二ヶ領用水とは、徳川家康公が小泉次大夫に命じて作らせた用水路であり、主に現在の神奈川県川崎市を縦断するように流れている神奈川県最古の人工用水路です。
慶長4年(1599年)に普請が始まり、慶長16年(1611年)に竣工を迎えるという、実に12年にも及ぶ難工事でした。
二ヶ領用水という名前の由来は、江戸時代2つの領(稲毛領と川崎領)に流れていた事に由来します。
はじめに
二ヶ領用水は令和2年3月10日に、遺跡関係の文化財として国登録記念物に正式決定しました。
国文化財への登録は、用水路として全国で2件目だそうです。
【参考サイト】
川崎市:二ヶ領用水が国登録記念物(遺跡関係)に登録されました!
二ヶ領用水とは
そもそも二ヶ領用水は普通の用水路と何が違うのでしょうか。
まずは、二ヶ領用水の歴史に迫ってみたいと思います。
(そういうのは抜かして早く二ヶ領用水を見たい方はこちらをクリック)
徳川家康の関東入国
天正18年(1590)8月、前月に小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉に命じられ、徳川家康が関東に入国しました(「江戸御打入り」ともいう)。これにより関東240万石を領した家康は、水陸交通の要衝地である江戸を拠点として早速に領国経営を始めます。その一つとして、小田原北条氏時代の戦乱で荒廃した地域を復興させ、さらに安定した経営基盤を築くための地域開発、灌漑治水事業に積極的に取り組みました。(中略)また地方巧者と呼ばれる治水や用水など土木技術を持った人材を登用し、彼らの技術力をもって事業を実践させました。その中で夙に有名なのが、伊奈流と称する土木技術をもった代官頭伊奈忠次ではないでしょうか。荒川や利根川、鬼怒川など大河川の治水工事を行うとともに、用水堀の堰を作り新田開発も行っています。
このような家康の関東入国直後から始まる地域開発の中で、(中略)二ヶ領用水の開削工事も始まったものと考えられます。そして、その工事を指揮した代官小泉次大夫も、先の伊奈忠次と同様に地方巧者として期待され、登用された人物でした。
引用元:川崎市民ミュージアム[2011]『「二ヶ領用水竣工400年記念 二ヶ領用水ものがたり」図録』P.6
家康公の江戸移封においては、門井慶喜[2016]『家康、江戸を建てる』(祥伝社)で伊奈忠次による「利根川東遷事業」や、井の頭恩賜公園に残る「七井の池」などが描かれましたが、二ヶ領用水もそうした領国開発の一環として行われたことが分かります。
【関連記事】
伊奈流と称する土木技術をもった代官・伊奈忠次について
井の頭恩賜公園に今も残る「七井の池」
家康公が関東に移封された当初、実質的な石高は120~150万石程度に過ぎず、しかし家康公は関東の広大な未開発の領地を開発する事により、その石高を実際に240万石レベルにまで高めていきました。
そうした大規模な領地開発の一環として、二ヶ領用水の開削事業も位置づけられていたようです。
では、この二ヶ領用水開削を任された小泉次大夫という人物は一体何者なのでしょうか。
小泉次大夫って誰?
