五社神社・諏訪神社は、静岡県浜松市にある神社です。
五社神社は、戦国時代初期の曳馬城主・久野越中守が城内に創建したのに始まり、後に徳川家康公が三男・徳川秀忠の産土神としました。
諏訪神社は、奈良時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征の折に奉斎したのに始まり、こちらも後に家康公が秀忠の産土神としました。
両社ともに三代将軍・徳川家光による社殿が建立されましたが、いずれも昭和20年(1945年)の浜松空襲により全焼してしまいました。
昭和37年(1962年)、隣接していた両社が法人格を一つにして「五社神社・諏訪神社」と称する事となりました。
なお、現在の社殿は昭和57年(1982年)に再建されたものです。
五社神社・諏訪神社の縁起
五社神社・諏訪神社は元々、それぞれ別の神社として始まり、栄えてきました。
しかし、昭和20年(1945年)の浜松大空襲により家光造営の社殿を喪失して以降、昭和37年(1962年)に両社が合祀され、現在の名称である「五社神社・諏訪神社」となりました。
現在の社殿は昭和57年(1982年)に再建されたもので、1つの社殿内に両社の御祭神を奉斎しています。
五社神社
五社神社の縁起は以下の通りです。
ご由緒
五社神社曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(西暦1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。
寛永11年(西暦1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(西暦1641年)竣工す。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。
【五社神社・年表】
- 戦国時代初期:曳馬城主・久野越中守が場内に創建。
- 元亀元年(1570年):家康公が三河国岡崎から遠江国曳馬に本拠地を移し、地名を浜松に改める。
- 天正7年(1579年):家康公の三男として秀忠が生まれる。産土神として崇敬される。
- 天正8年(1580年):家康公が現在地に社殿を建立して遷座。社領15石を寄進される。
- 寛永11年(1634年):三代将軍・家光が上洛の際に社参して300石を寄進、新たな社殿が造営される。
- 寛永18年(1641年):家光による新たな社殿が竣工する。
- 明治6年(1873年):県社に列格する。
- 大正3年(1914年):特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
- 昭和20年(1945年):第二次世界大戦の浜松空襲により全焼。
- 昭和37年(1962年):隣接していた両社が合祀され「五社神社・諏訪神社」となる。
- 昭和57年(1982年):現在の社殿が再建される。
諏訪神社
諏訪神社の縁起は以下の通りです。
ご由緒
諏訪神社延暦10年(西暦791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(西暦1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。
秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年(西暦1579年)徳川家康公、社殿を造営す。
元和元年(西暦1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(西暦1634年)、家光公、社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(西暦1641年)竣工す。
国宝建造物に指定されるも、昭和20年(西暦1945年)戦災により五社神社と共に消失す。
【諏訪神社・年表】
- 延暦10年(791年):坂上田村麻呂が敷智郡上中島村に奉斎。
- 弘治2年(1556年):曳馬城下の大手前に遷座される。
- 天正7年(1579年):家康公の三男として秀忠が生まれる。産土神として崇敬され、家康公により社殿が造営される。
- 元和元年(1615年):秀忠が社地を杉山に改める。
- 寛永11年(1634年):三代将軍・家光が上洛の際に社参して300石を寄進、新たな社殿が造営される。
- 寛永18年(1641年):家光による新たな社殿が竣工する。
- 昭和13年(1938年):国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
- 昭和20年(1945年):第二次世界大戦の浜松空襲により全焼。
- 昭和37年(1962年):隣接していた両社が合祀され「五社神社・諏訪神社」となる。
- 昭和57年(1982年):現在の社殿が再建される。
五社神社・諏訪神社
それでは、さっそく五社神社・諏訪神社を見てみましょう。
