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広沢山普済寺(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で家康公が焼いた寺

広沢山普済寺・山門 家康公ゆかりの地:浜松編

広沢山普済寺は、静岡県浜松市にある曹洞宗のお寺です。

「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に敗れた徳川家康公は、命からがら浜松城に逃げ帰りました。

その晩、家康公は普済寺を焼いて「浜松城が燃えている」と武田勢に思わせ、油断させました。

その直後、犀ヶ崖付近で夜営していた武田勢に対して、大久保忠世らが率いる徳川勢が夜襲をしかけます(犀ヶ崖の戦い)。

結果、武田勢に痛手を負わせることに成功し、家康公は信玄に一矢報いました。

「犀ヶ崖の戦い」と普済寺

普済寺は、正長元年(1427年)に華蔵義曇(けぞうぎどん)和尚が、現在の浜松市中区寺島町に随縁寺を建立しました。

その後、永享4年(1432年)に現在の場所へ移されるとともに、広沢山普済寺と号するようになります。

当時、普済寺は遠江一帯における曹洞宗の拠点となり、禅宗が広められました。

元亀3年12月22日(1573年1月25日)、家康公と信玄が戦った「三方ヶ原の戦い」にて徳川勢が敗走し、家康公も浜松城まで命からがら逃げ帰ります。

その晩、家康公は浜松城の北西約2km辺りにある犀ヶ崖(さいががけ)で夜営中の武田勢に対して、反撃の夜襲を仕掛けます(犀ヶ崖の戦い)。

その折、浜松城が炎上しているように見せかけて武田勢を油断させるために、家康公は普済寺を焼き払いました。

【関連記事】「犀ヶ崖の戦い」についてはこちら

犀ヶ崖古戦場(静岡県浜松市)|徳川家康公が武田信玄に一矢報いた合戦
犀ヶ崖古戦場は静岡県浜松市にある、古戦場です。 徳川家康公が武田信玄に野戦を挑むも惨敗し、浜松城まで逃げ帰った「三方ヶ原の戦い」。 その敗走の晩に、徳川勢が武田勢の夜営地を夜襲しました。 今でも、その急峻な崖に古戦場としての趣を感じることができます。

その後、家康公は天正10年(1582年)に七堂伽藍を再建するなど、普済寺の復興に力を尽くすと共に、普済寺を由緒ある寺として厚く保護します。

しかし、この七堂伽藍は残念ながら明治時代に火事で焼失してしまったため、現在は残っていません。

江戸時代には、徳川幕府から朱印状が与えられました。

残念ながら昭和20年(1945年)の米軍による「浜松大空襲」にて多くの建築物が焼失してしまいます。

従って、現在ある多くの建築物は戦後に再建されたものです。

本尊は釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)です。

広沢山普済寺

広沢山普済寺(こうたくさん・ふさいじ)の由来につきましては、山門の脇に案内看板があります。

広沢山普済寺(案内看板)

普済寺

山号広沢山、曹洞宗、十五世紀の初め寒巌義尹が開山、その後肥後国(熊本県)大慈寺からきた華蔵義曇が寒巌禅師の遺志を継ぎ、東海の禅堂としてこの地に普済寺を建立した。教派は十三派(四百六十ヵ寺)を数え、華蔵和尚によって浜松地方に禅宗が広められた。本尊釈迦牟尼佛。
由緒ある寺として徳川氏の保護をうけ、家康も客殿を寄進している。寺域も広く、広沢の名にふさわしく水の澄んだ池があり、月の名所としても知られたが、今は雲夢橋が残るのみである。
戦災のため焼失し、昭和三十九年再建された。山内に北山稲荷を祀る。

浜松市

引用元:案内看板『普済寺』

※寒巌義尹(かんがんぎいん)は鎌倉時代中期の曹洞宗の禅師で、父は後鳥羽天皇(『扶桑禅林僧宝伝』)とも順徳天皇(『本朝高僧伝』)とも言われ、法皇長老と呼ばれた方です。曹洞宗の開祖・道元禅師の許にいたこともある高僧です。

広沢山普済寺・記念碑『普済寺の由来』

また、境内には徳川家康公との関りについて記された石碑もあります。

山門

こちらが、普済寺の山門です。

普済寺の山門は、井伊三人衆の一人・気賀近藤氏の金指陣屋門を移築した門だそうです。

広沢山普済寺・山門(概観)

