小山評定跡碑は、栃木県小山市中央町1丁目1-1にある記念碑で、同地は「小山評定」が行われた地です。
日本史上最大の野戦合戦「関ヶ原の戦い」の直前に、上杉討伐軍(会津討伐軍)を反徳川勢力討伐軍に転換させた「小山評定」が行われました。
まさに、「関ヶ原の戦い」開戦前の見所の1つがここで行われたと思うと、感慨深いものがあります。
また、記念碑の隣にある小山御殿広場は、小山御殿の跡地です。
小山評定跡碑までの道のり
徳川家康公による伝説の軍議「小山評定」が行われた場所へは、JR小山駅西口から徒歩で向かいます。
このJR小山駅といえば、実は有名な立ち食い蕎麦屋がありますので、そちらは後ほどご紹介したいと思います。
JR小山駅西口から外に出たら、ロータリーの奥にある県道263号線「祇園通り」を道なりに進みます。
ロータリーには「徳川家康決断の地」「開運 小山評定」と書かれた巨大看板が立っています。
もう一対の看板には「本場結城紬ユネスコ無形文化遺産登録」と書かれています。
まさか、かつて家康公が小山評定を開いた街が、今ではユネスコ無形文化遺産に登録される伝統工芸の街だとは予想外の情報で驚きました。
JR小山駅西口から続く「祇園通り」を進んでいきます。
「祇園通り」には、葵の御紋と共に「日光街道 小山宿 開運のまち」と書かれた旗が掲げられています。
さらに「祇園通り」を進んでいくと、歩道橋のある大きな交差点に着きます。
この「祇園通り」と「小山評定通り」が交差する十字路までくれば、もう小山評定跡碑は目前です。
交差点の歩道橋からは見晴らしがよく、新築の立派な小山市役所が見えます。
ちなみに、平成28年(2016年)当時の様子は、下の写真の通り古い小山市役所の建物が奥にあるという感じでした。
小山評定跡碑
現在、小山評定が行われた場所には記念碑が1つありますが、その碑文以外に案内看板等は設置されていません。
立派な市役所を建てる予算で何か設置してくれれば良いのにJR小山駅の駅前で、パンフレットを入手できます。
当ブログでも「小山評定とは何か?」について、簡単にご紹介したいと思います。
小山評定とは?
「天下分け目の関ヶ原」でお馴染みの「関ヶ原の戦い」は、慶長5年9月15日(1600年10月21日)に美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦合戦です。
徳川家康公率いる東軍約74,000~104,000と、石田三成ら(総大将は毛利輝元)西軍約80,000超の兵力が、関ケ原にて激突しました。
この合戦の規模は、日本史上最大の野戦合戦です。
ですが、家康公率いる東軍は元々、豊臣家に逆心(裏切るつもり)ありと認定された会津の上杉景勝を討伐するために、幼少の豊臣秀頼の代理として家康公が“豊臣軍”を率いて出陣した軍勢でした。
ところが、上杉討伐に向かう途中の慶長5年7月24日(1600年9月2日)、家康公が率いる“豊臣軍”は下野国小山に布陣しますが、そこに上方で石田三成が挙兵したという報告が届きました。
翌日の慶長5年7月25日(1600年9月3日)、家康公は豊臣軍の諸将を集めて小山にて軍議を開きます。
この軍議が「小山評定」です。
小山評定に参加した主な戦国大名・武将
【徳川家】
- 徳川家康公
- 徳川秀忠(家康公の世継ぎ)
- 本多正信(家康公唯一無二の謀臣)
- 本多忠勝(徳川家臣団最強の呼び声高い名将)
- 井伊直政(井伊の赤鬼と怖れられた出世頭)ら
【諸大名】
- 福島正則(豊臣秀吉子飼いの武将で「賤ヶ岳七本槍」の一人。反三成)
- 黒田長政(黒田官兵衛(如水)の嫡男。小山評定で重要な役割を果たす。反三成)
- 藤堂高虎(外様大名ながら家康公の信頼篤く譜代扱いを受ける大名)
- 山内一豊(妻・千代は司馬遼太郎『功名が辻』主人公。小山評定で重要な役割を果たす)
- 浅野幸長(豊臣政権では五奉行を務めた浅野長政の嫡男)
- 細川忠興(細川藤孝の嫡男であり、明智光秀の娘・細川ガラシャの夫)
- 加藤嘉明(秀吉子飼いの武将で「賤ヶ岳七本槍」の1人。反三成)
- 蜂須賀至鎮(家康公の養女で小笠原秀政の娘・氏姫の夫)
- 田中吉政(石田三成の友人。亡き豊臣秀次の側近。家康公関東移封後の三河国岡崎を治める)
- 池田輝政(家康公の次女・督姫の夫。「関ヶ原の戦い」後は初代姫路藩主になる)ら
一説によると、その他に約21名が集まったとも言われています。
議題は「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田三成らを討つべきか」。
諸将の多くは人質として大坂に妻子を残してきており、三成ら反徳川勢に加わる可能性がありました(実際に、細川忠興の妻・ガラシャは三成の人質になる事を拒んで命を絶ちました)。
