「国史跡 武蔵国府跡(国司館地区)史跡広場」は、平成30年11月25日に「国司館と家康御殿史跡広場」としてオープンした史跡です。
この史跡は、飛鳥時代〜奈良時代の初め頃(7世紀末〜8世紀初頭)に武蔵国府の国司館(こくしのたち)があった跡地です。
また、徳川家康公により天正18年(1590年)に建てられ、その後、正保3年(1646年)に焼失した「府中御殿」の跡地でもあります。
場所は東京都府中市本町1丁目14-14にあり、JR南武線「府中本町駅」徒歩1分という位置にある「駅チカ史跡」です。
はじめに
少し分かりづらい所ですが、入口の右手側の公園フェンスに掲示されている案内です。
入口から入ってすぐの左手側に、この史跡全体の説明が示されております。
案内看板の構成は、まず史跡全体についての説明が左上にあり、大部分が「古代武蔵国府と国司館」についての説明、右側に「徳川家康府中御殿跡」の説明という構成になっております。
まずは、史跡全体についての説明箇所を以下に抜粋します。
国史跡 武蔵国府跡(国司館地区)
ここは、今から1,300年ほど前に武蔵国府の国司館があったところです。さらに、今から430年ほど前に、徳川家康の府中御殿も置かれた府中市の歴史を象徴する国の史跡です。保存・整備にあたっては、発掘調査の成果をもとに、国史跡の指定を受けている国司館跡を中心に整備を行いました。
施設のご案内
開園時間:午前9時から午後5時
休園日:年末・年始
平成30年(2018)3月設置府中市
※国司館は「こくしのたち」と読みます。
看板の説明によると、古代に武蔵国府の国司館があった場所であり、さらに江戸時代初期に徳川家康公の府中御殿があった場所でもあるとの事です。
国史跡の指定を受けている国司館跡を中心に整備されているのは家康公ファンである筆者的には少々残念でありますが、両者が時代を超えて同じ場所に建っていたのだから仕方ありません。
むしろ、そういう意味では時代の遷り変わりをひしひしと感じる、良い見学ができたように筆者は感じました。
武蔵国府・国司館(こくしのたち)とは
案内看板から、抜粋した説明は以下の通りです。
国史跡 武蔵国府跡(国司館地区)
古代武蔵国府と国司館
古代武蔵国の首都的機能を持った国府
武蔵国府は、飛鳥〜奈良時代の初め頃(7世紀末〜8世紀初頭)から平安時代の終わり頃(11世紀代)にかけて、武蔵国を治めた行政府で、政治・経済・文化の中心として栄えていました。国府域は、東西約2.2km、南北最大1.8kmに広がり、その中央(現在の大国魂神社境内と東側)には、方形に区画された国衙域があり、荘厳な建物が整然と建ち並んでいました。古代武蔵国府の国司館
ここには、都から武蔵国の国府に赴任してきた国司の執務室兼住宅がおかれました。現代で言えば、東京都知事の公館にあたります。発掘調査の成果により、国司館は、7世紀後半〜8世紀前半に造営されたと考えられます。発掘された国司館
国司館跡は、造営当初、東西棟の建物が2棟建てられました。その後の奈良時代前半には、東西棟の四面廂建物の主屋(正殿、桁行5間×梁行4間)と南北棟の副屋(脇殿、桁行8間×梁行3間)が真南北、真東西で建てられていることから、秩序ある配置をもって造営されていることがわかりました。
ここは、国史跡武蔵国府跡(国衙地区)の南西側に位置し、国衙中枢地区との密接な関係がうかがえます。ここから初期の国司館と考えられる建物群が発掘されたことは、武蔵国府成立期の状況や日本の古代地方行政組織の成り立ちを解明する上で、とても重要な意味があります。ここでは、最も歴史的特徴を示す奈良時代前半の国司館跡を復元・整備しました。
※武蔵国:古代の律令国の一つで現在の東京都と埼玉県のほぼ全域と神奈川県の横浜市・川崎市の一部
府中市
※国衙は「こくが」と読みます。
※四面廂は「しめんひさし」と読みます。
