伊奈氏屋敷跡は埼玉県北足立郡伊奈町大字小室217-5にある、関東郡代・伊奈忠次が天正19年(1591)に築いた屋敷跡です。
なお、伊奈氏屋敷跡は平成29年より「忠次プロジェクト」の一環として、町道が散策路として整備されたとの事です。
【関連サイト】
家康に仕えた伊奈備前守忠次公の史跡を巡るコース | 伊奈町のんびり散歩| いなナビ[伊奈町]
はじめに(伊奈氏屋敷跡・頭殿権現社)
今回は伊奈氏屋敷跡を訪れると共に、その跡地内にある頭殿権現社にも立ち寄ってみました(頭殿権現社については近日中に記事公開予定記事を公開しました)。
なお、本史跡は埼玉県指定史跡となっております。
埼玉県伊奈町の設置する看板には、以下の通り書かれております。
埼玉県指定史跡 伊奈氏陣屋跡
伊奈氏屋敷跡の概要
徳川家康の家臣で、関東郡代伊奈氏の祖である伊奈備前守忠次が、天正19年(1591)小室(字丸ノ内)の地に築いた陣屋跡である。
天正18年(1590)家康の関東入国に従い、小室・鴻巣領1万3千石(1万石ともいわれる)を拝領した。沼を控え要害の地にある小室の閼伽井坊屋敷を接収し、陣屋とした。ここを拠点に、代官頭として治水・利水工事と新田開発、検知の実施、中山道等の街道宿駅の整備などに力を発揮し、徳川家の関東支配、江戸幕府創立の基盤づくりに大きく貢献した。
忠次の死後、3代忠勝が幼くして亡くなり領地は没収されたが、忠勝の弟忠隆が旗本として取立てられ、陣屋そのままに小室郷8か村が与えられた。その後、陣屋機能は江戸屋敷に移り、わずかな家臣の屋敷と御林のみ残ったが、明治維新とともに陣屋後は払下げられ、民有地となった。
昭和9年3月31日に、重要な文化財「伊奈氏屋敷跡」として県の史跡に指定された。右図にあるとおり屋敷跡(陣屋跡)には、当時を偲ばせる土塁や掘、道路などの大部分が現存している。また、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの名称も残っている。頭殿権現社
長禄年間(1457〜1460)に、太田道灌が勧請したと言われる。
天正19年(1591)に、伊奈備前守忠次が陣屋に入った後に営繕し、陣屋の守護神としたと言われる。
権現社とあることから徳川家康を祀っていたものと思われ、家康の死後の元和2年(1616)から間もない時期、忠政か忠勝の代に陣屋内に勧請したと思われる。新編武蔵風土記稿(1804〜1829年編纂)に「頭殿権現社 祭神詳ならず陣屋のうちにあり村民持」の記述がある。明治43年(1910)に氷川神社へ合祀された。祭神は、明確ではないが、龍神であったとする説がある。散策路について
平成29年より「忠次プロジェクト」の一環として、町道が散策路として整備された。この散策路は、地元住民をはじめ、多くの方の手による作業で木や竹のチップで整備された。伝説について
昔、丸山沼の対岸の原市には、メドーサマ(雌堂様)があり、丸ノ内の権現様をオドーサマ(雄堂様)といった。この間を蛇が行き来したという話があるほか、「権現様の森の大蛇」、「丸山沼の大蛇」「龍巻絵書き」と呼ばれる伝承がある。この看板及び誘導標識は埼玉県ふるさと創造資金の補助も受けて設置しました。
設置者 埼玉県伊奈町
設置日 平成30年2月
上記の看板は、頭殿権現社に設置されている案内看板ですが、今回確認した中で最も史跡全体について記述されているように感じましたので、先にご紹介いたします。
順路(丸山駅から伊奈氏屋敷跡・裏門跡まで)
ニューシャトル(埼玉新都市交通伊奈線)「丸山駅」で下車します。
丸山駅の構内には、伊奈レンタサイクル<忠次号>貸出中ののぼりがありました(今回、筆者は伊奈氏屋敷跡のみを見学するため徒歩で移動しましたが、もう少し広範囲に伊奈町を旅するならレンタサイクルを借りるのも良いと思います)。
丸山駅の改札は通常の改札ではなく「簡易Suica改札機」となっております。
改札を出て左手側の道を、ニューシャトルの大宮方向に少し折り返すと、高架下に丸ノ内陸橋があります。
ただ、こちらは車両用みたいで、もう少し進むと階段で丸ノ内陸橋に出られるルートがあります。
上記写真の橋脚と建物の間を通り高架下を抜けると、奥に階段があるので登ります。
そうすると、丸ノ内陸橋に出られますのでそのまま直進します。
丸ノ内陸橋の左手下側に、伊奈氏屋敷跡・裏門跡があります。
反対の右手側に陸橋を降りる階段がありますので、そちらから裏門跡に向かいます。
伊奈氏屋敷跡
今回、丸山駅から出発して実際に見て回った順にご紹介いたします。
裏門跡・障子掘
埼玉県教育委員会と伊奈町教育委員会により設置された案内看板には、以下の通り書かれています。
埼玉県指定史跡 伊奈氏屋敷跡
