犀ヶ崖古戦場は静岡県浜松市にある、古戦場です。
徳川家康公が武田信玄に野戦を挑むも惨敗し、浜松城まで逃げ帰った「三方ヶ原の戦い」。
その敗走の晩に、徳川勢が武田勢の夜営地を夜襲しました。
今でも、その急峻な崖に古戦場としての趣を感じることができます。
「犀ヶ崖の戦い」とは?
元亀3年(1572年)12月22日、三河・遠江を治める徳川家康公と、当時から「戦国最強」と怖れられた武田信玄が激突した野戦合戦「三方ヶ原の戦い」が行われました。
合戦の結果は信玄の圧勝、家康公は惨敗して浜松城まで敗走しました。
しかしその日の晩、勝利した武田勢が浜松城の北西約2km辺りにある犀ヶ崖(さいががけ)付近で夜営をしていたところ、徳川勢がこれを急襲しました。
この戦いが「犀ヶ崖の戦い」です。
犀ヶ崖
犀ヶ崖と呼ばれる範囲は、はっきりしないが、この付近から下流約四五〇メートルの間に、急な崖が連続している。この付近では、幅約三〇メートル、両岸とも深さ一〇数メートルの絶壁をなす。元亀三年(一五七二)十二月二十二日、徳川家康は、三方原において武田信玄に一線を挑んで敗け、浜松城に逃げ帰ったが、その夜犀ヶ崖付近で徳川方が地理に暗い武田方を急襲して、この崖に追い落としたと伝えられる。崖上の宗円堂には、この戦による両軍の死者の霊が祀られており、その霊を慰めるため、毎年遠州大念仏が行われる。静岡県指定史跡。
浜松市
引用元:犀ヶ崖古戦場案内看板『犀ヶ崖』
夜襲に際して、犀ヶ崖付近の地形を熟知していた家康公は一計を図ります。
家康公は、あらかじめ白い布を橋に見立てて崖に張っておきました。
そして、夜になると付近にある普済寺に火を放ち、浜松城が炎上したと武田勢に思わせました。
その直後、天野康景(あまのやすかげ)と大久保忠世(おおくぼただよ)らが率いる鉄砲隊を含めた約100名程度の徳川勢が、武田勢の背後から夜襲をしかけました。
急襲された武田勢は狼狽して、崖に架かる橋を我先に渡ろうとします。
しかし、その橋こそ家康公が仕掛けた罠「白い布の橋」でした。
武田勢はことごとく犀ヶ崖の谷底に転落しました。
この一戦で、信玄は家康公を「勝ちても怖き相手」と讃えたそうです。
なお、「三方ヶ原の戦い」において惨敗した家康公は、浜松城まで命からがら逃げ帰りました。
その逃走劇でいくつかの逸話を残しています。
【三方ヶ原の戦い関連史跡】
他にも、逃走中に茶屋で小豆餅を「食い逃げ」したり、そのお代を回収しに約2km追いかけられた末に小豆餅代を支払ったという話も残されています(その言い伝えにより「小豆餅」と「銭取」という地名が名づけられたとか)。
犀ヶ崖古戦場
浜松城方面から国道257号線で犀ヶ崖へ向かうと、まず最初に見えるのがこの「犀ヶ崖公園」の看板と、浜松市犀ヶ崖資料館です。
犀ヶ崖公園の敷地内には、犀ヶ崖古戦場と犀ヶ崖資料館の他にも、俳句碑、山桃さま、本多肥後守忠真の碑、ねずみ小僧の墓などがあります。
国道257号線沿いからの概観
まずは、写真左奥に向かって進んでみます。
下の写真中央の小道が、犀ヶ崖を眺められる観賞スポットへの道、右側が県道257号線の浜松城方面、左側が「夏目次郎左衛門吉信の碑」や静岡大学浜松キャンパス方面です。
記事冒頭の案内看板『犀ヶ崖』と記念碑があります。
こちらの記念碑は昭和時代に建立された比較的新しいものです。
犀ヶ崖古戦場の記念碑は、隣にもう1つあります。
こちらの記念碑は旧字が使われており、先の記念碑よりも古い時代に建立されたものと思われます。
県道257号線を進むと、ちょうど犀ヶ崖の対岸側に、俳句碑と常夜灯があります。
俳句碑『岩角に兜くだけて椿かな』(蓼太)
犀ヶ崖古戦場の片隅には、県道257号線に面してひっそりと俳句碑が建てられています。
この俳句の作者は大島蓼太(おおしまりょうた)という江戸時代中期の俳人です。
享保3年(1718年)に生まれ、天明7年(1787年)に亡くなるまでの間に、蓼太は松尾芭蕉への回帰を唱えて研究を進め、約3,000人の門徒を有していました。