※主屋は「しゅおく」、正殿は「せいでん」、副屋は「ふくおく」、脇殿は「わきでん」と読みます。
当時の関東は「ド田舎」であり、朝廷や都から見たら「辺境の未開の地」といった認識がされていたそうです。
看板にも記載されている通り、武蔵国すなわち「古代の律令国の一つで現在の東京都と埼玉県のほぼ全域と神奈川県の横浜市・川崎市の一部」という広大な範囲に及ぶ地域を、ここを中心に治めていたと考えると凄い場所なのだと感じましたが、派遣されてきた国司の内心は都から遠く離れて不遇だと思っていたのか、それとも国司の任をしっかりと果たそうと頑張っていたのか、そういった想像をするのも一興です。
府中御殿(家康御殿)とは
案内看板から、抜粋した説明は以下の通りです。
国史跡 武蔵国府跡(国司館地区)
徳川家康府中御殿跡
発掘された徳川家康府中御殿跡
古代国司館跡の西側からは、発掘調査によって、掘立柱建物跡、柵跡、厩と推定される建物跡、大型石組井戸跡などが発見されました。さらに、その井戸跡からは、江戸時代前期(17世紀前半)のものと考えられう三葉葵紋鬼瓦が出土したことなどから、この場所に徳川家康が滞在した府中御殿があったことを特定できました。江戸初期の府中御殿
府中御殿は、1,590年(天正18年)に造営されたと考えられ、江戸を中心に設置された数ある御殿のなかでも早い段階に建設されたものです。徳川家康の棺が逗留
御殿は、家康、秀忠、家光の三代にわたって、鷹狩りの宿舎等として使われました。特に、1,617年(元和3年)に家康の霊柩が久能山から日光に移葬される際の逗留と法要の場となったことが重要です。古代の国司館と家康御殿
江戸時代後期の地誌『武蔵名勝図会』に、家康が「府中は古えより府庁の地と兼ねて聞召されければ、その旧地へ営むべき旨…」と御殿造営を命じた経緯が記されています。家康は、新たな領主となった武蔵国において、領国支配の正当性を示すうえでも、古代武蔵国の国府(国司館)があったこの場所に御殿を築くように命じたものと考えられます。古代の国司館と徳川家康の府中御殿がともに同じ場所にあり、遺跡として現代まで保存されてきたことは、とても重要なことです。府中市
※厩は「うまや」と読みます。
また、府中御殿については江戸時代に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』にも記載されております。
舊蹟 御殿跡
(中略)
斯かる舊跡の故にや、東照宮この地に御殿を造榮ありて、遊獵の草舎などなしたまひき、寛永中回祿に遇て再榮ありしが、正保の頃又鬱収の爲に鳥有し、それより構榮の沙汰なし、享保九年に及て開墾し陸田とせらる、今村民の耕作の地なり、
引用元:蘆田伊人[1981]『大日本地誌大系10 新編武蔵風土記稿 第4巻』(雄山閣)
P.351「新編武蔵風土記稿巻之九十二 多磨郡之四 舊蹟御殿跡」
※「斯かる」は「かかる」と読みます。意味は「このような」。
※「舊跡」は「きゅうせき」と読みます。意味は「旧跡」。
※「遊獵」は「ゆうりょう」と読みます。意味は「遊楽のために狩りをする事」。家康公の場合、主に鷹狩り。
※「回祿」は「かいろく」と読みます。意味は「火災にあう事」「炎上する事」。
※「烏有」は「うゆう」と読みます。意味は「全くない事」「何も存在しない事」。
上記の文から、府中御殿は寛永年間(1624年〜1645年)に火災に遇うも再建され、しかし正保年間(1645年〜1648年)にはまた無くなり、その後、享保9年(1724年)に御殿跡地が開墾されて田んぼとなり、地元の村民たちの耕作地となった事が分かります。
なお、引用文の中略部分については、古来からの由縁や国司についての由縁などが説明されています。
家康公の建てた御殿については、鴻巣御殿跡や船橋御殿跡を訪れた事がある筆者ですが、今回その列に府中御殿跡も加わりました。