二ヶ領用水の流れる川崎市では、小学校の郷土史の授業で「にかりょーよーすい」「こいずみじだゆう」という名前が出てきますが、筆者の経験談として当時「二ヶ領用水、あんな川になんか全く興味ない」「小泉次大夫、誰だよそいつ」と思った記憶があります。
ですが、後に日本史に興味を持つようになり、家康公のファンとなり関連する史跡などを調べて見物に行くようになった所で、再びこの「二ヶ領用水」と「小泉次大夫」という名前に行き当たる事となりました。
では、この小泉次大夫という人物は一体どんな人物だったのでしょうか。
天正十八年(一五九〇)、つまりは小田原征討が行われ、家康が駿府から江戸へ本拠を移したとき、多摩川は流路を変えるほどの大氾濫を起こした。家康は、多摩川沿いの農村を復興させるとともに、新しい農業用水路を開削することにより、農業生産力の拡充を目指した。
復興からの飛躍という困難な課題を家康から命じられたのが小泉次大夫だった。
小泉氏は、駿河の今川氏が氏真の代に滅亡すると、家康の配下として召し抱えられた。次大夫は、今川氏の家臣時代から土木巧者として知られ、二ヶ領用水開削では、その手腕を期待され、困難な事業の責任者として抜擢されたのである。
引用元:神奈川歴史散歩の会[2018]『神奈川ふるさと歴史散歩』(株式会社洋泉社)P.127~P.128
何と、小泉次大夫はあの戦国大名・今川義元の家臣として、土木技術の腕を知られた人物だったようです。
今川家の治めていた駿河国も、安倍川などの氾濫・水害に悩まされていたようですし、小泉次大夫は相当な「敏腕治水家」であったのだろうと思われます。
なぜ家康公は二ヶ領用水の普請を小泉次大夫に命じたのか?
小泉次大夫という人物について、もう少し深く調べてみると、以下の事が分かりました。
小泉次大夫と開削工事
二ヶ領用水の開削工事の指揮をとったのが、代官小泉次大夫でした。次大夫の出自については諸説ありますが、共通しているのは駿河国富士郡で治水土木技術者として活躍し「樋代官」とも呼ばれた植松家の出身で、今川氏、武田氏に使えた後、徳川家康に召されたということです。なお小泉の姓は、小泉郷に居住していたことにちなみますが、家康が小杉御殿において常に次大夫を「小泉」と呼んでいたから、という説も残っています。
さて、家伝ともいえる治水土木技術を持った次大夫を登用し、家康は多摩川流域の灌漑治水の工事(六郷用水と二ヶ領用水の開削)を担当させました。そして慶長6年(1601)には稲毛・川崎の代官職に命じられ、次大夫は名実ともに用水開削工事の責任者になったといえるでしょう。
引用元:川崎市民ミュージアム[2011]『「二ヶ領用水竣工400年記念 二ヶ領用水ものがたり」図録』P.9
前段では、戦国時代に名を馳せた今川家・武田家に仕え、その治水土木技術に磨きをかけていた事が分かります。
また、小泉姓の由来については、家康公が小杉御殿で「小泉」と呼んでいた説が挙げられています。
【関連記事】小杉御殿について
加えて後段では、代官に任命されて名実共に責任者となったという、家康公からの信認の厚さを物語る話となっております。
これらのことから、小泉次大夫という人物は、実はすごい人だったという事、そして家康公とのつながりも見えてきました。
二ヶ領用水が出来るまで
二ヶ領用水の開削工事は、次のようにして行われました。
2 二か領用水の開削
稲毛川崎二か領用水の開削事業(中略)入部間もない頃に江戸近郊の開発の一環として、吉次自らが多摩川の治水の重要性と分水による人工用水の必要性を家康に進言したと思われる。
小泉次大夫は、二か領用水の開削に先立ち多摩川の流路の変遷や治水工事のための地形につき、周到な実地検分を行ったとみることができる。多摩川は天正十七年(一五八九)、同十八年の二年連続の大洪水にみまわれ、その修復が急務であった。この大洪水により、多摩川の流路は大きく変化した。(中略)したがって、小泉次大夫が人工用水の開削に着手したのは多摩川の流路が北遷した直後であり、かつての南流していた旧河道敷を利用しながら開削工事を実施したとみることができる。
