現在大人気放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、ドラマ内で「守護大名」や「守護代」という言葉がたびたび登場しています。
また、似たような言葉で「守護(守護・地頭)」や「大名」、あるいは「戦国大名」や「譜代大名」「外様大名」という言葉も有名かと思います。
今回は、それぞれの言葉の意味や特徴、それぞれの違いについてまとめてみました。
おまけとして「侍」「武士」「武将」という言葉の意味と違いについてもまとめましたので、ぜひご覧いただき、日本史や時代劇をより一層楽しめるようになりましょう!
守護・地頭とは(鎌倉時代)
日本史の授業で「源頼朝が守護・地頭を設置した」と習い、何となく「守護・地頭」という言葉を1セットにして覚えている方もいらっしゃると思います。
しかし、本来「守護」と「地頭」は別物であって、その意味や役割(権限)なども異なります。
鎌倉時代に存在した「守護」と「地頭」について、詳しく見てみましょう。
守護とは
守護とは、鎌倉時代〜室町時代に幕府が国ごとに設置した武家の職制です。
後白河法皇が源頼朝に設置を認めた事で、地頭と併せて各地に設置されていきました。
のち、室町時代には守護職と呼ばれるようになり、与えられる権限も増していきましたが、戦国時代に織豊政権が成立すると共に守護は消滅していき、江戸時代には無くなっています。
守護に与えられた基本的な権限は「大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)」と呼ばれるもので、これは「大番催促」「謀反人の検断」「殺害人の検断」という3つの権限のことです。
大番催促とは、各国に割り振られた大番役(京や鎌倉の警護)を、各守護が責任者として自国内の御家人に振り分けることです(大番催促)。
大番催促は、後南北朝時代には廃れました。
大番催促の他には「謀反人の検断」や「殺害人の検断」ということで、謀反人や殺人者を取り調べ、処罰する権限も与えられていました。
このあたりは、現代風に言うと「警察署+裁判所」という感じに近いイメージですね。
ちなみに、よくある「年貢の取り立てや地方行政のトップ」という仕事は、実は鎌倉期の守護の仕事ではありませんでした。
のちに、室町時代に守護職が変遷していく中で、その権限が拡大されていったようです。
地頭とは
地頭とは、荘園や国衙領(公領)を管理支配するために鎌倉幕府が設置した職です。
地頭は源頼朝が後白河法皇から守護の設置と併せて任命権を認められましたが、それ以前の平安時代から既に存在しており、また室町時代にも幕府が設置していました。
地頭は荘園・国衙領において、武力により軍事権・警察権・徴税権を担保し、土地や百姓を自己の物としていました。
源頼朝(鎌倉幕府)と御家人の関係を表す言葉として、有名な「御恩と奉公」という言葉がありますが、この「御恩」は「本領安堵」と「新恩給与」の2種類に分かれます。
本領安堵は既に支配している所領の支配継続を認めるもので、新恩給与は新たな所領を与えられることです。
この新恩給与により所領を与えるにあたって、鎌倉幕府は御家人を地頭に任命する形で行っていました。
なお、ややこしいですが、鎌倉幕府による新恩給与は地頭職への補任という形で行われていましたが、それは所領そのものを支給するのではなく、所領の管理・支配の権限を認めることです。
鎌倉時代の守護には徴税権などの経済的権能が与えられていませんでしたので、地頭が積極的に荘園・国衙領に侵出することができました。
しかし、室町時代には守護に徴税権の一部や幕府の裁定を執行する権限などが追加されました。
守護は拡大した力を背景に所領内の地頭や有力者らを自らの統制下へ置き、影響力を強めていきました。
その後、守護領国制が成熟する室町時代中期までには、地頭が名実ともに消滅してしまいました。
守護大名・守護代とは(室町時代)
室町時代に入ると、守護の権限は拡大されていきました。
そうして室町時代に権限が拡大された守護のことを、守護大名と呼びます。
守護大名や守護代という言葉は、大河ドラマ『麒麟がくる』作中でも登場しましたが、守護・地頭との違いについて見ていきたいと思います。
守護大名とは
守護大名とは、軍事・警察の権限に加えて徴税権などの経済的権能を得て、一国内の領域的・一円的な支配を強化した室町時代の守護のことです。
室町幕府も当初は鎌倉時代と同様の権限を守護に与えていましたが、国内統治を一層安定させるために貞和2年(1346年)、刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権に加えました。
