住吉神社は東京都中央区佃にある、徳川家康公ゆかりの神社です。
家康公と住吉神社のある佃島の村人たちとの縁は、天正年間に家康公が清和源氏ゆかりの霊廟・多田院を参拝する際に、摂津国・田蓑島の漁夫達が漁船に家康公を乗せて神崎川を渡った所から始まります。
しかし、家康公と佃村の村人たちの出会いにはもう1つの説があります。
その縁は天正10年(1582年)に起きた「本能寺の変」からの「神君伊賀越え」にさかのぼるそうです。
家康公は「神君伊賀越え」の窮地で助けてくれた摂津国・佃村の漁師たちへの恩を忘れず、慶長8年(1603年)村人たちを江戸に移住させ、漁業権を与えて恩に報いたという説があります。
ただ、その後はいずれの説においても、天正18年(1590年)豊臣秀吉の命により家康公が関東に移封された折、佃村の村人たちは家康公から関東に招かれて移住しました。
そして、家康公がこの世を去った後、佃村から移住してきた村人たちは寛永年間(1624年~1643年)に、幕府から現在の場所に作られた埋立地を与えられます。
村人たちはかつての故郷を懐かしみ、その埋立地に「佃島」と名付けました。
そんな家康公と漁師たちの絆を感じられる神社が、何と都心からすぐの場所にあるので行ってみました。
また、住吉神社周辺にある家康公ゆかりのグルメスポットもご紹介していますので、最後まで要チェックです。
住吉神社と徳川家康公の縁
住吉神社の建立された佃島は、徳川家康公に呼ばれて関東に移住した摂津国西成郡佃村の村人たちが、幕府から新たに与えられた埋立地が始まりです。
ですが、家康公と佃村の村人たちとの縁には2つの説があるようです。
説1:住吉神社の縁起による家康公と佃村の村人たちの縁
家康公と佃村の村人たちとの縁の始まり、1つ目の説は「天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣した時」です。
住吉神社の縁起によると、以下の通り説明しています。
住吉神社略縁起
御祭神 底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三神)
息長足姫命(神宮皇后) 東照御親命(徳川家康)例祭 八月六日
「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」と卜部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。神宮皇后三韓征伐の際、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。
遥か後、天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。
天正十八年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年間に幕府より鉄砲洲向いの干潟を賜り、築島工事を起こし、正保二年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)六月二十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。引用元:住吉神社案内看板『住吉神社略縁起』
他にも、このような案内がされています。
佃島由来
天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣された時、田蓑島(現代の大阪市西淀川区佃町)の漁夫等が漁船によって神崎川の渡船を勤めたので田蓑神社にも参拝され、その時田蓑村の名称を佃と改められた。すわなち漁業の傍ら田をも作れという意であった。天正十八年家康公が関東へ下降された時、佃村の漁夫三十余名が従えられ、田蓑神社の神主平岡正大夫の弟權大夫好次という者が、住吉大神の分神霊を奉戴して同行して安藤対馬守、石川大隅守等の邸内に一時安置していたが、寛永年間に鉄砲洲の向の三角洲(百間四方)を幕府より賜わり、築島工事を起して正保二年それが完成したので本国の村名を取って佃島と称えることになった。その一部を社地と定め社殿を造営した。正保三年六月二十九日と記録されている。
引用元:住吉神社立札『佃島由来』
※引用文中の句読点は筆者補記。
ちなみに、現代の大阪府大阪市にある田蓑神社についても、簡単にご紹介します。
摂津国佃村の住吉神社(現代の大阪市西淀川区佃町にある田蓑神社)
住吉神社のルーツは摂津国・佃村にある田蓑神社にあります。
TOPICS
天正年間、徳川家康公この地に立ちよられた折、神崎川の渡船を勤めた縁により、後に幕府より隅田川下流の干潟を賜り、故郷の名をとり佃島と定め、田蓑神社の御分神霊(東京都中央区佃の住吉神社)を奉戴しました。また寛永八年(1631年)田蓑神社内に、徳川家康公が祀られることになりました。