鳥居・社号標
こちらが、五社神社・諏訪神社の鳥居です。
社号標です。
鳥居の扁額です。
鳥居の向かって左側に設置されている案内看板です。
五社神社 諏訪神社 御祭神並御由緒
御祭神
五社神社 太玉命 武雷命 斎主命 天児屋根命 姫大神
(相殿)応神天皇 舎人親王 菅原道真公 徳川家康公
諏訪神社 建御名方命 八坂刀売命 事代主命
(相殿)徳川家康公御由緒
五社神社 國主久野越中守曳馬城(浜松城)内に奉斎す。徳川家康公浜松城に入り天正七年四月七日秀忠公城内にて誕生、産土神として崇敬し、天正八年常寒山(現在地)に社殿建立遷座す。寛永十一年家光公上洛の節社参奉幣三百石の朱印を奉る。大正三年国宝建造物に指定せられる。
諏訪神社 坂上田村麿東征の砌奉斎す。徳川家康公尊崇し社殿を造営し、家光公更に現在地に遷座し朱印三百石を奉る。昭和十三年国宝建造物に指定せられるも、昭和二十年戦災に依り五社神社と共に悉皆焼失せり。
五社神社 諏訪神社 昭和三十七年両社合祀、新たに五社神社諏訪神社として発足す。昭和四十六年神社本庁別表神社に列格、現社殿は市民の奉賛のもと、五ヶ年の歳月を費し昭和五十七年竣工す。例祭日 五月四日
引用元:五社神社・諏訪神社案内看板
また、この五社神社・諏訪神社は『浜松家康の散歩道』にも指定されています。
こちらは、南門の石鳥居です。
南門鳥居の扁額です。
こちらは、北門の石鳥居です。
北門の鳥居には扁額がありませんでした。
境内の様子
五社神社・諏訪神社の境内はこのような様子です。
こちらは、表参道の鳥居をくぐってすぐ右手側にある、社務所と『光海霊神の碑(うなてりのみたまのひ)』です。
社務所前から社殿に向かっての境内の様子です。
社殿前の階段の手前から右側を見ると、手水舎と北口鳥居があります。
手水舎横の階段を少し登ると、いよいよ社殿などがあります。
光海霊神の碑(うなてりのみたまのひ)
表参道の鳥居のすぐ右側に、石碑があります。
賀茂真淵大人が幼少の頃、師と仰いだ五社神社神主・森暉昌大人(諡号:光海霊神)の功績を記した顕彰碑です。
明和4年(1765年)に建立されました。
石碑の横には案内看板も設置されています。
光海霊神の碑
賀茂真淵大人がその師、五社神社神主森暉昌大人の功業を記したる漢文体の誌銘なり。真淵大人の心情を遺憾なく吐露せしものなり。
森暉昌大人は諡号を「光海霊神」と称す。近世国学の創始者荷田春満大人の門流にして賀茂真淵大人若年の学父とも尊親したる碩学なり。
この碑は明和五年五月建立せらる。惜しむらくは昭和二十年六月十八日戦火により上部損壊せしも真淵大人の本意はここに歴然として存す。引用元:五社神社・諏訪神社案内看板
こちらが『光海霊神の碑(うなてりのみたまのひ)』の石碑です。
案内看板に記されている通り、石碑の右上部が損壊しています。
社務所
こちらが社務所です。
社務所の営業時間は9:00〜17:00となっておりますので、御朱印を頂く際は参拝の時間に注意が必要です。
五宝閣(会館)
こちらは五宝閣という会館です。
手水舎
こちらが手水舎です。
なお、この手水鉢は寛永15年(1635年)に当時の浜松城主・高力忠房が寄進したものです。
手水舎の後ろには案内看板が設置されています。
徳川三代将軍家光公寛永十一年七月当社に参詣あり。時の浜松城主高力忠房を普請奉行として、社殿を修造せしむ。完成の後本手水鉢を寄進す。
この手水鉢は花崗岩を素材とす。四方に枠取りなく素朴なる形式と水穴深く角を正確に掘たるは、古き様式に属し貴重なる文化財なり。
正面に次の如く刻す。
奉寄進 遠江國濱松
五社大明神 廣前
寛永十五戊寅年五月吉日
高力摂津守従五位下 平忠房高力忠房は二代将軍秀忠の寵を得、元服の際「忠」の一字を賜り忠房となのる。
温厚篤実なる人格は、領民に敬慕されたり。引用元:五社神社・諏訪神社案内看板
稲荷社
こちらは、社殿前にある稲荷社です(写真の奥に見えるのは儀式殿です)。
こちらが、五社神社・諏訪神社の境内にある稲荷社です。
儀式殿
こちらが儀式殿です。
拝殿・本殿
こちらが、五社神社・諏訪神社の拝殿と本殿です。
五社神社・諏訪神社は前述の通り、両社が合祀されて現在の形となっておりますが、この中に両社の祀ってきた神々が現在もそれぞれに祀られています。
徳川家康公も祀られています。
社殿の左側です。
社殿の右側です。
社殿から表参道側を眺めると境内の様子が一望できます。
社殿前には狛犬が置かれています。
狛犬の阿形(右側)です。
狛犬の吽形(左側)です。
五社神社・諏訪神社の社殿には賽銭箱の他に、おみくじなどもあります。
社殿の賽銭箱です。
こちらが、五社神社・諏訪神社の社殿の扁額です。
アクセス・案内情報
- 名称:五社神社・諏訪神社
- 住所:静岡県浜松市中区利町302-5
- 電話:053-452-3001
- 営業時間:9:00〜17:00(社務所)
- 交通:JR東海道新幹線・JR東海道本線「浜松駅」下車徒歩約15分、遠州鉄道鉄道線「新浜松駅」下車徒歩約15分
【参考サイト】