小山御殿広場は、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光、4代将軍・徳川家綱が、徳川家康公を祀る日光東照宮に参拝へ行く際に使用していた『小山御殿』のあった地です。
小山御殿は元和2年(1622年)に、2代将軍徳川秀忠によって建てられました。
御殿とはいうものの、その実態は東西64m・南北100mに渡る敷地の内外に16ケ所の番所を設置し、周囲には2重の土塁を配し、さらにその外側を水掘りで囲むという、平城のような構造でした。
ですが、次第に使われなくなると老朽化が進んでいき、ついには大風で大破してしまいます。
その結果、天和2年(1682年)に古河藩が取り壊し、小山御殿は終焉を迎えました。
残念ながら、現在ではその遺構のほとんどが消滅しています。
小山御殿とは?
小山御殿の建てられた地には元々、祇園城がありました。
その祇園城の歴史をさかのぼっていくと、小山一帯を治めていた小山氏の存在や、ひいては「平将門の乱」にまで行きつきます。
小山氏と祇園城跡
小山御殿広場に設置された案内看板には、小山氏と祇園城の歴史について以下の通り記されています。
小山氏と祇園城跡
小山氏は、天慶3年(940)に平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫で、12世紀中頃に、政光を初代として成立しました。政光の妻が源頼朝の乳母だったこともあり、頼朝に味方し、鎌倉幕府の成立に大きな力となり、幕府の御家人として東日本屈指の勢力を誇っていました。14世紀後半の小山義政・若犬丸の乱で、下野守護であった義政は鷲城や祇園城などを本拠に鎌倉府軍と戦いましたが、これを境に小山氏の勢力は著しく衰退していきました。祇園城は、この乱以降、小山氏の居城となったと考えられています。名称は、城内に祇園牛頭天王社を祭ったことに由来するといわれています。
戦国時代になると、小山は北関東の要衝であることから、越後の上杉氏や小田原北条氏がたびたび祇園城に来攻した。天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を攻略して天下統一を果たすと、北条氏に属していた小山氏は、領地を没収されてしまいます。
江戸幕府の成立後の慶長12年(1607)ごろ、徳川譜代の本多正純が3万石余りで小山に封じられるとその居城となりましたが、元和5年(1619)正純が宇都宮に移封されると、廃城となりました。そしてこの一画には、徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として「小山御殿」が造営されました。城内の南の領域は慶長5年(1600)7月25日にいわゆる「小山評定」が開かれた地と考えられています。引用元:小山御殿広場案内看板『小山御殿広場』
以上の内容をまとめると、このような感じです。
【小山御殿のポイント】
- 天慶3年(940年)に「平将門の乱」を鎮圧した藤原秀郷の子孫が小山氏
- 12世紀中頃に小山政光を祖として小山氏がこの地に土着する
- 小山政光の妻・寒河尼は源頼朝の乳母(頼朝には複数人の乳母がおり比企尼とは別の乳母)
- 鎌倉時代には関東屈指の権勢を誇るも室町時代に没落
- 戦国時代には上杉家や北条家が度々攻め入ってきた
- 慶長5年(1600)7月25日には城の南側で「小山評定」が行われた
- 慶長12年(1607年)に祇園城が徳川家康公家臣・本多正純の居城となる
- 元和2年(1622年)2代将軍・徳川秀忠により小山御殿が建てられる
- 元和5年(1619)正純が宇都宮に移封・祇園城は廃城
- 天和2年(1682年)に古河藩が小山御殿を取り壊した
より詳細な年表は案内看板に掲載されています。
前掲の画像の右下に年表がありますが、画像が少し不鮮明なのでテキスト化しておきます。
祇園城関係年表
12世紀
- 治承4年(1180)小山政光の妻(寒川尼)、源頼朝に隅田で再会。
- 寿永2年(1183)小山朝政ら、反頼朝方の志田義弘を破る。(野木宮合戦)
- 建久3年(1192)源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる。
- 文治3年(1187)寒川尼、頼朝より寒川郡綱戸郷の地頭職に任じられる。
13世紀
- 寛喜2年(1230)小山朝政、所領・所職を長村に譲る。
14世紀
- 建武3年(1336)小山氏、足利氏に従い、新田義貞を破る。
- 康暦2年(1380)小山義政、宇都宮基綱と戦う。
- 永徳元年(1381)小山義政、鎌倉府軍と戦う。鷲城を開城し、祇園城に入る。
- 永徳2年(1382)小山義政、祇園城に放火し、糟尾山に立てこもる。鎌倉府軍に敗れ自害する。
- 至徳3年(1386)義政の子若犬丸、祇園城にて挙兵。
- 応永4年(1397)若犬丸、奥州会津にて自害する。若犬丸の子、六浦に沈められる。小山氏滅亡。
15世紀
- 応永 結城氏より泰朝を迎え、小山氏再興(重興小山氏)。
