今回は東京都江東区にある、浄土宗龍徳山雲光院を訪れました。
雲光院は徳川家康公の側室・阿茶局の発願により、慶長16年(1611年)に増上寺の高僧であった潮呑上人を開山上人として開創されました。
阿茶局の法号である「雲光院」の名が、そのまま寺の名称となっています。
阿茶局(あちゃのつぼね)とは、どんな人?
阿茶局は甲斐武田家の家臣・飯田直政の娘として生まれ、のち神尾忠重に嫁ぎました。
その後、忠重が亡くなった2年後に家康公の側室となりますが、阿茶局は戦国時代きっての才知に長けた女性であり、徳川家の奥向きの諸事一切を家康公から任されます。
引用元:雲光院像(徳川記念財団蔵)
また「大坂冬の陣」においては幕府側代表として本多正純(本多正信の嫡男)と共に、豊臣方の使者・常高院(京極高次の妻・浅井三姉妹の次女)と会談を行い、幕府側有利の和睦を成立させました。
将軍家から阿茶局への信頼は厚く、二代将軍・徳川秀忠が娘の和子を入内(天皇の妻となる女性が宮中に入る事)させる際は、その守役を阿茶局に任せました。
その功績により、後水尾天皇より従一位の官位を授けられました。
男性の大名や武将らが多く活躍する戦国時代において、阿茶局は女性ながら八面六臂の大活躍を見せて徳川家に貢献したと言えます。
寛永14年(1637年)、83歳で亡くなり雲光院(東京都江東区三好)に葬られました。
雲光院とは?
雲光院は慶長16年(1611年)、増上寺の高僧であった潮呑上人を開山上人として開創された、阿茶局の菩提寺です。
元々は中央区馬喰町に建立されたものの、火災により転々とし、現在の江東区深川に落ち着いたようです。
かつては法蔵院、浄慶院、良正院、正覚院、一言院、正光院、清心院、長源院、養寿院、仙蔵院、伝寿院、樹光院、慈清院、浄徳院、清光儲、浄心院、固貞庵、樹光庵と多くの塔頭を擁していましたが、明治維新後に独立していき、現在の姿となっております。
また、度重なる火災や空襲により、本尊や社殿、宝物や過去帳などは残念ながら全滅しているようです。
雲光院由来・沿革
開創地は中央区馬喰町付近でありましたが、明暦三年(1657年)の大火に被災し、神田岩井町に替地となり、天和二年(1682年)現在の深川の地に再び替地となりました。
阿茶局の徳川家、江戸幕府への比類の無い功績のため、家康公はじめ三代の将軍より、手厚い擁護を受け、朱印社領(しゅいんしゃりょう)も賜り、一時は寺領内に塔頭寺院( たっちゅうじいん 末寺)を十九カ寺(後に合併して十カ寺)、埼玉にも末寺を二カ寺擁した本坊寺院でありました。堂内には、神君家康公肖像、阿茶局肖像など多くの宝物、什物が安置されていました。
その後、江戸時代には幾度かの火災に遭い、本堂等の焼失もありましたが、その度に復興、明治政権下では、幕府の擁護もなくなり、厳しい時代に入りました。塔頭寺院もそれぞれ分離独立し、雲光院も塔頭寺院数カ寺を吸収合併し、容を新たに生まれ変わりました。
明治後期、大正期では、徐々に隆盛を取り戻してきましたが、大正十二年の関東大震災により本堂倒壊、住職死亡などの悲劇に遭い、昭和二十年の太平洋戦争・東京大空襲により再び全堂宇が焼失しました。震災・戦災の二度の被災によりご本尊のみならず過去帳、宝物なども全て焼失してしまいました。
戦後、昭和二十二年に本堂の再建を果たしました。以後復興期、高度成長期を経て、平成の世となり、本堂、客殿等の老朽化に伴い、平成六年五月廿一日に本格的な新本堂、新客殿建立が完遂いたしました。
