大人気放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』2020年9月20日放送の第24回「将軍の器」冒頭にて、室町幕府第13代将軍・足利義輝(演:向井理さん)が襲撃を受け、壮絶な討ち死にするシーンが放送されました。
この義輝の討死シーンで、甲冑の後ろにかけられていた掛軸には「八幡大菩薩」と書かれていました。
「八幡大菩薩」とは、一体何でしょうか?
今回は、この「八幡大菩薩」という言葉の意味について、まとめてみました。
なぜ義輝の背後に「八幡大菩薩」の掛け軸があったのか?
八幡大菩薩とは、日本の仏教における菩薩の一種です。
その発祥は、欽明天皇(在位:539年?〜571年?)の頃に示現した、九州宇佐氏の氏神とされています。
のち、奈良時代に中央進出をはたし、国家鎮護の神として広まっていきます。
貞観2年(860年)に平安京の鎮守として石清水八幡宮(京都府八幡市)が勧請されると、天照大神につぐ宗廟神となります。
源頼朝の高祖父(ひいひいおじいさん)にあたる源義家は、石清水八幡宮の社前で元服する際に「八幡太郎義家」と名乗りました。
そして、かの源頼朝は鎌倉幕府の鎮守神として鶴岡八幡宮を創建しました。
こうして八幡大菩薩は源氏の氏神として、また弓矢の神・武士の守護神として全国に広まっていきました。
はちまんだいぼさつ/八幡大菩薩
八幡神を尊崇する称号。平安時代、神仏習合思想に基づき、神の本地として菩薩・権現ごんげんなどの尊号が付されたが、八幡神も、一切衆生が救済されるまでは仏の位には至らないとの誓願を立てた菩薩であるとして、大菩薩号が授けられた。天応元年(七八一)に「護国霊験威力神通大菩薩」(『東大寺要録』)、延暦二年(七八三)に「大自在王菩薩」(『扶桑略記』『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』)の号を朝廷から授けられたという。「八幡大菩薩」の称は、延暦一七年(七九八)と大同三年(八〇八)の「太政官符」にみえ、『延喜式』神名帳には「八幡大菩薩宇佐宮」と登載されている。八幡神は、欽明天皇の頃に示現した九州宇佐氏の氏神にはじまるとされるが、奈良時代、東大寺大仏造立の助成を託宣して中央進出をはたし、鎮護国家の神となった。国家と結びついた八幡神は応神天皇を主座とし、神功じんぐう皇后、比売大神ひめおおみかみ(もしくは仲哀天皇)の三座をいうようになり、貞観二年(八六〇)に僧行教が平安京の鎮守として石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請すると、天照大神につぐ宗廟神となった。さらに清和源氏の崇敬を得ると、石清水の社前で元服した源義家は八幡太郎と名乗り、頼朝は鎌倉幕府の鎮守神として鶴岡八幡宮を創建した。弓矢の神、武士の守護神として全国に広まり、地方郷村の氏神・産土神うぶすながみとしても勧請された。八幡大菩薩の姿は、右手に金剛杖をもち、光背と日輪が配され僧形で描かれて、東大寺や薬師寺の僧形八幡神像が有名である。空海・最澄・円仁は渡唐の平安を八幡大菩薩に祈り、ことに最澄は八幡宮に詣で『法華経』を講じると、大菩薩が袈裟を授けたという(『叡山大師伝』)。『続本朝往生伝』「真縁伝」は石清水八幡の本地を阿弥陀仏とする初見であるが、各地の八幡社では不断念仏が盛んとなり八幡信仰と念仏とが結びついた。嘉禎三年(一二三七)成立の『四巻伝』は、法然の中陰法要に関する記事中に「真縁伝」を引き、別当入道の孫の法然葬送の夢に八幡宮があらわれたことにより、法然と八幡宮本地である釈迦・弥陀とが一体であることを説いている。
引用元:八幡大菩薩 - 新纂浄土宗大辞典
室町幕府13代将軍・足利義輝は足利宗家の生まれですが、この足利氏は元々、清和源氏一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にありました。
