組でした。
城門
原史彦氏曰く、江戸城の特徴の1つは門の数が圧倒的に多いこと、だそう。
江戸城の門について主な特徴は以下の通りです。
特徴 | 備考 | |
桜田門 | 重厚な作りから幕府の威光を感じる | 井伊直弼の暗殺で有名 |
清水門 | 江戸時代の様子を今に伝えるので人気 | |
田安門 | 作られたのは江戸時代初期、城内に残る最も古い建造物 | 本丸に最も近く重要な門 |
※番組内での原史彦氏による解説を元に筆者作成。
枡形門
「枡形門」という名称の門があるのではなく、門の種類として「枡形門」とよばれる種類の城門があります。
「枡形門」とは城門が1枚の扉だけではなく、まず外側に門があり、続けて内側にも門がある二重構造スタイルの城門です。門を入ると、内部の四方が全て石垣で囲まれていて、桝の形になっているので枡形門と呼ばれています。桝の中は通路がL字型に曲がるので(外側の門の右側に内側の門がある、という具合)、大勢で通行すると渋滞して敵の進軍速度が低下します。また、一旦敵が入ってから門を閉じると四方から攻撃できる(火縄銃や弓、投石など)上に、味方側が出撃する際も一旦門を閉じてから出撃すると敵の攻撃にさらされずに済むという、攻守に渡り非常に優れた城門の構造である事が分かります。
こうした説明を現物の大手門や桜田門などを訪れながら説明してくださるおかげで、非常に分かりやすく理解できました。
桜田門
刑事ドラマでおなじみの警視庁からすぐ、桜田門があります。
写真は桜田門の内側(桝の部分)から筆者撮影。
向かって右側が外側の門、左側が内側の門となっており、通過するにはL字に曲がらなければならない構造になっております。
清水門
個人的に、今回見て回った城門の中で一番好きな形をしております。
大手門や桜田門と比較すると決して大きくはありませんが、優美さを感じます。
見附
番組内で原先生がJR飯田橋駅前にある牛込見附跡をなどを訪れながら、以下のように説明してくださりました。
JR飯田橋駅前にある石垣が2つあるが、東京には街のあちこちに石垣が残っている。赤坂や四ツ谷駅前にも大きな石垣が残されている。この石垣は枡形門の名残で、今は取り壊されてしまっているが、かつては石垣の上に櫓門が立っていた。
牛込門は上州道の起点で牛込見附と呼ばれ、江戸への出入りは厳重に管理されていた。見附には門番が置かれ、24時間往来する人を監視していた。見附が作られた場所は、江戸から延びる主要街道の起点に設けられた。赤坂に今残る石垣は赤坂見附の跡、四谷見附は甲州街道の起点の名残。こうした見附は必ずある物(濠)とセットで作られていた。
外濠(外堀)は中央線の線路がある所もかつては水があったので、100メートルくらいの幅があった。全国に繋がる街道から敵が来たらどうするか、外濠に橋をかけ、そこに二重構造を持つ枡形門を配置した。枡形門は50以上作られた。鉄壁の枡形門を50以上設置して、1つを突破しても何重にも突破しないと城に辿り着けないようになっていた。この鉄壁の守りが江戸城の最大の特徴と言える。
引用元:NHKドキュメンタリー - 絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「江戸城」より筆者要約
なるほど、都内の地名で「赤坂見附」などは有名ですが、そもそも「見附」とはそういう物を指していたのですね。
余談ですが、筆者在学中の法政大学通信教育部では主に市ヶ谷キャンパスにてスクーリング等が行われておりますが、この市ヶ谷キャンパス最寄駅の1つがJR飯田橋駅であり、まさに牛込見附跡の石垣を往来時によく目にします。
また、市ヶ谷キャンパス目の前には江戸城外濠があり、まさしくその一部が中央線の線路となっている光景もよく見えます。
写真は法政大学市ヶ谷キャンパス付近から筆者撮影(手前に江戸城外堀とJR中央線が、奥に大学のボアソナードタワーがそびえ立つ)。
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牛込見附
名称:牛込見附跡
住所:東京都千代田区富士見2丁目9
交通:JR中央線、総武線「JR飯田橋駅」徒歩1分
写真は牛込橋から筆者撮影。
橋の左右に牛込見附跡の石垣があります。
夏場のためか、大部分をツタに覆われてしまっていますが、冬場などであればかなり石垣部分を見る事ができます。
写真奥の工事現場はJR飯田橋駅(改装中)、写真を横断する道路が早稲田通りで左手側が牛込橋。
上の看板左下に示されている地図の、ちょうど方位記号辺りから撮影。
写真はもう一方の石垣。
こちらには看板が2枚設置されております。
牛込橋の由来。
富士見の町名由来。
この横たわる石に彫り込まれた文字が読めませんでした。
インターネットで少し調べてもよくわからず(「阿波」と書いてあるという記事は拝見しましたが)、謎です。
四谷見附
名称:四谷見附跡
住所:東京都千代田区麹町(JR四ツ谷駅付近)
交通:JR中央線、総武線「JR四ツ谷駅」徒歩1分
写真はJR四ツ谷駅前から筆者撮影(写真右側の木々が四谷見附跡の石垣、道路を挟んで左側の建物が四ツ谷駅駅舎)。
写真は、ほぼ唯一地上に残されている石垣。
ですが、表面の多くが草に覆われており石垣がよく見えません(地中には一部残っている遺構もあるとか)。
僅かに石垣が見える場所。
写真は四谷見附跡に存在する(私が現地を訪れた際に唯一発見した)看板です。
史跡の観光用整備という意味では、牛込見附より力が入っていないような印象を受けました。
写真は四ツ谷駅駅舎横に横たわる石。
この石も、やはり四谷見附跡の石垣の一部だったのでしょうか?