鴻巣御殿は文禄2年(1593)に、船橋御殿は慶長19年(1614)頃に建てられたので、それらの御殿よりも早い時期に建てられたのがこの府中御殿という事になります。
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看板の「徳川家康の棺が逗留」という項目については、非常に興味があります。
特に「1,617年(元和3年)に家康の霊柩が久能山から日光に移葬される際の逗留と法要の場となった」という一文は、大変重要です。
なお、家康公のご棺は元和3年(1617年)3月15日に駿府の久能山を出発し、府中御殿には同月21日〜22日(23日までとする説もあり)に逗留していました。
質問
徳川家康が久能山から日光山へ改葬された道順が載っている本。回答
元和3年(1617)3月15日、家康の霊柩は、久能山から日光山に移されるために出発しました。富士山麓の善徳寺(15日)、三島(16・17日)、小田原(18・19日)、中原(20日)、府中(21-22日)(『東武実録』によると府中に23日まで宿泊)、仙波(23-26日)、忍(27日)、佐野(28日)、鹿沼(29-4月3日)を通り、4月4日に日光山の座禅院に到着したということです。引用元:レファレンス共同データベース
提供館:東京都江戸東京博物館 図書室
ここに家康公のご棺が逗留したという事は、やはりここも「家康公ゆかりの地」として大きな意味がある史跡なのだと思います。
そういう意味では、都内の家康公スポットとして、やはりファンなら一度は訪れてみてはいかがでしょうか。
順路
最寄駅はJR武蔵野線・JR南武線「府中本町駅」下車、徒歩1分で到着します。
府中本町駅の改札を出て右を向くと、駅と隣接しているので史跡が見えます。
史跡の入口は、府中街道と鎌倉街道の丁字路に面しています。
標石によると、国史跡としては平成21年7月23日指定との事です。
反対側を見ると、平成30年3月16日建設の文字が彫り込まれております。
なお、標石の裏面には「文部科学省 府中市」と掘られております。
また、題字は高野律雄府中市長との事です。
武蔵国府・国司館
史跡の全景は写真の通りです。
入口正面から奥にかけて、武蔵国府跡の建物跡が並びます。
入口の一番近くには、当時の様子を復元した模型が展示されております。
入口右手奥には、管理事務所があります。
この管理事務所で「武蔵国府スコープ」というVRスコープを無料貸出しています。
武蔵国府スコープ(VRスコープ)無料貸出
広場内の各所に、写真のような武蔵国府スコープのVRポイントが設置されております。
VRポイントは全部で5か所あります。
ポイントごとに案内の看板が設置されており、その看板のQRコードをスマートフォンで読み込むと、簡易版のVRを楽しむことができますが、やはりここは武蔵国府スコープを借りてみる事をオススメいたします。
この再現CGは中々のクオリティーで楽しめます。
さらに、貸出は無料ですので、ぜひご利用してみてください。
写真の管理事務所で借りられます。
筆者が訪れた際は、窓口のスタッフさんにとても気さくで親切なご対応を頂きました。
この武蔵国府スコープを使用すると、各所に設置されたVRポイントごとに「向いている方向に連動した当時の風景を再現したCG」を見ながら、同時にヘッドホンで音声による説明を聴くことができます。
武蔵国府の国司館復元模型
1/10スケールで再現された武蔵国府の国司館の模型が展示されております。
武蔵国府の国司館復元模型
この復元模型は、武蔵国府の国司館の8世紀前半の姿を推定復元したものです。四面に廂がつく格式の高い建物である主殿を中心に、脇殿、付属建物を10分の1のサイズで復元しました。主殿の前の広場では、国司が赴任した時の儀式が行われている様子を再現しました。『武蔵国府スコープ』(VR映像)も合わせてご覧ください。
※主殿左側の色の異なる表示は、関連建物(竪穴建物)跡の範囲を示したものです。引用:現地看板