つまり、義輝もまた「源氏の守護神」たる八幡大菩薩を信仰していたと思われます。
そして、義輝が二条御所にて三好義継から襲撃を受けた時に、その壁に「八幡大菩薩」の掛け軸がかけられていたという訳です。
またこの時、義輝がそらんじていたセリフ「戦戦兢兢、深き淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し」という『詩経』小旻の一節ですが、これは『広辞苑・第五版』によると「深い淵をのぞきこむ時のように、また薄い氷の上を歩く時のように、こわごわと慎重に行動すること。転じて、危険に直面していることの形容」という意味の言葉です。
源氏の守護神「八幡大菩薩」の掛け軸と、危機に直面していることを意味する『詩経』の「戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷」のセリフ、これらの演出は義輝の心情を表現しているようにも思えます。
将軍権力の失墜をどうすることもできず、理想を追いながらも諦めと失意にあった義輝の心情は、いかなるものだったのでしょうか。
そうしたところを想像しながら観るのも、大河ドラマの楽しみ方のひとつだと思います。
武士と念仏「南無八幡大菩薩」
歴史小説やドラマなどで、武士らが「南無八幡大菩薩」と唱えるシーンがあります。
「八幡大菩薩」は、前述の通り源氏の氏神であると共に、弓矢の神・武士の守護神でもありますので、武士からの信仰を集めていました。
そして「南無」という言葉は「敬意、尊敬、崇敬」を意味する仏教用語です。
また、例えば浄土教において「南無」は「身も心も御仏に委ね、お任せいたします」という信仰対象への自己の帰投、または信仰告白を意味します。
つまり、武士が「南無八幡大菩薩」と唱えるのは、弓矢の神・武士の守護神である八幡大菩薩に自身の命運を委ねるという意味で念じていたという事です。
八幡大菩薩と徳川家康公
実は、徳川家康公も八幡大菩薩を信仰していました。
徳川家願掛けの八幡大菩薩大祈祷祭
妙善寺には 徳川家康公ゆかりの 八幡大菩薩が祀られています。
家康公が 妙善寺に参拝し 八幡大菩薩に国家安泰を 祈願した時に 家康公の御前に白馬が現れ 白馬は 白龍の姿に変化し 堂内響きわたる美しい鳴き声で 天に昇って行きました。
これを見た家康公は 「これは 世を救う大吉兆だ。 妙善寺八幡大菩薩は 霊験最あらたかな神だ。」と 声高々に喜ばれたと伝えられています。
この話を聞いた 家康公の側室 養珠院お万の方様(法華経の熱心な信者)が 八幡堂を建立し丁重に祀りました。
当時甲斐国(山梨県)に 諸難疫病が流行していて 人々を 大変苦しめていましたが 妙善寺秘伝の祈祷と 八幡大菩薩の力の功徳によって 無事に鎮める事が出来ました。
まさに 家康公の予言道理となり 妙善寺の八幡様は 霊験もっともあらたかな 神様と広く崇敬を集めました。
家康公は「海道一の弓取り」と称されるなど、武将としての戦さの強さにも定評がありました。
また、家康公は河内源氏(新田系)の末裔を称していましたので、当然、源氏の氏神たる八幡大菩薩を信仰していたのでしょう。
もっとも、徳川家が源氏の末裔であるとする話は、源義国以来の清和源氏足利氏系図を吉良家から手に入れ、その家系図を改ざんして、新田義貞に連なる源氏の末裔であるとしました。
ちなみに、この家系図の入手元である吉良家とは、のちに『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士の敵・吉良上野介義央の吉良家です。
一説によると、この「系図発見」の経緯から、徳川幕府では吉良家が高家としての処遇をされたとも言われています。
まとめ
- 八幡大菩薩は源氏の氏神であり、武士の守護神でもあった
- 足利義輝は源氏の系譜
- 徳川家康公も八幡大菩薩を信仰していた
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