赤坂見附
名称:赤坂見附跡
住所:東京都千代田区紀尾井町1
交通:東京メトロ半蔵門線、南北線、有楽町線「永田町駅」徒歩5分
おまけ:日比谷見附
名称:日比谷見附跡
住所:東京都千代田区日比谷公園1
交通:東京メトロ千代田線、日比谷線、都営三田線「日比谷駅」徒歩1分
江戸城すぐ側にある日比谷公園の一角に、日比谷見附跡の石垣を見る事ができます。
表題の番組では紹介されていなかったと思いますが、桜田門を訪れる際に偶然通りかかったので観賞してきました。
日比谷見附の石垣は、非常に綺麗に石が積まれております。
日比谷見附跡に唯一設置された案内板。
日比谷見附跡の石垣は、何と石垣の上に登れるよう整備されております。
写真は石垣上より江戸城方面を向いて撮影。
なお、日比谷公園を訪れた令和元年7月下旬現在、何と「50年に1回しか咲かない花」と言われるアオノリュウゼツランが咲いておりました。
写真撮影しようと謎の人だかりができている場所がありますので、割と見つけやすいかと思います。
城壁
千田嘉博氏の担当するテーマ「城壁」は、「四季折々、美しい姿を見せる江戸城。特に春は桜が咲き乱れ、緑の堀に映える」とのナレーションから始まりました。
「城壁」をテーマに「城の北側の堀端、鉄壁の石垣の横に土の城壁がある理由とは?」という問いを、あの千田先生が解説してくださります。
石垣は主に城の東側、一方西側は土の城壁となっている。江戸城の周囲はかなりの高低差がある。ダムのような通路に仕切られた堀、その左右で水位の高低差が2メートルくらいある。江戸城の堀は全て同じ水位ではなくて、高低差がある。実は、台地の先端に作っていて、台地の高低差を巧みに使って堀を築いていた。武蔵野台地が突き出した千鳥ヶ淵の堀と、最も低い日比谷濠とを比較すると14.55メートルも高低差がある。丘陵地帯の西に築かれたのは土の城壁。一方、低い東は海を埋め立てた土地に、石垣を築いて防御力を高めている。
もう一つの理由は、元々あった江戸城は北条氏の城で、北条氏が得意としていた土の城がルーツ。北条氏の本拠地、小田原城にも土の城壁が残されており、当時は深いところで20メートルもあったという。土壁は、関東地方特有のローム層で、滑りやすく登るのは困難なので上から狙い撃ちされてしまう。石垣で20メートルは作れないが、土なら作れる上に雨の日はぬかるんで突破が難しく、もしかしたら石垣以上の防御力があった。土の城壁だと斜面の上に建物を建てられないのが弱点だったが、圧倒的な高さを土壁で作りその上に石垣を立てれば塀や櫓を建てられた。
また、土壁と石垣を組み合わせる代表例は伏見櫓。土壁と石垣、この組み合わせは強力。今は木が生えているが当時はなかったので、広く見渡せた。ここから火縄銃や弓を放てたので非常に強力な防御だった。(冒頭の)謎の答えは、家康が土の城の強さを知っていたこと。江戸城は西日本の石垣造りの良さと、東日本の土造りの城の良さを組み合わせて作られた。
引用元:NHKドキュメンタリー - 絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「江戸城」より筆者要約
これは全く知らない事ばかりで、放送を拝見していて興奮が抑えきれませんでした。
むしろ今回、番組で紹介された史跡を実際に観に行こうと考えた最大の理由は、この「高低差」と「石垣と土壁」を実際に観たくなったからに他なりません。