引用元:田蓑神社
上記の文中にある「徳川家康公この地に立ちよられた折、神崎川の渡船を勤めた縁」というのは、住吉神社の説明によると「摂津の多田の廟に参詣の時」のことを指します。
すなわち、清和源氏ゆかりの霊廟・多田院を参拝する際に、摂津国・田蓑島の漁夫達が漁船に家康公を乗せて神崎川を渡った縁によるという見解です。
佃漁民ゆかりの地
天正十八年(1590年)八月一日家康公が関東へ下降の際、田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次を含む三十四人の村人が江戸へ下りました。
後に幕府より干潟を賜り、故郷の名をとり佃島と定め、田蓑神社の御分神霊を奉戴しました。これが、佃煮発祥の地として有名な、東京の佃島と同地の住吉神社の起源です。当地は、大阪市より顕彰遺跡「佃漁民ゆかりの地」と指定され、神社にその碑が建立されました。また、その碑が、未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選に選ばれました。
引用元:神社案内 - 田蓑神社
ちなみに、田蓑神社と摂津国・堺と伊賀方面の位置関係は、以下の地図の通りです。
説2:家康公が「本能寺の変」の「神君伊賀越え」で受けた恩と「佃煮」
天正10年(1582年)、天下布武を目指して破竹の勢いで勢力を拡大してきた織田信長が、京都・本能寺にて家臣・明智光秀の謀反に倒れます(本能寺の変)。
その頃、信長の盟友として尽くしてきた家康公は、信長の勧めにより摂津国・堺(現:大阪府堺市辺り)を見物に訪れていました。
懇意の商人・茶屋四郎次郎から風雲急を告げる報せを受けて、家康公は自身の領国である三河国・岡崎まで帰還を試みます。
しかし、畿内では明智勢による残党狩りが始まっており、僅かな手勢しか連れていない家康公が遭遇すれば命運は尽きるという状況でした。
そこで、家康公は後世「神君伊賀越え」と呼ばれるようになる、以下のルートを通り岡崎を目指します。
- 摂津国堺から上洛を開始
- 河内国飯盛山付近で茶屋四郎次郎から「本能寺の変」の報せを受ける
- 河内国四條畷を通過
- 山城国綴喜郡(現:京都府京田辺市興戸あたり)で木津川を渡る
- 山城国宇治田原にある宇治田原城で1泊
- 近江国甲賀小川にある多羅尾光俊の館で1泊
- 御斎峠から伊賀国に入る(甲賀地方の和田から伊賀国に入った説もあり)
- 伊賀国柘植を通過
- 伊勢国長太で乗船
- 伊勢湾を船で横断
- 三河国大浜に上陸
- 三河国岡崎に帰還
この「神君伊賀越え」において、家康公と佃村の摂津国・佃村の漁師たちとの縁がつながったという説です。
摂津国から神崎川を渡ろうとした家康公一行でしたが、川を渡るための舟がなく困ったところ、摂津国・西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の森孫右衛門という庄屋と佃村の漁師達が、家康公に漁船を貸してくれたおかげで、無事に川を渡ることができたとの事です。
さらに、佃村の村人たちは小魚や貝などを塩や醤油で煮詰めた煮物を、家康公に献上しました。
これが「佃煮」の原型だそうです。
この煮物は小魚や貝類からタンパク質を、塩や醤油などから塩分を補給できますし、何より命がけの旅路の中で食べる味は家康公一行に精神的にも力を与えてくれたことでしょう。
その後、天正18年(1590年)北条家を滅ぼして天下統一を果たした豊臣秀吉の命により、家康公がこれまでの領国(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国)から関東へ移封させられると、家康公は佃村の村人らを呼び寄せ、土地を与えて移住させました。
さらに、江戸近郊全般での漁業権や武家屋敷への出入り許可、租税免除などの特権を与えて厚遇します。
この厚遇ぶりから、いかに家康公が佃村の村人たちに恩を感じていたかが察せられます。
ただし、この説が記された古文書等は見つかっておらず、残念ながら史実であるか不明です。
ですが、家康公ならそのくらいやりそうな人物像なので、もしかしたら本当にあったのかもしれませんね。
いずれにせよ、家康公と摂津国・佃村の村人との間に縁ができ、関東移封後に家康公が村人たちを江戸に移住させ、その移住してきた村人たちが後に「佃煮」を生み出したことに変わりはないので、やはり「佃煮」の発祥には家康公が関係していたと言えます。
住吉神社
徳川家康公ゆかりの住吉神社を見てみましょう。
佃小橋・隅田川
住吉神社の最寄駅は、東京メトロ有楽町線・都営地下鉄大江戸線の「月島駅」です。
もんじゃ焼きで有名なあの月島です。
月島駅から少し歩くと、佃小橋があります。
佃小橋には、このような立て札があります。