- 永享11年(1439)永享の乱(1438~)、祇園城、鎌倉公方方の那須氏に攻め落とされる。
- 永享12年(1440)結城合戦(~1441)、結城勢が小山宿城(祇園城)に来攻するも、小山方撃退する。
16世紀
- 永禄6年(1563)越後の上杉謙信、祇園城を攻め落とす。
- 天正3年(1575)小田原の北条氏、祇園城を攻め落とす。
- 天正10年(1582)織田信長と北条氏の協定により、祇園城が小山氏に返還される。
- 天正18年(1590)豊臣秀吉、小田原北条氏を制圧。祇園城は豊臣方の結城氏に攻め落とされる。
17世紀
- 慶長5年(1600)徳川家康、小山評定を催す。
- 慶長8年(1603)徳川家康、征夷大将軍に任ぜられる。
- 慶長13年(1608)本多正純、城主となる。
- 元和5年(1619)本多正純、宇都宮に移封。(祇園城廃城)
- 天和2年(1682)小山御殿解体される。
引用元:小山御殿広場案内看板『小山御殿広場』
ちなみに、上記の年表に登場する小山朝政と小山義政につきましては、近隣の須賀神社に記念碑があります。
小山御殿
小山御殿は、徳川家康公を神・東照大権現として祀る日光東照宮に現役の徳川将軍が参拝へ行く際に、休憩・宿泊するために建てられました。
(つまり、家康公自身は使用していない御殿ですが、秀忠・家光・家綱の3代に渡り使用されました)
各地に建てられた御殿はこちら
小山御殿は、豊臣秀吉亡き後に反徳川派を一網打尽とするべく、家康公が大勝負に打って出た「関ヶ原の戦い」の直前に行われた伝説の軍議「小山評定」が開かれた場所のすぐ近くに建てられました。
小山御殿
徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として建てられました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前に行われた「小山評定」の吉例にならったともいわれています。
徳川家康は元和2年(1616)4月17日に没し、翌年日光東照社(後の日光東照宮)にその遺骸が改葬され、一周忌が営まれます。
それ以来、日光は徳川将軍家の聖地となります。将軍家の日光社参は19回に及び、なかでも三代将軍の家光は10回も社参を行っています。
小山御殿は、かなり厳重な配置になっており、周囲に堀を廻らし、土塁を二重に築き、敷地内には16ヶ所もの御番所が設けられていました。
将軍家の日光社参は寛文3年(1663)に4代将軍家綱が行って以降、八代将軍吉宗が享保13年(1728)に再開するまで財政難を理由として途絶えてしまいます。
この間、台風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和2年(1682)、古河藩によって解体されてしまいました。引用元:小山御殿広場案内看板『小山御殿広場』
「小山評定」が開かれた場所についてはこちら
現在、小山御殿広場では小山御殿に関する発掘調査や、遺構の保護などを進めているそうです。
小山御殿広場の整備と発掘調査について
小山御殿広場の整備について
「小山御殿広場」は歴史を学ぶ場であり、文化活動やさまざまな学習・体験の場として活用することができます。中世小山氏の重要な遺構を保存することはもちろん、中心市街地に残された貴重な自然空間として、歴史案内とまちづくりの拠点となるように、今後の活用も十分考慮して整備を行いました。
発掘調査により確定された「小山御殿」の建物配置や、周囲に盛られた堀や土塁は、色分けをしたインターロッキング舗装や着色コンクリート舗装により平面表示を行いました。これは、雨水を速やかに地下に浸透させる自然に優しいものであり、高麗芝とあいまって、自然な空間を作り出しています。発掘調査について
「小山御殿広場」は、小山氏時代の遺構を埋め、後北条氏が曲輪を造営した後、徳川幕府によって「小山御殿」が建てられた場所です。発掘調査では、15世紀の大規模な城の区割りや、16世紀後半の後北条氏による城の整備・強化、17世紀初頭の「小山御殿」の建設などをきっかけに、城が大きく変化していく様子がわかりました。発掘調査の成果
発掘調査では、井戸跡や「小山御殿」の周囲に巡らされた堀跡、二重に築かれた土塁などの遺構が見つかりました。「小山御殿」の位置は、これらの遺構や絵図面などを重ねて推定しました。
「小山御殿」が機能していた時期の遺物としては、硯(すずり)などが見つかりました。硯の裏側に、「土橋」の銘が線刻されていたことから、『江戸幕府小山御殿図』等に登場する、御殿番を務めた土橋兵右衛門、久兵衛と関連があると考えられています。引用元:小山御殿広場案内看板『小山御殿広場の整備と発掘調査について』
この案内看板や史跡としての整備方針について、問題提起する意見を見つけましたので後ほどご紹介します。
現地に赴くと少々分かりづらいのですが、設置されている案内看板にある航空写真を確認すると、往時の小山御殿がどのようなものだったのか分かります。
発掘調査時にはこのように、現在公園として芝生整備されている区域を発掘したようです。