雲光院には阿茶局の他にも、庄司甚内(江戸・吉原の遊郭創設者)の墓や、後藤三右衛門(第13代・後藤庄三郎)の墓もあります。
それでは、早速見てみましょう。
浄土宗龍徳山雲光院
浄土宗龍徳山雲光院は、東京都江東区三好2-17-14にあります。
山門
山門は深川の住宅街の中にあります。
近現代的な造りの山門と境内です。
山門の右側には石碑「阿茶局の墓」があります。
この石碑の側面と裏面には碑文が刻まれています。
「阿茶局の墓」
阿茶局は今川氏の臣神尾忠重の妻であつたが夫の死後徳川家康に仕え
阿茶局と称し慶長十九年大阪役のとき使者として大阪城に入り淀君に
面接して和議成立に力を尽し天和六年二代将軍秀忠の女が京都に入内
するとき母親代りとして随行するなど才女としての誉れ髙く老後は雲
光院と号し寛永十四年一月二日八十三歳にて死去し雲光院に葬られた昭和三十三年十月一日 江東区第六号
引用元:雲光院 石碑「阿茶局の墓」
山門の真正面すぐに本堂があります。
雲光院・境内
境内の本堂右側に、阿茶局の墓塔(賓篋印塔)があります。
家康公側室・阿茶局の墓塔(賓篋印塔)
こちらが、阿茶局の墓塔(賓篋印塔)です。
中央の墓塔が阿茶局の墓塔(賓篋印塔)、左側は案内看板が設置されています。
阿茶局の墓塔(賓篋印塔)は「島原の乱」と同じ年、寛永14年(1637年)に建立されたそうです。
約400年近い時を超えて、今日まで現存しているというのは大変貴重であり、こうしてお目にかかれる事に感謝いたします。
こちらが、阿茶局の墓塔(賓篋印塔)の案内看板です。
吉原遊廓の創設者・庄司甚内(甚右衛門)の墓
庄司甚内(甚右衛門)は、江戸随一の色街・吉原遊廓を創った人物です。
この3基ある石塔のうち、中央が庄司甚内の墓です。
甚内の創設した当初の吉原は、現在の浅草裏の地ではなく、日本橋人形町にありました。
現在の吉原は「明暦の大火」後の万治2年(1659年)、現在の地に出来ました。
しかしまさか、阿茶局のお墓を拝見しに行ったら吉原遊廓を創った男の墓を見ることになろうとは……予想外の出会いもまた、史跡巡りの醍醐味です。
水かけ不動尊
境内には、水かけ不動尊も安置されています。
法然上人銅像・法然上人お砂巡り
本堂の左脇には、浄土宗の開祖・法然上人の銅像と、お砂巡りがあります。
法然上人の銅像の足元を囲むように、お砂巡りがあります。
弁天社・弁天池
本堂左側に進むと、弁天社と弁天池があります。
弁天社へ向かう小道は封鎖されており、残念ながら近づくことはできませんでした。
こちらが、弁天社の扁額です。
本堂
こちらが、雲光院の本堂です。
本堂は比較的新しく建立された社殿ですが、スマートな見た目の印象を受けます。
本堂の天井は美しいステンドグラスのような感じに見えます。
賽銭箱には、徳川家を象徴する「葵の御紋」が描かれています。
こちらが、雲光院本堂の扁額です。
ふくにゃん
本堂の階段脇に、何ともキモカワイイ(?)猫の石像があります。
名前は「ふくにゃん」というらしいですが、何とも言えないかわいらしさで気に入りました。
案内情報
- 名称:浄土宗龍徳山雲光院
- 住所:東京都江東区三好2-17-14
- 電話:03-3641-7725
- Webページ:http://www.unkouin.or.jp/
- 交通:東京メトロ半蔵門線「清澄白河駅」徒歩約8分
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