昭和9年3月31日指定天正18年(1590)年、関東郡代伊奈忠次は、周囲を泥深い湿田に囲まれたこの台地に、陣屋を構え、その後の関東地方の幕府直轄地を支配する拠点としました。寛永6(1629)年に、三代忠治が川口市赤山に陣屋を移すまでの間、この地が地方支配の中心となっておりました。
陣屋跡の規模は、東西350m、南北750mです。陣屋が構えられた頃の様子は明らかではありませんが、当時を偲ばせる土塁や堀が各所に良く保存されているほか、見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道などが現存しているとともに、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの呼称も伝承として残っています。
「裏門跡」伝承地と「障子堀」
ここは、伊奈氏屋敷跡の「裏門跡」と伝えられているところです。近年の発掘調査によって、堀を折り曲げて、「虎口」(出入口)をつくっていたことがわかりました。公園内の縁石の部分が堀の位置を示しています。発掘された堀は、幅が約5m、深さは2mあり、堀の中には障子の桟のような仕切り(畝)が作られているので「障子堀」と呼ばれています。畝の高さは約1.5mありました。「障子堀」は、武者が堀を超えたり、堀の中を移動したりすることが難しいように工夫されたもので、戦国時代の築城技術が良くあらわれています。埼玉県教育委員会
伊奈町教育委員会史跡指定地のほとんどが民有地です。見学に当たっては、地元の方々に迷惑をかけないようにお願いします。
気になったのは「三代忠治」という表記ですが、おそらく関東郡代の三代目という事でしょうか。
【参考】関東郡代の伊奈氏
- 伊奈忠次(1590年 - 1610年)
- 伊奈忠政(1610年 - 1618年)
- 伊奈忠治(1618年 - 1653年)
(以下略)
あと「見学に当たっては、地元の方々に迷惑をかけないようにお願いします」というのは本当にその通りで、観光スポットとして有名どころの史跡はともかく、こうした町中にある史跡の維持・管理は地元の方々のご理解あってのものと思います。
訪れる際はルールやマナーを守って、気持ちよく見学したいものです。
写真は裏門跡です。
真っ平らな平地に雑草が生えている感じです。
外からただ見ただけでは単なる平地にしか見えませんが、案内看板によると、この平地に障子堀の遺構が見つかったとの事です。
裏門跡に設置された案内看板の空撮写真、写真右手側を縦に通る道が丸ノ内陸橋から伊奈氏屋敷跡に向かう道(今回通る道)のようですので、やはりこの平地に障子堀があったようです。
空堀跡・見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道
裏門跡から進んですぐの所、左手の地形が空堀跡です。
写真中央の部分にくぼみがあり、その両側が土塁となっている空堀の痕跡を見ることができます。
なお、非常に残念な事に、ペットボトルのゴミが捨てられていました。
道なりに進むと、道がジグザグに折れ曲がっています。
これは、先述の案内看板にあった「見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道などが現存している」という部分だと思われます。
土塁
写真の丁字路を左折して進んでいきます。
写真のような分岐がありますので、直進して「屋敷跡東側散策路」を進んでみます(史跡という意味では、右折して土塁側を進んで良いと思います)。
屋敷跡東側散策路を進むと、このように雑草の生い茂る道に出ます。
この丁字路を右に曲がって進もうとした所、蜂がおりましたので散策を断念して引き返しました。
入口付近まで戻り、今度は土塁側に進んでみます。
道の左右に土が盛られている様子を見ることができます。
このまま進むと、今度の丁字路は直進すると屋敷跡東側散策路、右折すると二の丸跡となっておりますので、右折して二の丸跡へ進みます。
すると、車道に出ますので、右手に少し進んだところを横断して進みます。
上記写真中央の木の下に順路の案内がありますので、二の丸跡方面へ向かいます。
上記写真奥の丁字路を左折して、後は道なりに進むとすぐに二の丸跡に着きます、
二の丸跡
埼玉県指定史跡 伊奈氏屋敷跡「二の丸跡」
現在確認されている「二の(ノ)丸」の名称の由来は、明治8年に国へ提出した旧陣屋地の見積図に書き添えられた「此処小丸山ト云、元二ノ丸跡ト申伝」という地元の言い伝えである。また、江戸時代に作成された『新編武蔵風土記稿』では、「二ノ曲輪」という文言が確認できるが、位置は不明である。二の丸の位置について、見積図では現在よりやや西側と思われる場所が示されており、今後の調査による解明が期待される。
伊奈氏屋敷跡の西〜南側には原市沼川が広がるが、当時は二の丸の近くまで広がる大きな沼であったことが、『新編武蔵風土記稿』に描かれた伊奈氏屋敷跡周辺の絵図から想像することができる。