※廂は「ひさし」と読みます。
模型は写真奥の小さな建物が付属建物、その手前の大きな建物が主殿、左手の建物が脇殿となっております。
付属建物
付属建物は、大きさ的に主殿や脇殿と比較すると小さいです。
付属建物
主殿・脇殿とともに使用していた掘立柱建物です。規模は、桁行(東西)3間(7.11m)×梁行(南北)2間(4.74m)で、正殿・脇殿と同じ奈良時代前半(8世紀前半)の建物と考えられます。
国司などが使用する生活用具、儀式・饗宴で使う備品を保管した建物と考えられます。引用:現地看板
関連建物(竪穴建物)
こちらは、他の建物跡と異なり柱は立っておらず、色違いの舗装で位置を示すのみとなっております。
この史跡では唯一の竪穴建物だそうです。
竪穴建物とは、竪穴式住居のように地面を掘り込んで建てられた建物です。
他の建物は掘立柱建物で、復元展示を見ての通り柱を立てて建てられた建物となっております。
関連建物(竪穴建物)
唯一の竪穴建物です。正殿など他の建物群と同じ奈良時代前半(8世紀前半)の建物と考えられます。規模は、南北6.99m×東西5.95mです。
カマドの中から漆の付着した土器や、坩堝(金属を溶かす容器)として使われた土器などが出土していることから、住居としてではなく、他の建物の営繕などをおこなうための作業場として使われたと考えられます。
※竪穴建物=地面を円形や方形に掘り窪め、複数の柱を建てて骨組みを作った上に、植物や土で屋根を葺いた建物のこと。引用:現地看板
※坩堝は「るつぼ」と読みます。
主殿
こちらが、武蔵国府の主殿跡です。
主殿というだけあって、この建物が中心的な建物だったようです。
主殿
奈良の都から赴任した国司がその在任の期間中に暮らした館の中心建物です。四面に廂を持った格式の高い四面廂掘立柱建物で、規模は桁行(東西)7間(15.77m)×梁行(南北)6間(11.5m)です。脇殿・付属建物と同じ奈良時代前半(8世紀前半)の建物と考えられます。
この建物は、国司の生活の場であるとともに、様々な儀式や饗宴にも使われた、国司館のなかでもっとも重要な建物です。ここでは、全ての柱を直径30cm、高さ2.4mで復元し、建物全体の大きさをイメージできるように整備しました。
※掘立柱建物=地面に穴を掘って柱を立てる方法で建てられた建物引用:現地看板
脇殿
こちらは脇殿です。
主殿の脇に建つような位置関係に配置されております。
脇殿
主殿・付属建物とともに使用していた国司館の中心的な建物です。規模は、桁行(南北)8間(18.97m)×梁行(東西)3間(5.96m)で、正殿・付属建物と同じ奈良時代前半(8世紀前半)の建物と考えられます。
国司とその従者などが仕事や生活で使用していた建物です。主殿が東西に長いのに対し、脇殿は南北に長いのが特徴で、この二つの建物とその前庭では、饗宴や儀式が行われたと考えられます。引用:現地看板
大型円形土杭
大型円形土杭の跡は、竪穴建物跡同様にその位置が示されているだけの状態となっております。
他の建物については一定の説明がなされている所ですが、この建物の用途は不明という事です。
大型円形土杭
正殿など他の建物群と同じ奈良時代前半(8世紀前半)の建物と考えられます。すり鉢状の形状で、直径約5.50m、深さ約3m、底に近いところが、さらに直径約1.6mの範囲で円筒状に落ち込んでいました。
用途は不明ですが、食物貯蔵庫や氷室(氷の貯蔵庫)の可能性が想定されています。中から、「□館」と書かれた墨書土器(須恵器)が出土しましたので、この場所が国司館であったことが裏付けられました。引用:現地看板
※氷室は「ひむろ」と読みます。
府中御殿(家康御殿)
家康公ファンの筆者にとって本命となる「府中御殿(家康御殿)」については、見物できる史跡らしい史跡(建物や跡など目に見える痕跡)はありませんでした。