此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(一七九八年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますので立入ったり掘り起こしたりしないで下さい。
佃住吉講
引用元:佃小橋立て札
どういう事かというと、住吉神社では3年に1回のペースで本祭が行われますが、その本祭で使用する大幟の柱とそれを支える抱木を、水中に埋めて保管しています。
水中だと木材が腐ってしまいそうな印象ですが、実は酸素に触れないので逆に腐りにくいそうです。
佃小橋を渡って道なりに進むと、このような十字路があります。
上の写真の十字路は、写真右奥の道が住吉神社の裏手口に、左奥の道が佃島渡船場跡(隅田川)や住吉神社・一の鳥居方面です。
左奥の道を突き当りまで進むと、隅田川にたどり着きます。
ここは佃島渡船場跡として、記念碑が建てられています。
ここからだと、隅田川を見晴らしよく一望できます。
佃島渡船場跡についての案内看板も建てられています。
佃島渡船場跡
所在地 中央区佃一‐一一‐四
湊三‐一八先佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保二年(一六四五)に通ったのが佃の渡しです。
明治九年(一八七六)には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正十五年(一九二六)東京市の運営に移り、翌昭和二年三月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。
昭和三十年(一九五五)七月には一日七〇往復にもなりましたが、同三十九年八月の佃大橋の完成によって三〇〇年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。
佃島渡船場跡は、渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。平成二十八年三月
中央区教育委員会引用元:案内看板『佃島渡船場跡』(佃島側)
佃島と隅田川対岸の船松町を結ぶ渡し船が開通したのが正保2年(1645年)なので、三代将軍・家光の時代には既にこの「佃の渡し」があったということになります。
佃島渡船場跡(佃の渡し跡)ですが、隅田川の対岸にも記念碑があります。
こちらが、船松町側の渡し跡です。
船松町側にも案内看板があります。
中央区民文化財
佃島渡船場跡所在地 中央区湊三丁目一八番
佃一丁目一一番四号佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保二年(一六四五)に通ったのが佃の渡しです。
明治九年(一八七六)には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正十五年(一九二六)東京市の運営に移り、翌昭和二年三月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。
昭和三十年(一九五五)七月には一日七〇往復にもなりましたが、同三十九年八月の佃大橋の完成によって三〇〇年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。
渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。平成十六年三月
中央区教育委員会引用元:案内看板『中央区民文化財 佃島渡船場跡』(船松町側)
上記文中にある「この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に」という一文ですが、ここにある「この島」というのは佃島の事だと思われますので、船松町側にある看板としては違和感があるのですが……
住吉神社:一の鳥居・参道・社標
こちらが、住吉神社「一の鳥居」です。
一の鳥居をくぐって参道をまっすぐ進むと、奥に石鳥居があります。
こちらが、住吉神社の入口です。
入口の右側に住吉神社の社標があります。
社標の上2文字が削り取られて消されていますが、かつては「郷社」と記されていたそうです。
住吉神社の入口に立つ石柱の紋は「丸に三つ星」という紋で、この住吉神社の神紋です。
住吉神社:二の鳥居・狛犬
こちらが、住吉神社「二の鳥居」です。
見えづらいですが、鳥居の裏側には狛犬があります。
二の鳥居は平成元年1月15日建立の石鳥居です。
住吉神社「二の鳥居」の扁額は陶器製で、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。
陶器製の扁額というのは非常に珍しいと思います。
筆者が訪れた神社仏閣の扁額一覧はこちら
なお、この陶製扁額は中央区民有形文化財に指定されています。
