本多肥後守忠真の碑は、静岡県浜松市にある犀ヶ崖古戦場の一角にある石碑です。
本多忠真は徳川家康公の家臣で、あの本多忠勝の叔父です。
忠真は「三方ヶ原の戦い」において、家康公が武田信玄に敗れて浜松城へ逃げ帰る際に、殿(しんがり)を務めてこの地で討死を果たしました。
この石碑は忠真の子孫が、明治24年(1891年)に建立したものです。
「三方ヶ原の戦い」における本多忠真の活躍
元亀3年(1572年)12月22日、「三方ヶ原の戦い」で信玄に敗れた徳川勢は浜松城へ撤退します。
その最中、本多忠真は徳川勢の殿(しんがり)の務めを名乗り出ます。
殿とは、撤退する軍勢の最後尾で、追撃に来る敵軍と交戦して足止めをして、味方の撤退を成功させる部隊のことです。
当然、味方の援護は一切なく、最初から味方のために全滅を覚悟して戦うというのが殿(しんがり)の役目です。
忠真は嫡男の菊丸に「主君家康を護るように」と命じて、家康公を無事に浜松城まで退却させます。
そして、忠真は旗指物を道の左右に突き刺して、追撃に来た武田勢へ「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言い放ち、奮戦の末に討死を果たしました。
享年39歳。
合戦の後、菊丸は忠真を三河に葬りました。
そして、父や友人らの戦死にこの世の無常を感じて出家しました。
本多肥後守忠真の碑
国道257号線に面した入口付近には、このように目印となる石碑が立っています。
国道から奥へ進んでいくと、このように石柱が左右に立っている入口があります。
一番奥に『本多肥後守忠真の碑』があり、その手前に『地蔵菩薩』『弘法大師像・聖徳太子像』『ねずみ小僧次郎吉の供養塔』があります。
また、写真では見えづらいですが、徳川家重臣・大久保忠世が活躍した『旗立て松跡』もあります。
では、さっそく手前から順に見てみましょう。
地蔵菩薩
残念ながら、由緒は不明です。
なお、向かって右側にある「おんかかかびさんまえいそわか」は、仏教の真言(しんごん:御仏の真実の言葉・秘密の言葉)の1つです。
この真言は、地蔵菩薩に振り向いてもらうための真言だそうです。
「おん」とは帰命、身命を投げ出して従うこと。
「か、か、か」の「か」とは、お地蔵様のすべて、お姿やご利益を一字で表したものでこれを種字といいます。
「か」という種字を三度唱えることで、お地蔵様の功徳におすがりするのです。
「びさんまえい」とは讃嘆、ほめたたえること。
「そわか」とは成就するの意味です。
ありがたい功徳のあるお地蔵様に従い、讃え願いを成就させます。
と訳せます。
お参りする際は、ぜひ両手を合わせて、心を込めて「おん かかか びさん まえい そわか」と3回唱えてみましょう。
弘法大師像・聖徳太子像
地蔵菩薩の左隣には、弘法大師像と聖徳太子像、そしてもうお一方の像があります。
こちらも由緒は不明ですが、前出の地蔵菩薩と共に、この地にかつてあった宗円堂にゆかりのある像なのかもしれません。
ねずみ小僧次郎吉の供養塔
ここには「ねずみ小僧」の異名で有名な盗賊・次郎吉の供養塔があります。
こちらが、ねずみ小僧・次郎吉の供養塔です。
ねずみ小僧・次郎吉は江戸時代後期、寛政9年(1797年)~天保3年(1832年)頃の人です(第11代将軍・徳川家斉の時代)。
次郎吉は盗賊ですが、盗みに入るのは大名屋敷ばかりを狙い、盗んだ金を貧しい人達にばら撒いた事から、後に「義賊」と讃えられるようになりました。
なお、次郎吉の墓は、東京・両国の回向院に現在もあります。
墓は両国の回向院にある。参拝客は長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、墓のお前立ちを削って持ち帰り、お守りにしている。また愛知県蒲郡市の委空寺にも母親の手によるとされる墓を移設したものがある。その他、南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、岐阜県各務原市等にも鼠小僧に恩義を受けた人々が建てた等と伝えられる墓がある。
引用元:鼠小僧 - Wikipedia
供養塔には「天保二年八月十一日」と刻まれているように見えますが、市中引き回しの上で獄門に処された年月日は「天保3年8月19日(1832年9月13日)」ですので、この供養塔に刻まれた年月日が何を意味するのかは不明です。
旗立て松跡
「三方ヶ原の戦い」で信玄に敗れて逃げる徳川勢のために、大久保忠世が家康公の旗印である「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんくじょうど)」の旗を立てて目印にしたと伝わる場所です。
かつてはここに松があったそうですが、残念ながら虫食いによって現存していません。
現在は、このように立て札が1つ立っているだけという状況です。
個人的には、大久保忠世の活躍を記した看板の1つでも立ててあげた方が良いのではないかと思います。
本多肥後守忠真の碑
こちらが、記念碑『本多肥後守忠真の碑』です。
この記念碑は明治24年(1891年)、家康公の重臣・本多忠勝の子孫である本多家第17代当主・本多忠敬子爵が建立しました。
また、記念碑の題字「表忠彰義之碑」の文字は、徳川家第16代当主・徳川家達によって書かれました。
記念碑の隣には、案内看板も設置されています。
本多肥後守忠真顕彰碑
この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。
本多忠真は、徳川家草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。
本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川家の中にあって、撤退に際し殿(しんがり)を買って出ました。道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。
忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しましたが、父の最後を前にし友が次々と死んでゆくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。
この碑には本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。
また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川家16代家達公によって書かれています。引用元:本多肥後守忠真の碑案内看板『本多肥後守忠真顕彰碑』
忠真による決死の活躍がなければ、その後の徳川家も家康公も無かったのでは――と思います。
また、忠真の武士としての堂々たる最期と共に、嫡男・菊丸の境遇は合戦の無常を感じずにはいられません。
歴史を愛する者にとって合戦は歴史の華とも思いますが、この時代、菊丸のような境遇は枚挙にいとまがなかったのだと思います。
そう考えると、松尾芭蕉が奥州・平泉で源義経へ思いを馳せて詠んだ俳句「夏草や兵どもが夢の跡」と同じ、無常感を感じます。
この忠真の他にも、三方ヶ原の戦いでは徳川勢に多くの戦死者が出ました。
彼ら忠臣たちの討死が、主君・家康公の窮地に活路を開いたのです。
彼らの活躍が、2023年の大河ドラマ『どうする家康』でしっかりと描かれることを期待したいと思います。
アクセス・案内情報
- 名称:本多肥後守忠真の碑
- 住所:静岡県浜松市中区鹿谷町25-10(犀ヶ崖古戦場)
- 交通:浜松駅から遠鉄バス「さいが崖」バス停下車徒歩約1分