写真の看板が立っている、武蔵国府スコープのVRポイント4が唯一の家康公に関連する説明に触れられるスポットとなっております。
実は、家康公に関連する史跡がある事を知り、後日改めて見てきましたので次項に追記いたします(追記:令和元年10月19日)。
府中御殿井戸跡
実は、この「国司館と家康御殿史跡広場」のフェンスの外(JR府中本町駅との間の通路)に、家康公の建てた府中御殿の井戸跡があります。
府中御殿 井戸跡 発見場所
この仮設通路の折れ曲がった部分から、徳川家康が造った府中御殿の井戸が発見されました。今は、埋め戻されて地下(地表より約80cm下)に保存されています。
徳川家康にも水が供せられたかもしれないこの井戸は、内径で1.8mを測る規模の大きな井戸です。
井戸は、焼けた壁土などで埋まっており、府中御殿が正保年間(1644〜1648年)に、火災にあっている記録とも合致しています。
また、井戸内からは、徳川将軍家を象徴する三葉葵紋が付く鬼瓦も見つかっています。三葉葵紋:ウマノスズクサ科カンアオイ属の植物の葉を模して作られた家紋です。
出土した鬼瓦の紋は葉脈が省かれているようですが、周囲の円からの葉柄の付き方が江戸初期のと一致しています。※仮設通路について
この仮設通路は、当地で史跡整備工事が始まるまでの間、南側マンションの公開空地とを結ぶための施設です。(史跡整備工事時、撤去されます)府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課
つまり、この井戸跡に見える井戸の石などは複製であり、本物の井戸跡は80cm程下に埋まっているようです。
府中御殿井戸跡へ向かうには、武蔵国府跡(国司館地区)史跡広場「国司館と家康御殿史跡広場」とJR府中本町駅の間にある通路を通ります。
通路の途中でコの字形に折れ曲がっている部分が、府中御殿井戸跡です。
実物の井戸跡は先述の通り地中に埋まっているとはいえ、復元の井戸を見ることができます。
井戸の直径の大きさなど、さすがは天下人・家康公の建てた御殿という所です。
武蔵国府跡(国司館地区)夜間ライトアップ
夜間はライトアップされるとの情報を見つけたので、早速訪れてみました。
柱を下からライトで照らすそうですが、それらしい明かりが見えません。
やはり、街灯の明かり以外が全く見えません。
結論、ライトアップはされておりませんでした。
ご参考までに今回筆者が訪れた時間帯は、10月某日21:55頃です。
ライトアップにつきましては、検索すると確かに柱を下から照らしている画像が出てきますので、よく調べれば詳細な条件が判明するかもしれません。
さいごに
「家康公ゆかりの史跡」というには、正直なところ少々期待はずれでした(府中御殿跡の扱いが明らかに武蔵国府跡の「おまけ」という印象。家康公の棺が逗留したとか、結構重要な話題があるのにと思うのは筆者だけでしょうか……)。
国史跡の指定を受けている国司館跡を中心に整備したと看板に書かれており、そう考えると武蔵国府跡を中心とした構成になっている事は仕方ないのかもしれません。
ただ、武蔵国府跡として楽しむには十分に魅力的で楽しめるスポットだと思います。
無料で貸し出してくれるVRスコープも中々で、本来あまり飛鳥時代〜奈良時代には興味のない筆者でも十分に楽しめた史跡です(結局、1時間くらい見学していました)。
最寄駅からも抜群に近いですし、一度見学に訪れるのは十分にありだと思います。
案内情報
名称:武蔵国府跡(国司館地区)史跡広場「国司館と家康御殿史跡広場」
住所:東京都府中市本町1丁目14-14
交通:JR武蔵野線、JR南武線「府中本町駅」徒歩1分
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ついでに見たい付近の武蔵国府跡
(記事は近日中に公開予定)
今までに訪れた徳川家康公ゆかりの御殿跡