こちらが、住吉神社の狛犬(右側:阿形)です。
こちらは、狛犬(左側:吽形)です。
住吉神社:社務所・手水舎
こちらは、住吉神社の社務所です。
入口から入ってすぐ左手側にあります。
御朱印はこちらの社務所でいただけます。
こちらは、住吉神社の水盤舎です。
こちらが水盤です。
水盤の側面には「天保十二年」の文字が確認できます。
水盤舎と二の鳥居の陶製扁額については、まとめて1枚の看板で案内されています。
住吉神社の水盤舎・陶製扁額
住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(一六四六)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。
水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明治二年(一八六九)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治二年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十二年白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治十五年(一八八二)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。
水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。引用元:住吉神社案内看板『住吉神社の水盤舎・陶製扁額』
住吉神社:二宮金次郎像・鰹塚
住吉神社の入口から入ってすぐの右手側には、二宮金次郎像(二宮尊徳像)と鰹塚があります。
こちらが、住吉神社の二宮金次郎像です。
こちらは、住吉神社の鰹塚です。
鰹塚の由来については、案内看板が設置されています。
鰹塚
鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。
神社建築では、棟木の上に鰹節に似た円柱状の飾り木「堅魚木」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(七〇一年)、「養老律令」(七一〇年)に海産物調賦に、堅魚、煮堅魚、堅魚煎汁(煮詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存料、調味料としても利用してきました。東京鰹節類卸商業協同組合は、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和二十八年五月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合員九十六名の積み立てによる浄財でまかなわれました。
塚石は鞍馬石(高さ七尺、幅四尺)、台石は伊予青石(高さ三尺)であります。
表面の揮毫は、日展審査委員で組合員・鰹節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。東京鰹節類卸商業協同組合
引用元:住吉神社案内看板『鰹塚』
鰹節の源流は思っていた以上に古く、大宝元年(701年)に成立した国内最古の法典『大宝律令』には鰹節の原型が既に記されていたというから驚きです。
住吉神社:境内の様子
住吉神社の境内の様子です。
写真の右側が二の鳥居の裏側、正面が神楽殿です。
下の写真は、上の写真の左側の様子です。
正面に藤棚があり、その左側には末社の疱瘡神社・疫神社があります。
左側点前の屋根は本殿の屋根です。
こちらは、住吉神社の藤棚です。
見ごろの季節を迎えると、とても美しいそうです。
こちらは、社殿の左側から二の鳥居の方を向いた写真です。
こちらは、裏手口です。
下の写真の正面に見える屋根は、住吉神社の社殿です。
住吉神社:神楽殿・五世川柳水谷緑亭句碑
こちらは、住吉神社の神楽殿です。
住吉神社・神楽殿の扁額です。
こちらは、住吉神社にある五世川柳水谷緑亭句碑です。
神楽殿の隣にあります。
五世川柳水谷緑亭句碑については、案内看板も設置されています。
五世川柳水谷緑亭句碑
水谷緑亭(一七八七~一八五八)は、南茅場町(現在の日本橋茅場町一丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼い時に父を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名主をつとめたと伝えられています。また、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から三度にわたり褒賞を受けました。