(中略)徳川氏の多摩川流域の開発については、江戸湾に面した、用水源に困難であった多摩川下流の平野部、すなわち川崎・六郷領を予定していた。しかし、近くに取水源を開設することが困難であったため、取水口を上流に溯らせて、川崎領では多摩川の旧河道を利用し稲毛領に存在した諸用水を統合していく形で久地村(川崎市)の周辺まで、六郷領では対岸の和泉村(狛江市)にまで到達することになったともみられるのである(菅野雪雄「稲毛川崎二ヶ領用水と条里制水路(上・下)」、『武蔵野』三〇九・三一二)。
引用元:村上直[2004]『江戸近郊農村と地方巧者』P.104~P.105
※文中の「吉次」は小泉次大夫吉次の事です。
上記の文献から、二ヶ領用水の開削工事はまず川崎の平野部に用水路を設置しようとしたものの、その付近では取水口(用水路に流す水を確保する場所)を設置できる場所がなかったので、結果として上流の地点に取水口を設置して、そこから下流の平野部に用水路を開削したようです。
【関連記事】小泉次大夫が設置した小杉陣屋の跡地
それでは、開削から約400年後となる現在の二ヶ領用水を見てみましょう。
二ヶ領用水の見所
二ヶ領用水は全長約32kmにも及ぶため、今回はその中でも見所を紹介いたします。
近年、二ヶ領用水を徒歩で歩いて、踏破するという方もいらっしゃるそうですので、興味が湧いたらぜひ挑戦してみてください。
二ヶ領用水中野島取入れ口(上河原取水口)
二ヶ領用水中野島取入れ口(上河原取水口)は神奈川県川崎市多摩区布田35付近にある、二ヶ領用水の起点となる取水口です。
布田橋交差点側からだと、見下ろす角度で見られます。
一級河川の多摩川から水を取り、下流へと流れていきます。
中野島取入れ口には、写真のような案内看板も設置されております。
上の写真は、二か領用水側から取水口川を見た写真です。
案内情報
名称:二ヶ領用水中野島取入れ口(上河原取水口)
住所:神奈川県川崎市多摩区布田35付近
交通:JR南武線・稲田堤駅徒歩約15分
二ヶ領用水中野島取入れ口(上河原取水口)稲田堤は桜の名所
二ヶ領用水沿いには桜の名所が多いですが、中野島取入れ口付近も桜の名所です。
取水口から少し歩くと、二ヶ領用水沿いに桜並木が続きます。
遊水公園のように整備されており、水面近くまで下りて楽しむこともできます。
地元の方々が散歩などによく利用している様子でした。
二ヶ領用水には野生のカルガモも生息しております。
とても良い散歩道でした。
二ヶ領用水宿河原取入れ口(宿河原取水口)
二ヶ領用水の取水口は中野島取入れ口の他に、もう1つあります。
それが、この宿河原取入れ口です。
筆者の訪れた時期には、工事中でした。
また、宿河原取入れ口には、二ヶ領せせらぎ館という施設もあります。
また、付近には二ヶ領用水・宿河原堰についての案内看板も設置されております。
宿河原取入れ口付近も、桜の名所です。
案内情報
名称:二ヶ領用水宿河原取入れ口(宿河原取水口)
住所:神奈川県川崎市多摩区宿河原1丁目4
交通:JR南武線・小田急線 登戸駅徒歩約6分
船島稲荷大明神
二ヶ領用水・宿河原取入れ口付近には、船島稲荷大明神という神社があります。
二ヶ領せせらぎ館の裏手側にありますので、ぜひ参拝してみてください。
案内情報
名称:船島稲荷大明神
住所:神奈川県川崎市多摩区宿河原1丁目6−6
交通:JR南武線・小田急線 登戸駅徒歩約8分
二ヶ領用水宿河原堤桜並木
二か領用水は宿河原取入れ口から少し進むと、二ヶ領用水の中でも屈指の桜の名所・お花見スポットとして評判の、宿河原堤桜並木があります。