刈田狼藉とは、土地の知行権などを主張するために田の稲を刈り取る実力行使のことで、当時の荘園は様々な地位の人が所有権を有しているような複雑な状況にあったので、その田畑の稲を刈り取る権限を認められた上で刈り取ることを刈田狼藉と呼び、その土地の知行権を持つことを意味していました。
使節遵行(しせつじゅんぎょう)とは、不動産をめぐる訴訟に対して幕府が発した裁定を執行するための現地手続きのことです。
使節遵行の制度は鎌倉時代に始まりましたが、室町時代初頭には守護の権能に加えられ、守護の権限強化へとつながっていきました。
室町幕府は治安を確保しようとして守護の権限を強化し、守護に使節遵行権および刈田狼藉の検断権を直接付与する法令を発しました。
こうして守護の権限が強化されていき、守護大名と呼ばれるようになっていきました。
守護代とは
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代や室町時代に守護の下に置かれていた役職のことです。
守護は鎌倉幕府や室町幕府の幕政に携わることが多いため、任国を留守にする期間も長くなりました。
そのため、複数の国を兼任する守護の場合は特に、兼任した国を視察する機会は一層少なくなってしまいました。
そこで、守護は家臣の中から代官を任命して守護代とし、実際の政務を代行させたというわけです。
まさに、守護の代官で守護代という感じですね。
しかし、そうして守護大名が任国を留守にする時間が長く、一方の守護代は任国にいて実務を取り仕切っていると、徐々に守護大名よりも守護代の方が力を握るようになっていきます。
そのようにして守護大名を超えて力を握ると、守護代が守護大名に成り代わっていきます。
これが戦国大名と呼ばれるものです。
戦国大名とは(戦国時代)
戦国大名とは、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領国を一元的に支配した大名のことです。
室町時代の守護のうち、領国の統一に成功した守護や、守護に成り代わり領国を支配するに至った守護代などは、独自の領国支配や軍事・外交などを行うようになりましたが、これを戦国大名と呼びます。
ちなみに「大名」という言葉ですが、江戸時代だと「石高1万石以上の藩主」を大名と呼びますが、戦国時代以前においては「大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す」(大名 - Wikipedia)程度の意味だそうです。
戦国大名は室町幕府により与えられる守護公権のあるなしに関わらず、領国を独自に統治する権力を持っていました。
そして、家臣の統制を強化して家臣団を構成し、領国内において軍役を課す仕組みまで確立していました。
戦国時代最初の戦国大名は、北条早雲の興した後北条家です。
また、例えば大河ドラマ『麒麟がくる』で本木雅弘さんが演じた「美濃のマムシ」こと斎藤道三も、美濃の守護大名・土岐頼芸を追放して守護代から戦国大名となる「下克上」を達成していましたね。
このように、室町時代末期から戦国時代にかけては、有力な守護代らが守護大名を追い落として戦国大名となった例が非常に多くみられます。
逆に、眞島秀和さん演じる細川藤孝(幽斎)の細川家や、軍神・上杉謙信で有名な上杉家、戦国の風雲児・伊達政宗で有名な伊達家などは、守護大名から戦国大名となり、さらに江戸時代にも大名家として存続していきます。
譜代大名・外様大名とは(江戸時代)
江戸時代になると、戦国時代と異なり江戸幕府が藩を通じて全国を統治する幕藩体制が確立しました。
そのため、大名と呼ばれる言葉の意味も、戦国時代と異なり「石高1万石以上の藩主」を指すようになります。
従って、当然ですが戦国大名という概念は消滅します。
江戸時代の大名は大きく分けて「譜代大名」と「外様大名」に分けられます。
良く知られる定義は「関ヶ原の戦い以前から徳川家に従う大名」が譜代大名で、逆に「関ヶ原の戦い前後に徳川家に従った大名」が外様大名という分け方です。
譜代大名とは
譜代大名とは元々、徳川家康公が豊臣秀吉の命で関東に移封された時に、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)を始めとする譜代の武将に大名格を与えたことに由来します。
なお、それ以外の家臣は徳川家の直轄軍に編成されて、後に旗本や御家人となりました。
譜代大名の簡単な定義がWikipediaにありましたので、引用します。