文化年間(一八〇四~一八一八)初めに二世川柳柄井弥惣右衛門の門に入り、川柳を学び、腥斎佃(なまぐさいたつくり)と号しています。二世没後は四世川柳人見周助に学び、天保八年(一八三七)五十歳の時に五世川柳を継承しました。
五世嗣号の翌年には、初世川柳以来続いた「誹風柳多留」が一六七編で刊行を終えますが、天保十二年から「新編柳多留」を刊行し、嘉永二年(一八四九)の終刊まで五五編を数えました。緑亭は、この間に川柳の式法を作り、晩年に「柳風狂句」と名付けています。
編著には「狂句百味筆筍」をはじめ「住吉社奉額狂句会」等があります。文筆業に長じ、川柳とは別に著作も多く、「遊仙沓春雨草子」「祥瑞白菊物語」などの草双紙や、「俳人百家撰」などの伝記物等も著しています。
この句碑は、昭和四十一年十一月に佃の人々によって建立されたもので、「和やかで かたく持ちたし 人ごころ」と緑亭の句が刻まれています。平成九年三月
中央区教育委員会引用元:住吉神社案内看板『五世川柳水谷緑亭句碑』
住吉神社:龍神社(末社)
こちらは、住吉神社の境内にある末社の龍神社です。
社殿に向かって左手側にあります。
龍神社の扁額です。
龍神社の由来については、案内看板が設置されています。
龍神社
文政五年住吉神社の境内に水を司る神、龍姫大神(豊玉姫神)が龍神社として創建されました。その後佃島に白蛇が現れ、人々はこれを龍神(於迦美大神)と崇め佃の町の中に祠を建てて祀りました。しかしこの祠は漁師が網を渋釜で煮る作業場の近くにあったため火熱の害を受け易く、ある時網元の夢枕に祭神が現れ、住吉神社の境内へ移りたいとの神託(神のお告げ)がありました。これを受けて天保九年(一八三八)に住吉神社境内社の龍神社に合祀されました。翌年になると日本橋老舗白木屋の守護神として祀られていた大弁財天の御神徳が大き過ぎるため、持ちきれず龍神社へと合わせて祀られました。龍神社と大弁財天を合わせて「龍王弁財天」とお呼びするようになり、今日では開運出世・金運上昇・商売繁盛・学業成就・芸能達者・病気平癒の御神徳を持つ神として、崇敬を集めています。また弁財天の縁日が「巳の日」であることから、多くの方々がこの日に参詣しました。現在龍神社の例祭は「さくら祭り」期間中の三月下旬頃行われます。
引用元:住吉神社案内看板『龍神社』
住吉神社:疱瘡神社・疫神社(末社)
こちらは、住吉神社の末社の疱瘡神社と疫神社です。
住吉神社:船魂神社(末社)
こちらは、住吉神社の末社の1つである船魂神社です。
疱瘡神社・疫神社の左隣にあります。
住吉神社:入船稲荷神社(末社)
こちらは、住吉神社の末社の1つである入船稲荷神社です。
住吉神社の社殿の右奥にある宮神輿庫の隣にあります。
入船稲荷神社の前にある水盤です。
入船稲荷神社の水盤は、大正6年3月に作られたようです。
入船稲荷神社の扁額です。
入船稲荷神社の奥は、水路になっています。
写真右奥に見える赤い橋は、前出の佃小橋です。
住吉神社:宮神輿庫・旧神輿庫
こちらは、住吉神社の宮神輿庫です。
現在、神輿庫として使用されているのは、こちらの建物です。
こちらは、社殿の反対側にある旧神輿庫です。
レンガ造りの旧神輿庫については、案内看板が設置されています。
旧神輿庫
形状:煉瓦二階建(イギリス積み)
坪数:四坪五合八勺
竣成:明治四十三年十二月
費用:八百六十円住吉神社では明治四十三年(一九一〇)に大規模な修繕・改築等を行い、その事業の一環としてこの神輿庫が新築されました。当時東京府へ提出した工事開始願書には、神輿庫について左の様に記されています。
神輿庫ノ儀ハ従来神輿ヲ拝殿ノ一隅ニ置キ候為ニ平時甚タ不便ヲ感シ候ニ付今回新築致シ神輿ヲ納置シ度(後略)
明治四十三年十一月二十五日(意訳)
神神輿については、今まで神輿は拝殿の隅へ置いてあり、その為普段大変不便を感じていたので、この際新築して、ここへ神輿を納めようと思います。神社境内にレンガ造りの神輿庫は同時から珍しいものだったかもしれません。平成二十三年の震災で破損致しましたが、貴重な歴史的建築物として、補強工事を行い現在も使用されています。
尚、宮神輿(八角神輿)は現在、社殿に向かって右側のコンクリート造りの庫に安置されており、こちらの煉瓦の庫はその他の祭具が納められています。引用元:住吉神社案内看板『旧神輿庫』
住吉神社:社殿
こちらが、住吉神社の社殿です。
住吉神社の社殿は「神明造り」という建築様式の社殿です。
住吉神社の社殿は、明治3年(1870年)に再建された建物です。
住吉神社・本殿の賽銭箱は、金属製で重厚な存在感を放っています。
こちらが、住吉神社・社殿の扁額です。
都心にある家康公ゆかりの地・住吉神社はいかがでしたか?
月島駅徒歩5分で行ける場所にありますので、とてもアクセスが良いのも嬉しいですね。
また、実は住吉神社周辺には家康公ゆかりのグルメスポットもありますので、今回の記事ではそちらも併せてご紹介しています。
お見逃しなく!