筆者の訪れた時期は、ちょうど桜が満開で大変見事な景色でした。
また、この桜並木の区間は二ヶ領用水沿いに遊水公園として整備されており、水と桜の組み合わせがまた見事な名所です。
途中、JR南武線と交差しますが、陸橋の下をくぐって通行できます。
間近で見る電車は迫力がありました。
案内情報
名称:二ヶ領用水宿河原堤桜並木
住所:神奈川県川崎市多摩区宿河原1丁目8−17付近
交通:JR南武線・小田急線 登戸駅徒歩約7分
二ヶ領用水・八幡下圦樋
二ヶ領用水沿いに進むと、八幡下圦樋の記念碑が設置されております。
明治43年4月竣成の八幡下圦樋は、今回の戦国時代末期から江戸時代初期にかけて小泉次大夫が開削工事したという時期からは時代的に離れますが、逆に言えば長い年月をかけてその時代その時代の人々によって大切に利用され続けてきたという歴史の重みを感じます。
八幡下圦樋の記念碑には、その由来を示す碑文も設置されております。
案内情報
名称:二ヶ領用水・八幡下圦樋
住所:神奈川県川崎市多摩区宿河原6丁目13
交通:JR南武線・宿河原駅徒歩約5分
二ヶ領用水・五ケ村堀と八幡下の堰
八幡下圦樋からもう少し進むと「五ケ村堀と八幡下の堰」という史跡があります。
何と、二ヶ領用水と水路が立体交差するという地点です。
石製の樋で二ヶ領用水の上を水路が通過するという構造です。
水路を上から見ると、このようになっております。
この史跡は大正13年に作られた物だそうです。
案内情報
名称:二ヶ領用水・五ケ村堀と八幡下の堰
住所:神奈川県川崎市多摩区宿河原6丁目14
交通:JR南武線・宿河原駅徒歩約7分
二ヶ領用水久地の合流点
二ヶ領用水の取水口は「中野島取入れ口」と「宿河原取入れ口」の2か所がありますが、それらが合流する地点がJR南武線「久地駅」すぐ傍にあります。
下の写真が二ヶ領用水の合流地点ですが、写真左側が中野島取入れ口、右側が宿河原取入れ口からの流れとなっております。
案内情報
名称:二ヶ領用水・久地の合流点
住所:神奈川県川崎市高津区久地4丁目13−2付近
交通:JR南武線・久地駅徒歩約1分
久地円筒分水
久地円筒分水は次大夫による開削工事当時に設置されたものではなく、昭和16年に設置されたものですが、その特徴的なシルエットは二ヶ領用水を象徴するスポットとなっております。
久地円筒分水は立地的に周辺の駅から少々歩かなければなりません。
二ヶ領用水・久地円筒分水とは
久地円筒分水が設置される前は、久地分量樋が設置されており、これで各村への水の配分がされていたようです。
案内看板には、久地円筒分水の構造が示されております。
また、二か領用水は「土木学会選奨土木遺産2012」に認定されている旨の看板も設置されております。
この久地円筒分水等を設計した平賀栄治氏の顕彰碑も設置されております。
久地円筒分水が設置された当時の写真も案内看板に示されておりました。
二ヶ領用水・久地円筒分水
こちらが、久地円筒分水です。
久地円筒分水は桜の名所でもあります。
また、かなり近くまで近づいて見る事が出来ます。
円筒から外側に流れる水が、各地へ続く用水路に分けられていきます。
上の写真奥に続く水路は川崎堀と呼ばれ、これが二ヶ領用水の下流に流れる水路です。
上の写真は手前側が川崎堀です。
久地円筒分水から二ヶ領用水(川崎堀)を進むと野生のカルガモに出会いました。
また、二ヶ領用水には大きな見事な鯉も生息しております。
案内情報
名称:二ヶ領用水・久地円筒分水
住所:神奈川県川崎市高津区久地1丁目34
交通:JR南武線・武蔵溝ノ口駅、東急田園都市線・溝の口駅 徒歩約14分
二ヶ領用水と大山街道の交差・大石橋
二ヶ領用水を久地円筒分水から先に進むと、武蔵溝ノ口駅付近で大山街道の大石橋と交差します。
この近辺はかつて、卸問屋が栄えて賑わっていたようです。