元々、江戸城を築城した人物は太田道灌という、室町幕府の関東管領・上杉家に使える人でした。
築城当時、江戸城の東南は利根川や江戸湾に面していたとか(後年、徳川家康公の江戸入り後、伊奈忠次が中心となり利根川を霞ヶ浦方面へ曲げるまでの間)。
もしかしたら、千田先生のご説明にあった「(江戸城は)台地の端に作っていて」というのも、関係しているのかもしれませんね。
ただ、今回は時間の都合もあり、この高低差を確認できるスポットを見つけられませんでした(後日、もしかしたら見学してきて追記するかもしれません)。
ただ、桜田門に設置された案内板で、江戸城周辺の地形の高低差を確認する事ができます。
千田先生のご説明通り、江戸城は台地の端に建っているという事が一目でわかります。
一方、もう1つのポイントである「石垣と土壁」については、早々に見つける事ができました。
それは、江戸城・桜田門です。
写真は桜田門に向かって右側、石垣が築かれています。
一方、こちらは桜田門に向かって左側、土壁となっております。
こちら側は、ずっと土壁が広がっております。
この土壁をよく見てみると、土壁の上下に石垣が見えます。
なるほど、これが「土壁と石垣を組み合わせる」城壁という事ですね。
このような石垣を「鉢巻石垣(はちまきいしがき)」と呼びます。
なお、清水門の左右でも向かって左手が石垣、右手(少し武道館側に進んだ所)から土壁になっていますので、そちらも見どころです。
幻の天守
山田由香里氏により、江戸城「幻の天守」について説明。
江戸城といえば桜田二重櫓や伏見櫓など、美しい白漆喰の色が特徴。
かつて江戸城の中でも、最も大きく美しかったと考えられる建物は天守。今、残されているのは巨大な天守台だけ。城に天守があったのは開幕から50年だけ。火災で焼失して、その後は再建されることはなかった。なぜ、再建されなかったのか?(中略)
江戸城天守閣が残っていれば、間違いなく世界最大の木造建築物として世界遺産になっていただろう。屏風絵に残る天守も破風の美しい天守だった。徳川の権力を見せるには高さ60メートルの天守がわかりやすい。徳川家の権威を象徴する象徴するシンボルタワー。
しかし、家光の建てた天守は20年ほどで明暦の大火により焼失した。幕府はその後、直後に天守の復旧を目指して天守台を作ったが、天守を建てなかった。荒廃した江戸の街の復興を優先したのもあるが、なぜ天守を再建しなかったのか?引用元:NHKドキュメンタリー - 絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「江戸城」より筆者要約
てっきり、徳川幕府が江戸城の天守を再建しなかった理由は、江戸の都市復興と幕府の財政難だと思っていました。
しかし、山田先生は江戸復興だけが理由ではなかったとご説明されます。
ヒントは富士見櫓。石垣と櫓を合わせた高さは31メートル。城の中心に君臨する美しい「八方正面の櫓」と称された。江戸時代の大火の後、天守の代わりとして使われた。富士見櫓からは抜群の眺めで、西には富士山、南に城下町と江戸湾を一望でき、天守に匹敵する素晴らしい眺望があった。富士見櫓は他の城の天守に匹敵する美と眺望を備えていた。
本丸の中心に置かれるべき天守台が、だいぶん奥まった場所にある。三度建て替えられたが最初から今の位置か?