アクセス・案内情報
- 名称:住吉神社
- 住所:東京都中央区佃1丁目1-14
- 電話:03-3531-3500
- 交通:東京メトロ有楽町線・都営大江戸線「月島駅」6番出口から徒歩5分
- 参考:住吉神社オフィシャルサイト | 海上安全・渡航安全の守護神
住吉神社近隣の徳川家康公ゆかりのグルメスポット紹介
住吉神社の周辺には、家康公ゆかりのグルメスポットがありますのでご紹介します。
住吉神社参拝の折は、ぜひ味わってみてください。
佃煮:家康公の命で江戸に移住した佃村の漁師たちが生み出した逸品
佃煮について、食べログにまとめ記事が掲載されていますのでご紹介します。
そもそも佃煮とは?
「佃煮」は現在も東京の佃島で作られており、佃煮発祥の地とされております。
江戸幕府が現在の東京に開府された際、徳川家康は大坂・摂津国にある佃村から漁師を移住させました。それと言うのも、佃村の漁民は天正年間(1580年代)の頃から家康に仕え、運搬や白魚を献上しし、大坂の役の際には軍船の調達までしたそうです。そこで、恩義に心から感謝した家康は干潟を埋め立てて江戸に住まわせたとされております。家康は大の白魚好きであったそうですが、佃島の漁民は佃煮と言う料理上の大発明をしました。住吉神社の祭礼に用いるお供え物であり、保存食として生み出されたのが佃煮。当時は醬油煮よりも塩煮が主流だったと言う説もありますが、何れにせよ保存性が高く美味しいため、重宝されました。そして、天保年間(1830年頃)には商業化され、すぐさま江戸名物となり、庶民に普及したそうです。そして、参勤交代の武士が江戸土産として持ち帰る事で、全国各地でも作られるようになったとされます(※複数異説あり)。
東京には江戸時代から今まで現存する佃煮専門店が複数あり、江戸時代からの老舗が残っているジャンルとしてはトップクラスです。
なお、住吉神社周辺にある佃煮店のうち、江戸時代創業の佃煮店で現存している店は以下の通りだそうです。
【江戸時代から現存する佃煮店と創業年】
今回は、安政6年(1859年)創業の「つくだに丸久」さんの佃煮をご紹介します。
(下の写真の右奥に見える赤い柱は、住吉神社「一の鳥居」です)
丸久さんでは佃煮を量り売りをしていますので、欲しい分だけ買えるのがありがたいです。
こちらが、丸久さんの佃煮です。
今回、筆者は「あみ」を100g買いました。
炊き立てのご飯に載せたら、最高に美味しかったです。
店主の方に教えていただいたオススメの食べ方は、卵の黄身と一緒にご飯という最高の組み合わせです。
アクセス・案内情報
名称:つくだに丸久
住所:東京都中央区佃1丁目2-10
電話:03-3531-4823
交通:住吉神社から徒歩約1分
参考:安政六年創業 つくだに 丸久
塩瀬総本家本店:徳川家康公と「長篠の戦い」ゆかりの菓子「本饅頭」
住吉神社周辺にある家康公ゆかりのグルメスポットでは、もう1つ重要なお店があります。
「長篠の戦い」にゆかりのある和菓子を作っている、塩瀬総本家さんをご紹介します。
塩瀬総本家本店には、佃大橋で隅田川を渡って向かいます。
こちらが、塩瀬総本家本店さんです。
シンプルな暖簾です。
塩瀬総本家本店の本饅頭は、何と家康公が「長篠の戦い」に出陣した時に献上された和菓子だそうです。
本饅頭
七代目林宗二草案の本饅頭
大納言の入った小豆餡を薄い皮で包み
ていねいに蒸し上げました。
徳川家康が長篠の戦に出陣した際、
献上された本饅頭を兜に盛って
軍神に供え、戦勝を祈願したことから
「兜饅頭」とも呼ばれております。
あっさりとした甘さ、上品な口当たり。
「塩瀬」自慢の一品です。引用元:塩瀬総本家本店『本饅頭』
これは家康公ファンなら絶対に食べなければなりません。
こちらが、塩瀬総本家本店の本饅頭です。
中は大納言小豆の餡がぎっしりと詰まっており、とても美味です。
アクセス・案内情報
名称:塩瀬総本家本店
住所:東京都中央区明石町7-14 塩瀬ビル1階
電話:03-6264-2550
交通:住吉神社から徒歩約10分
参考:御菓子老舗 塩瀬総本家