しかし、あえて家康公は「家族を人質にされている武将もいるだろうから、大坂に帰っても(西軍に味方しても)遺恨は残さない。道中の安全はこの家康が保証する」と言い放ちます。
その時、秀吉子飼いの武将・福島正則が「大坂のことはいざ知らず、わしは内府(家康公の事)とともに、三成めを討ち平らげると決めたぞ」と真っ先に発言して、家康公と共に戦うことを宣言しました。
続いて、遠江国掛川城主・山内一豊が「(上方へ進軍する際に通る東海道の重要拠点である)掛川城を家康公に献上する」と進言しました。
秀吉子飼いの福島正則が真っ先に家康公支持を表明し、さらに山内一豊が自身の城を家康公に差し出すと申し出たことにより、評定に参加している諸大名は一挙に家康公支持で固まりました。
家康公は、後に「関ヶ原の戦い」における山内一豊のこの申し出を「古来より最大の功名なり」と激賞しました。
(この辺りのエピソードは、大河ドラマ化もされた司馬遼太郎先生の『功名が辻』最大の見せ場でもあります)
こうして、家康公が率いる「(豊臣家に対する謀反人である)上杉討伐のための豊臣軍」は、一転して「(豊臣家に対する謀反人である)石田三成ら討伐のための軍勢」となり、会津攻めから反転して西へ向かうことに決まりました。
ですが、実は小山評定が開かれる前夜、家康公は黒田官兵衛(如水)の嫡男・黒田長政を通して、軍議が開かれたら最初に味方するよう宣言してほしいと福島正則を説得しています。
その辺りが何とも腹黒い晩年の家康公らしい作戦なのですがさすがは百戦錬磨の家康公、見事思い通りに状況を動かしていきます。
「関ヶ原の戦い」の勝敗を分けた理由は様々にあると思いますが、家康公のこうした事前準備の用意周到さは、勝利を近づけた要因だったのではないでしょうか。
司馬遼太郎先生の『関ケ原』では、以下のように描かれていますのでご紹介します。
やがて上段に、家康があらわれた。
家康の御座ちかくには、その政治上の参謀である本多正信と、軍事上の参謀である本多平八郎忠勝がならんでいる。
「よくぞ、お集まりでござる」
と本多正信が、一同にいった。家康に直語をさせないのは、もはやこの瞬間から家康を「上様」の位置に押しあげておこうとする演出であろう。
「すでに」
本多正信が、大声をはりあげた。
「お聞きおよびのことと存ずるが、大坂にて奉行衆が秀頼様を私し、その御沙汰なりと称して兵をあげ、内大臣様を討たんずる挙に出で申した」
正信老人は、おおかたの情勢を説明した。
(中略)
正信老人の言葉がおわると、入れかわって二人の入道頭の老人が進み出た。
(おや)
と、忠氏は思った。
(山岡道阿弥殿と、岡江雪どのではないか。あの二老、なんの用があるのであろう)
ふたりは、故秀吉の御伽衆だった人物である。
(中略)
両老人は、なにか喋っている。
(聞こえぬ)
と思って耳を澄ませると、なんと、とほうもないことを家康によって喋らされているのである。
「大坂に味方したい、と思う御仁があるかもしれぬ。左様な人はいまより陣を払って領国に帰り、とくとく戦さの支度をなされよ。御邪魔だてはいたさぬ。——と内府はおおせられておりまする」
と、山岡道阿弥はいった。
(中略)
「あいや」
忠氏がいおうとしたとき、それよりも早く座の中央で半立ちになった人物がある。
福島左衛門大夫正則であった。
「待たれよ、待たれよ」
と膝ですすみ、正面まで進み出ると、
「余人は知らず、拙者儀は、いまさら大坂の治部少めに味方する筋目はござらん。なるほど大坂には妻子はいる。されど、串刺しにされるならばされよ。拙者はいちずに内府にお味方つかまつり、その御先鋒を賜って懸命に駈け働き、治部少めが肉をこの歯にて啖いちぎらんとするものじゃ」
と怒号するようにいった。引用元:司馬遼太郎[1974]『関ケ原(中)』(新潮文庫)P.515〜P.519
ここでいう「内府」とは、朝廷の左大臣・右大臣に次ぐ内大臣という官職の唐名(中国の官称に当てはめた呼び名)のことで、当時の内府は家康公が勤めていました。
したがって、内府=家康公のことを指します。
また、岡江雪はかつて北条家の家臣だった僧侶・板部岡江雪斎のことです。
そういえば「合戦の勝敗は開戦する前に、既に決まっている。合戦が始まったら、後は単なる答え合わせに過ぎない」と誰かが言っていましたが、家康公の勝利はこうした用意周到な策謀が引き寄せたのでしょうね。
小山評定跡碑
こちらが、小山評定跡です。
ご覧の通り、現在は小山市役所の敷地内にポツンと記念碑が建っているだけです。
小山評定跡碑、標石、ライトアップ用の照明、記念樹があるのみとなっています。
案内看板らしい看板の設置なども見当たりません。
夜間はライトアップされるのでしょうか?