最初の家康の天守はもっと手前(本丸のほぼ中心)にあったが、二代目、三代目と本丸を拡張して奥に移していった。幕府政治の中心であり、将軍の生活の場でもあったのは御殿であり、御殿が進歩するにつれて天守が奥に追いやられた。将軍は江戸時代を通じて政治を主導していきたいと考え、そこで本丸の主役が天守から御殿に移っていった。引用元:NHKドキュメンタリー - 絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「江戸城」より筆者要約
ただ、この日は既に夕方になってしまい、富士見櫓を見学することはできませんでした。
そこで後日、改めて見学に行きました(しかし、写真の夕焼けに映える「エモい」江戸城を見る事ができたので、これはこれで満足でした)。
江戸城天守台
写真の通り、現在は工事中でした。
工事の看板によると、事業期間は令和2年5月29日までとの事です。
なお、工事の影響により、大手門から入場して中之門跡を抜けて富士見櫓などへ向かうルートですと、天守台の前がフェンスで封鎖してあり、天守台を間近で見る事ができません。
しかし、写真の通りフェンスで封鎖されている手前側の芝生は、元々の天守台があった跡地だと番組内で紹介されておりましたので、こちら側からも見ておきたい所です。
また、富士見櫓を見るにはこちらのルートで付近まで来る必要がありますので、炎天下の中、ぐるりと遠回りして見学する羽目になりました。
(工事されている皆様方、また警備されている皆様方、炎天下の中でお疲れ様です)
富士見櫓
番組内で紹介された富士見櫓。
見学は富士見櫓の裏側すぐ近くまで接近する事ができ、こちらの周囲に案内の看板も設置されております。
裏から見ても優美な佇まいです。
写真は富士見櫓の破風。
石垣
最後は「石垣」について、千田嘉博氏による説明。
改めて千田先生がご登場という事で、非常に期待が膨らみます。
一説によると、江戸城の石垣には100万個以上の石が使われているとか。
江戸城を見るときは石垣に注目すると面白い。おすすめスポットは桜田門。石垣に使われている石は大小様々だが、絶妙に組み合わせて綺麗に積み上げている。また別の石垣は、ほぼ同じ大きさの石垣を積み上げており隙間も目立つ。
引用元:NHKドキュメンタリー - 絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「江戸城」より筆者要約
という訳で、桜田門の石垣を見学。
様々な形や大きさの石を、異なる積み方で積み上げているのが一目で比較できます。
手がかりは石の色。白っぽかったり黒っぽかったり、また他の石垣も色が違う。この色の違いが江戸城の石垣を考える上で重要なポイント。
(中略)
石の色の違いは産地の違いである。江戸の周辺に石垣の材料となる石の産出地がなく、一番近いのが伊豆半島だった。天守台の白い石は遥か瀬戸内海の島から運ばれた。
(中略)
なぜ色々な石垣があるか、もう1つ。火災で焼けた跡が残る。場内には随所に、焼け跡がありヒビが入っている石がある。江戸城は幕末まで、何度も火災や地震に見舞われた。その都度、幕府は最新技術で再建を試みてきた。例えば、場内最大級の石を積み上げられた中之門、カミソリの入る隙間もないこれは18世紀の積み方。積み方だけでなく、美観も追求された。城の北側にある田安門、よく見ると石の表面に何本も横線が刻まれていたり、凹凸が刻まれている。これは軍事目的から魅せる石垣に、時代と共に求められる石垣が変化していった事による。
引用元:NHKドキュメンタリー - 絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「江戸城」より筆者要約
なるほど。
確かに江戸時代、江戸の街は幾度も火災に見舞われたり、地震もありました。
明暦の大火では実際に天守閣が焼失しております。
そう考えてみると、石の表面に焼かれた跡が残っていたり、地震の衝撃で亀裂が入っていたりしても、不思議ではない訳です。
中之門
中之門は石垣のみが残る跡地となっております。
地面の石に空いた丸穴は、かつて門の建築物を支える柱が埋まっていた痕跡でしょうか。
千田先生のご指摘通り、ここの石垣は綺麗に切り取られた石が隙間なく積み上げられており、非常に美しい石垣となっております。
中雀門
中之門を通過した先にある中雀門も、現在は石垣が残るのみとなっております。
石垣を近くでよく見ると、黒ずみや亀裂が見られます。
千田先生の仰られていた火災や地震の影響と思われます。
田安門
田安門は、九段下駅や靖國神社から北の丸公園や日本武道館へ向かう入り口にあります。
この田安門もかなり美しく、江戸城の城門の中でぜひオススメしたい門の1つです。
田安門も当然、枡形門の構造となっております。
千田先生の仰る「魅せる石垣」、田安門で確認できます。
石垣の石の表面に、無数の線が刻まれております。
この近辺の城壁はまだ、石垣ではなく土壁です。
なお、この田安門や千鳥ヶ淵は、春に桜の名所としての見所があります。
まとめ
江戸城は天守の現存しておらず、明治維新による遷都にて「皇居」となった都合上、(勝手な先入観ですが)正直あまり史跡としては期待しておりませんでした。
しかし、今回この番組を拝見する事によって、いわば「史跡としての江戸城の魅力」を再発見する事ができたと感じました。
今回の江戸城見学は真夏の炎天下で行ったため、息も絶え絶えに見学して回る事となってしまいましたので、次に訪れる際はもう少し気候の良い時にしたいと思います。
※本記事に掲載の写真は全て筆者撮影による。
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