鴻巣御殿跡は、埼玉県鴻巣市本町4丁目8-26にある鴻巣御殿の跡地です。
鴻巣御殿は徳川家康公によって、鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として文禄2年(1593)に建てられました。
その跡地に建つ鴻巣御殿東照宮(御成町東照宮)は「日本一小さい東照宮」だそうです。
はじめに(鴻巣御殿とは)
鴻巣市教育委員会の設置する看板には、以下の通り書かれております。
鴻巣御殿跡
鴻巣御殿は文禄二(一五九三)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は一町四反歩(約一・四ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永七(一六三〇)年頃を最後として、以後使用されなくなった。明暦三(一六五七)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和二(一六八二)年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄四(一六九一)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治三十年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。
最近まで鴻巣御殿跡地の比定地も明らかでなかったが、平成六年の試掘調査によってその一部が確認された。
鴻巣御殿は「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)に描かれ、その様子を知ることができる。平成七年八月
鴻巣市教育委員会
つまり、ここも徳川家康公ゆかりの史跡だという事です。
また、鴻巣御殿については江戸時代に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』にも記載されております。
舊蹟 御殿蹟
今は畑となれり、文祿二年の頃御殿を取立しと云、舊家三太夫が祖先三郎左衛門が弟加藤喜兵衛及び大塚將監等御殿番たりしことあり、後御殿も廢して元祿四年除地となれり、
引用元:蘆田伊人[1981]『大日本地誌大系14 新編武蔵風土記稿第8巻』(雄山閣)
P.5「新編武蔵風土記稿巻之百四十八 足立郡之十四 舊蹟 御殿蹟」
入口
JR高崎線(東京上野ライン・湘南新宿ライン)鴻巣駅から、徒歩5分で行けます。
住宅街の中に入口があり、奥に入っていくと東照宮があります。
なお、この通路は傘を広げきれないほど細いです。
入口に設置された側には「御成町東照宮」と記されておりますが、この御成町については一般財団法人鴻巣市観光協会の設置する看板に、以下の通り記されております。
鴻巣御殿東照宮
御成町町内会区域本宿(ほんじゅく:幕府直轄領で中心市街地)の仲市場のの高札場辺りから馬室村へ向かう脇道があり、明治時代にその両側に家並みが形成され「馬室横町」と呼ばれていました。後に徳川三代(家康・秀忠・家光)の宿泊所である鴻巣御殿が、江戸時代初期に当地に存在し、将軍が御成りになったという故事に基づいて「御成町」と名付けられました。
平成二十五年十月十九日設置
一般財団法人鴻巣市観光協会
鴻巣御殿東照宮は「日本一小さい東照宮」だそうです。
鴻巣御殿東照宮(御成町東照宮)
鴻巣御殿東照宮は写真の通り、鳥居と小さな祠があるのみです。
屋外で屋根もなく、風雨にさらされています。
向かって右脇には石碑があります。
石碑には「東照宮 敷地奉納記念碑」と書かれております。
鴻巣御殿東照宮の祠です。
さいごに
鴻巣御殿東照宮に参拝した帰りに気づきましたが、筆者は痛恨のミスをしてしまいました。
何でも、実はこの東照宮の敷地内に「小池軍八郎が享保12年に寄進した手水鉢」なる物が遺されているそうですが、完全に見落としてしまいました。
今回は、付近にある伊奈忠次・忠治親子の墓を訪れた帰りに偶然見つけて立ち寄ったため、事前の調査が不十分でした。
やはり、史跡を訪れる際は事前の調査を一通り済ませてから向かうのが吉です。
【追記】日本一小さい東照宮は他にもある!?
千葉県船橋市本町4丁目29-7の船橋御殿跡地にある船橋御殿跡東照宮も、「日本一小さい東照宮」だそうです。
インターネットで「日本一小さい東照宮」を検索すると、船橋御殿跡東照宮の方が上位の検索結果に多く出てきますが、はたして「真の日本一小さい東照宮」はどちらなのでしょうか……
気が向いたら検討してみたいと思います。
(追記:令和元年10月14日)
案内情報
名称:鴻巣御殿跡・鴻巣御殿東照宮(御成町東照宮)
住所:埼玉県鴻巣市本町4丁目8-26
交通:JR高崎線(上野東京ライン・湘南新宿ライン)「鴻巣駅」徒歩5分
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