伊奈忠次 忠治墓は、埼玉県鴻巣市本町8丁目2-31にある天照山良忠院勝願寺の墓所に建立された、伊奈忠治夫妻および伊奈忠次夫妻の4基の宝篋印塔の墓です。
徳川家譜代家臣にして関東郡代を務めた伊奈忠次は、利根川東遷事業でも活躍しました。
というのも、江戸の地を始めとした現在の東京一体は、かつて湿地帯で農業にも適さない土地でした。
京の都からも遠く、家康公ご入府を迎える戦国時代末期まで、まさに一帯が「未開のド田舎」という有様でしたが、江戸湾に注ぐ利根川を曲げて霞ヶ浦方面から太平洋に流れるようにした事で、江戸の街は空前の100万人都市へと発展していきました。
伊奈忠次の活躍は、門井慶喜[2016]『家康、江戸を建てる』(祥伝社)や、門井慶喜[2018]『徳川家康の江戸プロジェクト』(祥伝社新書)で詳しく取り上げられております。
また、埼玉県北足立郡伊奈町では本年11月10日(日)に、町制施行50周年記念シンポジウムとして『伊奈忠次-徳川家康に認められ、江戸時代の礎を築いた人』が開催されます。
本シンポジウムでは、基調講演に小和田哲男氏(歴史学者)、門井慶喜氏(小説家)、ディスカッションコーディネーターとして和泉清司氏(歴史学者)が講師としてご出演されるとの事です。
はじめに
墓前に設置された埼玉県教育委員会及び鴻巣市教育委員会の案内看板には、以下の通り記されております。
埼玉県指定史跡
伊奈忠次 忠治墓
大正十一年三月二十九日指定伊奈忠次は三河国幡豆郡小鳥の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。初め徳川家康の近習となり、のちに関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を賜わった。関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富むといわれた。茨城県結城地方特産の紬織(柳条紬)もその奨励によるものである。
彼の功績は江戸幕府財政の基礎を定めたことで、その検地徴税の方法、すなわち、地方の方式は伊奈流と云って江戸幕府地方の基本となった。慶長四年(一五九九)従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)。慶長十五年(一六一〇)六十一歳(五十八歳とも)で没した。法号は藤林院殿秀誉源長久運大禅定門。
伊奈忠治は忠次の次子。元和四年(一六一八)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は三十五年の長さに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。承応二(元年とも)年(一六五三)六月、六十二歳で没した。法号は長光院殿東誉源周大居士。平成元年三月
埼玉県教育委員会
鴻巣市教育委員会
看板によると、埼玉県指定史跡との事です。
【参考】伊奈忠次・忠治の墓 | 利根川上流河川事務所 | 国土交通省関東地方整備局
伊奈忠次 忠治墓
筆者が訪れた当日はゲリラ雷雨に見舞われ、写真もあいにくの様子になってしまいました……
さいごに
事前に『家康、江戸を建てる』を拝読してから訪れる事をオススメいたします。
恥ずかしながら、筆者も拝読するまで伊奈忠次の活躍を知りませんでした。
しかし、利根川東遷事業という偉業を成し遂げた伊奈氏3代のうち、特に初代の忠次は活躍著しく、家康公からも高い評価を得ていました。
忠次以降、歴代の関東郡代は伊奈氏の世襲となりましたが、忠次の活躍が大きく寄与した事は言うまでもありません。
そうした忠次の活躍を知ってから訪れる事をオススメいたします。
案内情報
名称:伊奈忠次 忠治墓
住所:埼玉県鴻巣市本町8丁目2-31 天照山良忠院勝願寺
交通:JR高崎線(上野東京ライン・湘南新宿ライン)「鴻巣駅」徒歩10分
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