譜代大名の定義
- 徳川将軍家により取り立てられた大名のうち、親藩及び、外様大名と、その支藩(分家)を除いたものを指す。
- 関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に臣従して取り立てられた大名を指す。
- 幕府の要職に就任する資格のある大名を指す。
引用元:譜代大名 - Wikipedia
このように、譜代大名とは家康公を中心に定義づけられている概念であることが分かります。
なお、願い出て例外的に譜代大名扱いを受けた大名家もあります。
これを「願い譜代」などと呼びますが、例えば大河ドラマ『真田丸』で有名になった真田家(大泉洋さん演じる真田信之は、本多忠勝の娘・稲を家康公の幼女とした上で結婚している)や、家康公への貢献著しい藤堂高虎の藤堂家などが「願い譜代」でした。
外様大名とは
外様大名とは、関ヶ原の戦い前後で徳川家に臣従した大名のことです。
譜代大名の場合、元々は豊臣政権の1大名だった家康公の家臣という立場でしたが、外様大名は豊臣政権において家康公と同じ大名家でした。
そのため、外様大名は譜代大名と比べて大領を治めていることが多い傾向にありました。
もっとも、これは譜代大名は幕政に関わらせるが知行が低い、逆に外様大名は幕政に関わらせないが知行は高いという「花か果実か、どちらかしか与えない」という徳川幕府の策による部分もありました。
しかし、外様大名に与えられた高い知行は、後に長州藩や薩摩藩らが倒幕を実現する際の資金力となってしまうのは皮肉な話です。
おまけ:旗本とは 御家人とは
徳川将軍家の直臣のうち、知行1万石以上の直臣は大名ですが、1万石未満の直臣はさらに旗本と御家人に分けられます。
旗本とは、徳川将軍家の直臣のうち石高100石以上1万石未満であり、御目見得以上(将軍に直接会える)の者のことです。
御家人とは、徳川将軍家の直臣のうち石高100石未満であり、御目見得以下(将軍に直接会える)の者のことです。
旗本の多くは知行200石から600石、御家人は米俵10俵から50俵程度の者が多くを占めていたそうです(磯田道史[2020]『カラー版 江戸の家計簿』宝島社)。
おまけ:「侍」と「武士」の違いとは?
侍と武士は同じ意味なのか、それとも違うのか、簡単にですがまとめてみました。
侍(さむらい)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。「伺候(しこう)する」「従う」を意味する「さぶらう」(旧仮名遣いでは「さぶらふ」〈候ふ/侍ふ〉)に由来する。
引用元:侍 - Wikipedia
武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」とも読みならわすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求める説など諸説がある。
引用元:武士 - Wikipedia
また、侍と武士の違いについては、以下のような違いがあるようです。
武士の身分を「士分」といい、士分は、大きく「侍」と「徒士(かち)」に分けられる。これは南北朝時代以降、戦場への動員人数が激増して徒歩での集団戦が主体となり、騎馬戦闘を行う戦闘局面が比較的限定されるようになっても、本来の武士であるか否かは騎馬戦闘を家業とする層か否かという基準での線引きが後世まで保持されていったためである。
「侍」は狭義の、つまり本来の武士であり、所領(知行)を持ち、戦のときは馬に乗る者で「御目見え」の資格を持つ。江戸時代の記録には騎士と表記され、これは徒士との比較語である。また、上士とも呼ばれる。「徒士」は扶持米をもらい、徒歩で戦うもので、「御目見え」の資格を持たない。下士、軽輩、無足などとも呼ばれる。
「侍」の内、1000石程度以上の者は大身(たいしん)、人持ちと呼ばれることがあり、戦のときは備の侍大将となり、平時は奉行職等を歴任し、抜擢されて側用人や仕置き家老となることもある。それ以下の「侍」は平侍(ひらざむらい)、平士、馬乗りなどと呼ばれる。
引用元:武士 - Wikipedia
つまり、武士の一部が侍と呼ばれており、侍は武士の中でもエリートの部類に属する存在だったようです。
以上、「守護・地頭」「守護大名・守護代」「戦国大名」「譜代大名・外様大名」の違いについてでした。
これで、歴史ドラマや歴史小説を楽しむ際も、より一層奥深く楽しめるのではないでしょうか。
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