犀ヶ崖の俳句碑に刻まれた「岩角に兜くだけて椿かな」という俳句は、蓼太が犀ヶ崖を訪れた折に、犀ヶ崖の戦いに思いを馳せて「犀ヶ崖の崖から落ちて、谷底の岩角に武田勢の兜が当たってくだけて、辺り一面が血まみれで赤く染まった様子を見て椿かな(椿の色になぞらえた)」という俳句です。
何とも物騒な光景ですが、奥州・平泉を訪れた芭蕉が詠んだ俳句「夏草や兵どもが夢の跡」と同種の、ある種の無常観を感じる趣の作品ですね。
俳句碑の隣には、常夜灯が設置されています。
古戦場に町内安全を祈願するモニュメントが建つ辺りに、太平の世の尊さを感じました。
山桃さま
犀ヶ崖崖古戦場には「山桃さま」という立て札の立つ、桃の木があります。
ただ、「山桃さま」と記された立て札以外に、案内看板の類は一切見当たりません。
調べてみると、中日新聞しずおかWebに以下の記事がありました。
山桃さま 人々の病を治す お坊さま決意
山伏の姿をしたお坊さまが、旅の途中に犀ケ崖(今の浜松市中区鹿谷町の辺り)の近くにたどり着きました。
お坊さまは、周りの村々で病気に苦しむ人のために、分け隔てなく進んで祈願しました。すると、厳しい修行で身に付けた神通力のおかげで、どんな病気も治すことができました。
お坊さまの評判を聞き、病気に苦しむ人が、遠くの村からも訪れるようになりました。その度に、お坊さまは祈願を繰り返しました。ある日のことです。お坊さまは、祈願を待つ人々に向かって話し始めました。
「私は、ここに穴を掘って生き埋めになります。私を埋めた土の上に、山桃の木を植えてください。病で苦しむ人は、毎年、山桃の実が結ぶまでにこの地に来て祈ってください。土の中の私は、末永く、どんな病も治すために祈願を続けます」
人々は何度も止めたものの、(中略)空気穴から聞こえるかすかな音に、手を合わせて拝むようになりました。こうしてお坊さまは大往生を遂げたのです。
人々は、お坊さまと約束した山桃の木を植えました。すると、お坊さまのお言葉の通りに、山桃の実が結ぶまでに願い事をすると、どんな病気も治すことができたそうです。
願いの叶えられた人々が「山桃さま」と呼ぶようになった山桃の木は、犀ケ崖資料館(浜松市中区鹿谷町)の庭に、今でも残っています。引用元:山桃さま 人々の病を治す お坊さま決意:中日新聞しずおかWeb(https://www.chunichi.co.jp/article/111354)
この「山桃さま」の下はお坊さんが即身仏となった穴が――と思うと、複雑な心境です。
宗円堂と遠州大念仏
こちらは「犀ヶ崖の戦い」に由来する、宗円堂と遠州大念仏について記されています。
宗円堂について
浜松市教育委員会宗円堂はもと清雲寺といい、宗源印の末寺でした犀ヶ崖の際にあって大念仏を行っていたことから、念仏堂とも呼ばれていたようです。宗円とは遠州大念仏を伝えたと言われる浄土宗の僧の名で、そのため1930年頃から宗円堂と呼ばれるようになり、1935年には遠州大念仏団の本部となりました。また1983年4月に主として遠州大念仏に関する資料を展示す犀ヶ崖資料館としました。
引用元:犀ヶ崖古戦場案内看板『宗円堂について』
宗円堂の前身である清雲寺は、「三方ヶ原の戦い」で亡くなった両軍の死者を祀るために建立されました。
また、遠州大念仏は「三方ヶ原の戦い」や「犀ヶ崖の戦い」の死者の霊を弔うために始められたそうです。
遠州大念仏
「遠州大念仏」は、遠州地方の郷土芸能のひとつで、初盆を迎えた家から依頼されますと、その家を訪れて庭先で大念仏を演じます。
大念仏の団体は、必ずその家の手前で隊列を組み、下の図のように、統率責任者の頭先(かしらさき)の提灯を先頭にして、笛・太鼓・鉦(かね)の音に合わせて行進します。笛・太鼓・鉦(かね)・歌い手、そのほかもろもろの役を含めると30人を越す団体となります。