平成29年度に実施した発掘調査では、土杭と推定される遺構から水品が出土している。これは地業などの前に執り行われた地鎮祭などの儀式で埋納した可能性が考えられる。ほかにも、瀬戸・美濃焼や伊万里焼など、陶磁器の欠片が出土しており、当時の人々の生活の痕跡を確認することができる。水品出土状況
陶器(瀬戸・美濃焼)出土状況
磁器(伊万里焼)史跡の多くは民有地です。マナーを守って見学していただきますようお願いします。
平成31年2月 埼玉県教育委員会 伊奈町教育委員会
二の丸跡の様子。
写真は右側から。
正面。
左側から。
石碑もあります。
石碑には「伊奈氏居館址碑」と掘られています。
表門跡
こちらが表門跡です。
伊奈町教育委員会・埼玉県教育委員会により表門跡に設置された案内看板には、以下の通り書かれております。
埼玉県指定史跡 伊奈氏屋敷跡
ここは、代官頭伊奈忠次が築いた陣屋跡です。伊奈氏は信州伊那郡(今の長野県)の出身で、忠次の祖父忠基の代に松平広忠(徳川家康の父)仕え、三河国小島(今の愛知県西尾市)の城主となりました。
忠次は善政をしき、特に豊臣秀吉の小田原攻めには、君主徳川家康の命で兵糧の輸送、荒廃した伊豆国(今の静岡県)の農村復旧などにあたり功績を挙げました。
天正18(1590)年、徳川家康が関東へ入国した時、忠次はこれまでの功績によって、三河国小島の旧領と武蔵国小室・鴻巣領1万3千石(1万石とも言われている)を与えられました。代官頭となった忠次は、中世以来城郭として使われてきたこの地(小室丸ノ内)に陣屋を構えて、関八州(今の関東地方)の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、新田開発、中山道その他の宿駅の整備、備前堤、川島大囲堤の築堤などに大いに活躍しました。さらに江戸時代成立後は、関東及び東海道筋の支配にも参画するようになりました。忠次及び長男忠政の死後は、次男忠治が元和4(1618)年に築いた赤山陣屋(今の川口市)に関東支配の拠点が移り、この地は忠政の次男忠隆系の旗本伊奈氏の屋敷となりました。
屋敷跡の規模は、東西約350m、南北約750mで、当時を偲ばせる土塁や堀が各所に良好な状態で保存されているほか、見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道などが現存しています。裏門跡と呼ばれる場所からは、発掘調査の結果、障子堀が検出されました。
また、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの呼称も伝承として残っています。史跡内には民有地がおおくあります。無断で立ち入らないようお願いします。史跡は私たちの歴史を知る大切な場所です。遺構を壊したり、無断で草花・樹木の採集・伐採はしないようお願いいたします。
平成23年3月 伊奈町教育委員会・埼玉県教育委員会
文中の「松平広忠(徳川家康の父)仕え」は、おそらく「松平広忠(徳川家康の父)に仕え」だと思われます。
細かい指摘かもしれませんが、史跡に掲げる案内看板である以上、誤字脱字などの推敲はしっかりしていただきたく思います。
さいごに
最寄駅からの距離は近く、そういう意味では比較的容易に見学できて、かつ空堀や土塁の遺構を見ることができる史跡という印象です。
土塁や屋敷跡東側散策路などにつきましては写真の通り、ちょっとした森林の林道を歩くような感じを想定していただければと思います。
というのも、この散策路を歩いていると何か良く分からない羽虫が飛んでいたり、小指の第一関節から先くらいの大きさの蜂に遭遇したり(こちらに向かって飛んできた時は肝が冷えました)、靴も泥まみれになったりします(木材などのチップが敷かれていたりして、整備されている分まだ山城などの林道よりは歩きやすいですが)。
いずれも、林の中を歩けばそうなるのは当然といえば当然ですが、事前に軽く調べた感じだと林の中を歩く事になるとは思わず(リサーチ不足といえば否定できませんが)、筆者は少し苦戦しました。
土塁を見る散策路と、頭殿権現社(近日中に記事公開予定記事を公開しました)に行く順路などは、こうした林道を歩く事になりますのでその心算をしておいた方が良いと思います。
案内情報
名称:伊奈氏屋敷跡
住所:埼玉県北足立郡伊奈町大字小室217-5
交通:ニューシャトル(埼玉新都市交通伊奈線)「丸山駅」下車・徒歩約10分
【伊奈氏屋敷跡】
【参考サイト】
埼玉県指定記念物(史跡)「伊奈氏屋敷跡」について | バラのまち埼玉県伊奈町公式ホームページ
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