太刀洗の池跡は、徳川家康公の正室・築山殿(瀬名姫)を斬首した刀を、池の水で洗ったと伝わる跡地です。
織田信長による「信康切腹事件」の際に、築山殿は徳川家家臣の岡本時仲と野中重政に自害を迫られますが、これを拒みました。
結果、築山殿は重政に斬首され、享年38歳でこの世を去りました。
その折、重正は刀に付いた血をこの地にあった池の水で洗い流したため、大刀洗の池と呼ばれるようになったそうです。
築山殿の最期
築山殿は家康公の正室でしたが、その最期はとても哀しい最期でした。
天正7年(1579年)、ついに事件が起きました。
徳姫が「徳姫に関する讒言(ざんげん:嘘偽りを告げて陥れること)を築山殿が信康にした」「築山殿が甲州浪人の唐人医師・減敬と密通している」「築山殿が武田家に内通している」等、12か条の訴状を信長に送りました。
この訴状により、信長が信康の処刑を家康公に命じたとされています(近年、家康公と信康の間で対立があり、その対立が原因とする説も出てきました)。
天正7年(1579年)8月3日、家康公が岡崎城を訪れ、信康を大浜城に移すよう命じました。
8月29日、築山殿は小藪村(現材の浜松市中区富塚)にて、徳川家家臣の岡本時仲と野中重政から自害を迫られます。
しかし、築山殿は自害を拒んだため、その場で斬首されました(享年38歳)。
この間、信康は堀江城に移され、さらに二俣城へと移され、9月15日に家康公の命により切腹しました(享年21歳)。
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大刀洗の池
こちらが、大刀洗の池です。
どういう事かといいますと……
私が訪れた令和2年冬当時、大刀洗の池を示す記念碑や案内看板などがあった場所は、工事中となっていました。
インターネットや観光雑誌などで見た景色とはまるで違う光景に、しばし言葉を失ってしまいました。
もはや、どこに記念碑等があったのかすら分からないほど、普通の工事現場です。
下の写真は浜松市街地方面に向かって撮影したものです。
一応、かつて大刀洗の池があった場所は、向かって左側にある医療センターの辺りだそうです。
いずれにしても、史跡らしい物は一切なく、工事中とはいえ大変残念な訪問に終わってしまいました。
限られた時間の中で、一生懸命に自転車をこいで向かったのですが……残念!
いつか、整備されたら再び訪れたいとは思いますが、はたして何時になるのやら。
アクセス・案内情報
- 名称:大刀洗の池
- 住所:静岡県浜松市中区佐鳴台5丁目6-1
- 交通:浜松駅から遠鉄バス「医療センター」下車徒歩すぐ(宗源院からは自転車で約15分)
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