軽くGoogle検索で探してみましたが、ライトアップ画像は見つかりませんでした。
小山評定跡碑は、大きな岩に碑文が刻まれた石板が埋め込まれている形の記念碑です。
司馬先生の『関ケ原』では、当時小山評定が行われた舞台が以下のように描かれています。
ここが、源平以来下野で威をふるった豪族小山氏の旧本丸なのであろう。
この塁のあとに、庄屋屋敷がある。家康の陣所である。
会議は、そこでおこなわれる。屋敷がややせまいために、屋敷に連結してそのうしろに三間ぶちぬきほどの広さの広間が、きょうの軍議のために建てられていた。むろん家康の携行用の野陣材料でたてられた一夜普請ではあるが。引用元:司馬遼太郎[1974]『関ケ原(中)』(新潮文庫)P.513
ですが、記念碑の周辺は開発されており、当時の跡が残ってはいなさそうです。
こちらが、小山評定跡碑の碑文です。
小山評定跡由来
慶長五年(一六〇〇)七月二十四日、徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく小山に到着しました。
このとき、石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌二十五日この地において軍議が開かれました。これが「小山評定」といわれるものです。
軍議は、三間四方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本多忠勝、本多正信、井伊直政や福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤義明、蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。福島正則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は、家康の期待どおりに決まりました。
同年九月十五日、関ヶ原の戦いがおこなわれ、東軍(徳川方)の勝利にむすびついた歴史上重要な所です。引用元:小山評定跡碑『小山評定由来』
※句読点の筆者補記あり。
こちらが、小山評定跡碑の標石です。
小山評定跡碑は昭和57年10月1日に建立されたようですが、小山市指定史跡となったのは記念碑建立前の昭和39年5月14日だそうです。
こちらは、小山評定跡碑の裏側です。
小山評定跡碑の隣には、小さな桑の木が1本あります。
この桑の木は、小山市と結城市の友好都市の盟約を締結した記念に植えられた記念樹だそうです。
冒頭でご紹介したユネスコ無形文化遺産指定を受けた「本場結城紬」ですが、小山市・結城市の両市で共通の文化・地場産業として古くから密接な関係にあり、その縁で友好都市となったそうです。
ちなみに、小山市と結城市の関係を歴史からひも解くと、まず鎌倉時代に小山氏から分かれた結城朝光が現在の結城市内に館を構え、以後は結城氏の城下町となります。
その後、天正18年(1590年)には、家康公の次男・秀康が秀吉の命により結城家の養子として家督を継ぎ、結城家18代・結城秀康となりました。
小山市と結城市には、そうした縁でもつながっていたんですね。
小山評定跡碑・小山御殿跡周辺のグルメスポット「きそば」
小山評定跡碑や小山御殿跡を訪れる際に、ぜひともお立ち寄りいただきたいのが立ち食い蕎麦「きそば」さんです。
小山評定跡碑・小山御殿跡の最寄り駅であるJR小山駅には、知る人ぞ知る立ち食い蕎麦の名店「きそば」さんがあります。
JR小山駅構内では「きそば」歴の長い駅員さんによる「きそば」愛溢れるコメントが紹介されています。
こちらが、立ち食い蕎麦「きそば」の店舗外観です。
「きそば」さんの店舗はJR小山駅・宇都宮線上りホームにあります。
カウンターテーブルの上には『きそば新聞』なるものが貼られていますので、こちらも要チェックです。
こちらが、立ち食い蕎麦「きそば」さんの「かけそば」1杯280円です。
蕎麦つゆは醤油と出汁がガツンと力強くくる関東風で、蕎麦は珍しい太めの麺です。
太麺の蕎麦は中々に珍しいのではないでしょうか?
JR小山駅をご利用の際は、ぜひご賞味あれ。
【令和4年1月3日追記】
残念ながら、令和4年1月14日をもって「きそば」さんが閉店すると発表されました。
— なかざわ製麺 代表取締役 中澤健太 (@nakazawaseimen) December 15, 2021
とても残念ですが、良い思い出として記憶に残しておきたいと思います。
美味しい蕎麦をありがとうございました。
もう1つの「小山御殿跡」記念碑がある!? 須賀神社はこちら
小山評定跡碑の隣にある「小山御殿跡」小山御殿広場
(近日中に公開予定です)
アクセス・案内情報
- 名称:小山評定跡碑
- 住所:栃木県小山市中央町1-1-1(小山市役所敷地内)
- 電話:0285-22-9668 (小山市文化振興課)
- 交通:JR小山駅西口から徒歩約8分
- 参考:小山評定と小山御殿 - 小山市ホームページ