どっしりとした門構えが大変魅力的な山門です。

広沢山普済寺・山門(近景)

現在、この山門を通り抜けることはできません。

山門に向かって左側に道路がありますので、そちらから中に入れます。

江戸時代初期に建てられた総門

普済寺は山門の奥に、もう1つ門があります。

この朱塗りの総門は江戸時代初期に建立され、現存しています。

広沢山普済寺・総門

総門の扁額は、亀山天皇(在位:13世紀後半)から賜ったものだそうです。

扁額には「東海曹洞」と記されています。

広沢山普済寺・総門の扁額

雲夢橋(江戸中期建立の石橋)

昔の普済寺は「広沢」の名にふさわしく水の澄んだ池があり、月の名所としても知られていたそうです。

しかし、現在はそのような景観もほぼ残っておらず、僅かにこの雲夢橋(うんぼきょう)が残るのみです。

なお、この雲夢橋は静岡県内最古の石造りの橋です。

広沢山普済寺・雲夢橋(江戸中期建立の石橋)

雲夢橋は総門の奥、併設されている幼稚園の駐車場入り口にあります。

貴重な石橋ですが、何も知らずに訪れると気づかずに素通りしてしまいそうな様子です(案内看板なども一切なく、あまりにあっけない感じの雰囲気です)。

境内の様子

こちらが、普済寺の境内です。

真ん中にある白い建物が本堂、向かって左奥にある鳥居の建物が北山稲荷、向かって右側には寺務所があります。

広沢山普済寺・概観

こちらが、北山稲荷です。

広沢山普済寺・北山稲荷(概観)

こちらが寺務所です。

広沢山普済寺・寺務所

なお、残念ながら御朱印などは扱っていない模様です。

本堂

こちらが、普済寺の本堂です。

昭和39年(1964年)に再建された現在の本堂は、鉄筋コンクリート造りです。

広沢山普済寺・本堂

こちらが、普済寺・本堂の扁額です。

広沢山普済寺・本堂扁額

北山稲荷

普済寺の境内には北山稲荷もあります。

寒巌義尹の生まれが京都・北山だったため「北山」稲荷という名前だそうです。

広沢山普済寺・北山稲荷

社殿の右には、鳥居が立ち並ぶ参道があります。

広沢山普済寺・北山稲荷(鳥居入口)

突き当りを右に曲がると、すぐ奥に社が見えます。

広沢山普済寺・北山稲荷(鳥居入口・奥)

境内の石碑によると「徳川家康は平素深く崇敬する普済寺の御稲荷様の加護により犀ヶ崖に布の橋を架し武田軍の将兵に多大の損傷を与えた。この為、家康はますます信仰を厚くし、浜松城に千代吉稲荷として祭祀、後に江戸城には千代田稲荷として奉斎した」との事です。

つまり、かつて家康公もこの北山稲荷を参拝して、戦勝を祈願していたという事ですね。

広沢山普済寺・北山稲荷(鳥居入口・奥にある社殿)

なお、日本三大稲荷の1つに数えられている愛知県豊川市の豊川稲荷は、普済寺・北山稲荷の末社です。

豊川稲荷はこの北山稲荷から分祀されました。

徳川慶光公御手植之松

普済寺・本堂の裏手側には、ひっそりと記念碑が1つあります。

広沢山普済寺・徳川慶光公御手植之松

草木が生い茂りうっそうとしていますが、記念碑の後ろに松の木があります。

広沢山普済寺・記念碑『徳川慶光公御手植之松』

徳川慶光は第15第将軍・徳川慶喜の孫にあたる人物であり、戦前の昭和期には官僚・軍人を務めていた人物です。

普済寺の末寺

近隣にある西来院や宗源院は、普済寺の末寺にあたります。

※西来院・宗源院の記事は後日公開いたします。

アクセス・案内情報

  • 名称:広沢山普済寺
  • 住所:静岡県浜松市中区広沢1丁目2-1
  • 電話:053-452-1541
  • 交通:浜松駅から遠鉄バス「鹿谷町南」バス停下車徒歩約4分

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