大念仏の一行が初盆の庭先に入ると、太鼓を中心にして、その両側に双盤(そうばん)を置いて、音頭取りに合せて念仏やうたまくらを唱和します。そして、太鼓を勇ましく踊るようにして打ち鳴らし、初盆の家の供養を行います。
江戸時代のもっとも盛んな時には、約280の村々で大念仏が行われていました。
現在、約70の組が遠州大念仏保存会に所属し活動しています。
また、現在も犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方原合戦の死者の供養として、遠州大念仏が行われています。
(例年、午後7時ごろから開始されますが、詳しくはお問い合わせください。)引用元:遠州大念仏/浜松市
遠州大念仏は様々な人たちの尽力により、今日まで伝えられています。
犀ヶ崖資料館
こちらが、犀ヶ崖資料館です。
入館料無料にて展示物を見学する事ができます。
犀ヶ崖資料館では「三方ヶ原の戦い」や「犀ヶ崖の戦い」に関連する史料が展示されています。
「三方ヶ原の戦い」で討死した家康公の忠臣たち
犀ヶ崖古戦場の付近には、家康公のために「三方ヶ原の戦い」で討死した忠臣たちを讃える記念碑があります。
若き日の家康公はこうした三河武士たちに支えられていたからこそ、幾度もの窮地を乗り切ることができました。
「浜松家康の散歩道」のルートにも指定されていますので、犀ヶ崖古戦場を訪れる際はぜひ一緒にお立ちよりください。
本多肥後守忠真の碑
夏目次郎左衛門吉信の碑
成瀬正義・外山正重・遠藤右近の墓所(宗源院)
犀ヶ崖古戦場
こちらが、犀ヶ崖古戦場の見学スポットです。
展望台の横には目印となる立て札があります。
下の写真は、展望台から国道257号線側を見た写真です。
展望台から真下を見下ろすとこんな感じです。
右側はこんな感じです。
犀ヶ崖古戦場は「犀ヶ崖の戦い」当時、長さ約2km・幅約50mに及ぶ大きさの崖でしたが、今日ではそのうち長さ約116m・幅29m〜34m程度が残っている状況です。
史跡 犀ヶ崖古戦場
犀ヶ崖古戦場は、元亀3年(1572年)12月22日、徳川家康と武田信玄が三方原の戦いの際、このあたりに夜営していた武田勢を徳川勢が急襲してこれを敗った古戦場であり、この時武田方の軍が地理を誤り、この崖に落ちて多くの人馬を失ったと伝えられている。
当時の犀ヶ崖は、東西約2km、幅約50m、両岸は絶壁で、その深さは約40mに及んでいたと伝えられている。
県指定史跡の現況(60年3月現在)は、長さ約116m、幅約29m〜34m、深さ約13mである。
又、崖の上には宗円堂があり、ここに両軍戦死者の霊がまつられ、その慰霊のため創始されたといわれる遠州大念仏の道場となっていたが、現在は、犀ヶ崖資料館として遠州大念仏の資料が展示されている。
なお、指定史跡内で、その現状を変更する場合は、教育委員会の許可を受けなければなりません。指定年月日 昭和14年12月19日
種 別 史跡指 定 者 静岡県教育委員会
指 定 範 囲昭和60年3月
浜松市教育委員会引用元:犀ヶ崖古戦場案内看板『史跡 犀ヶ崖古戦場』
家康公は数々の合戦を生き抜いて天下を取りました、その75年の生涯において唯一の負け戦が「三方ヶ原の戦い」でした。
その敗北には様々なエピソードが残されていますが、家康公が信玄に一矢報いたこの「犀ヶ崖の戦い」はあまり知られていないように思います。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、主人公の家康公を松本潤さんが演じるそうですが、この「犀ヶ崖の戦い」に際して家康公が「どうした」のか、描かれることを期待したいと思います。
アクセス・案内情報
- 名称:犀ヶ崖古戦場
- 住所:静岡県浜松市中区鹿谷町25-10
- 電話:053-472-8383(犀ヶ崖資料館)
- 開館時間:9:00~17:00(犀ヶ崖資料館)
- 交通:浜松駅から遠鉄バス「さいが崖」バス停下車徒歩約1分