案内情報
名称:二ヶ領用水『溝口・二子宿の問屋跡』・大石橋
住所:神奈川県川崎市高津区久地3丁目12
交通:JR南武線・武蔵溝ノ口駅、東急田園都市線・溝の口駅 徒歩約6分
二ヶ領用水と中原街道の交差・神地橋(ごうじばし)
さらに二ヶ領用水を進むと、武蔵中原駅と武蔵小杉駅の間くらいで、中原街道の神地橋と交差します。
かつて、二ヶ領用水の水を使ってこの界隈で育てられた米は「稲毛米」として、江戸の人々に食べられていたようです。
なお、この中原街道を上ると、かつて家康公も利用した小杉御殿跡や、小泉次大夫が陣屋を設置した跡地の陣屋稲荷などの史跡があります。
【関連記事】付近の史跡
二ヶ領用水の神地橋から徒歩10分程度ですので、ぜひ寄り道してみてください。
案内情報
名称:二ヶ領用水・神地橋
住所:神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目973−3付近
交通:JR南武線・武蔵中原駅 徒歩約11分
小杉以降の下流域
二ヶ領用水沿いに進むと、小杉以降の下流は暗渠になっている場所が多く、どこを流れているのか追いかけるのが一気に難しくなります。
稲毛・川崎二ヶ領用水余剰水取水口跡
JR南武線「平間駅」と「鹿島田駅」の間くらいにある、稲毛・川崎二ヶ領用水余剰水取水口跡が、かろうじで確認できる史跡ポイントとなっております。
南武線の線路と交差した直後の場所に、案内看板が設置されております。
付近には、別の案内看板も設置されており、二ヶ領用水が日本で最初の工業用水だったことが分かります。
二ヶ領用水を取水口から追いかけてきましたが、ここから先は追いかけようがなく、本ブログではここを今回の旅の終着点といたしました。
なお、川崎市内には、二ヶ領用水の開削工事をした小泉次大夫の銅像があります。
案内情報
名称:二ヶ領用水 稲毛・川崎二ヶ領用水余剰水取水口跡
住所:神奈川県川崎市幸区鹿島田2丁目1
交通:JR南武線・平間駅 徒歩約8分
二ヶ領用水を作った小泉次大夫の銅像
実は、川崎市内には小泉次大夫の銅像があります。
JR東海道線・京浜東北線・南武線「川崎駅」下車、徒歩約15分の所にある妙遠寺の境内にあります。
偉人の銅像としては、かなり小さいサイズです。
ですが、これが中々に趣のある佇まいの銅像です。
小泉次大夫は二ヶ領用水を竣工させた後、元和5年(1619年)に代官職を養子の吉勝に譲り、自らは小杉御殿近くにあった妙泉寺を川崎領砂子に移すと共に、その寺名を妙遠寺に改めて隠居しました。
その妙遠寺こそが、この次大夫の銅像が建立されている妙遠寺です。
元和9年(1623年)12月8日没、享年85歳。
泉田二君功徳碑
妙遠寺の境内には、二ヶ領用水を作った小泉次大夫と、川崎宿の財政再建に尽力した田中休愚、両名の功績を讃えて石碑が建立されております。
この石碑はかなり大きいです。
小泉次大夫と田中休愚、二君の功績について案内看板に説明が書かれております。
石碑上部の拡大写真です。
小泉次大夫の銅像を見に妙遠寺を訪れる際は、ぜひこの泉田二君功徳碑も見ていくことをおすすめします。
案内情報
名称:小泉次大夫銅像・泉田二君功徳碑(日蓮宗長繼山 妙遠寺)
住所:神奈川県川崎市川崎区宮前町6−5
交通:JR東海道線・京浜東北線・南武線「川崎駅」徒歩約15分
ホームページ:https://myouonji.myouonji.net/
さいごに
今回は、家康公が命じ、小泉次大夫が普請した二ヶ領用水を訪れました。
ちょうど、桜の綺麗な時期でしたので、随所で見事な桜を楽しむこともできました。
また、小杉御殿の近くの区間では、桃の花が続く区間もあり、大変美しかったです。
このブログを通して、少しでもいいなと思ったらぜひ現地を訪れてみてください。
きっと、面白い発見に出会えるのではないでしょうか。