ちなみに、下の画像の通り、小山御殿広場の隣には小山市役所があり、その敷地内には小山評定跡碑があります。
この航空写真では、小山市役所と逆方向には祇園城跡があることも分かります。
小山御殿広場の史跡整備に関する問題点
この小山御殿広場の整備に関して、調べてみると以下の問題提起が見つかりました。
とても大切な内容だと思いましたので、以下に引用させていただきます。
小山御殿跡の説明板と市長への質問
城山公園(祇園城)再整備事業情報 8◆昨日、小山市長へのメールにて、下記の質問書を送信しました。
◆この質問は、城山公園=国指定史跡中世城郭小山氏城跡祇園城跡=小山城跡の南、小山市役所新庁舎北側に隣接する「小山御殿広場」と命名されてしまった場所に設置された説明板についてのものです。
◆この広場には、2か所の説明板があるのですが、今回は、新庁舎側の説明板に対してのものです。
◆実は、この「小山御殿広場」も、国指定史跡中世城郭小山氏城跡祇園城跡となっています。
◆しかし、説明板は、近世・江戸時代の小山御殿関係の説明が中心となっており、遺構・遺物の写真も同様です。また、整備と称して広場になった部分の表示も御殿関連のみとなっています。
◆つまり、中世城郭小山氏城跡祇園城跡の遺構・遺物の提示がなされていないのです。
◆これは、どのような理由によるものなのか、今回の伐採事業との関連で同地を訪問した素人リハビリ散歩人は、疑問に思ってしまったわけです。
◆また、説明板には、「中心市街地に残された、自然空間として」とありますが、散歩人には、広場が自然空間であるとは、とても思えないのです。芝生を中心とした、ただの広場なのですから・・・。そこで、今回、質問をすることにしたのです。
◆小山御殿広場=小山御殿跡は、市教育委員会により、発掘踏査が行われ、平成13年『小山氏城跡範囲確認調査報告』が発行されています。同報告を見ると、中世~近世に至る墓・墓石・寺院関連遺構・遺物が多数出土していることが分かります。また、数回行われた現地説明会では、発掘担当の秋山隆雄氏が、人骨も出土したと説明していました。にもかかわらず、江戸時代の将軍たちが利用した小山御殿の説明となっているのです。
◆これは、歴史の隠蔽・改竄です。さて、どのような回答が来るでしょう。回答があり次第、お知らせします。
◆皆様におかれましては、小山御殿広場を訪問する場合、地下に墓地などが存在したことを念頭にいれながら、散策されると宜しいかと思います。
また、続く記事にて以下の通り追記されています。
小山御殿広場地区整備に伴う発掘調査
城山公園(祇園城)再整備事業情報 9◆昨日も記しましたが、この御殿広場は、中世城郭小山氏城跡として、国指定史跡に指定されているのです。それが、この『整備報告書』を読むと、近世・江戸時代の将軍が日光社参に際して利用した御殿の整備に終始していることが分かるのです。全く、理解できない内容となっています。
◆実は、この『整備報告書』の基礎となる報告書に、やはり、秋山氏等が担当した『小山市文化財調査報告書第52集 小山氏城跡範囲確認調査報告書Ⅰ 祇園城跡・鷲城跡の調査』(小山市教育員会、平成13年)があります。当然のことながら、『整備報告書』は、この52集を引用しています。
◆この52集をパラパラ見ただけでも、多数の中世関係遺物が掲載されていることが、素人リハビリ散歩人でも理解できます。にもかかわらず、小山御殿広場の整備、説明板は、近世・江戸時代の小山御殿一色となっています。
◆とても、不思議な整備であることが分かります。中世城郭小山氏城跡は、どこへ行ってしまったのでしょうか。これは、意識的に省いたことは確実です。ここまでくると、御殿跡、小山の歴史を高麗芝などで覆い隠した隠蔽・改竄・捏造です。
上記のご指摘の対象となっている案内看板は、前掲の『小山御殿広場の整備と発掘調査について』です。
確かに、案内看板には「小山御殿に関しての発掘調査」しか案内されていません。
ですが、前出のブログ管理人さんのご指摘によると、
- 小山御殿広場も国指定史跡中世城郭小山氏城跡祇園城跡の一部である
- にもかかわらず案内看板は小山御殿に関する内容に終始している
- 整備した広場を自然空間と謳っているがそうは見えない
- 中世~近世に至る墓・墓石・寺院関連遺構・遺物が多数出土していて当時の人骨も出土している
- にもかかわらず案内看板は小山御殿に関する内容に終始している
- これらは意図的に省いたものであり歴史の隠蔽・改竄・捏造である
といった問題点が浮き彫りになります。
これらのご指摘に対して、小山市側は有効な回答・対応をしていないようです。
もし指摘内容が全て事実であるにもかかわらず、小山市側が真っ当な対応をしないのであれば、それは極めて大きな問題があると言わざるを得ないでしょう。
史跡の保存・整備については、歴史学的に見て「きちんとした対応」がなされることを切に願います。
ただ、こうした問題は小山御殿跡に限らず、各地で存在するように思います。
例えば、東京都府中市にある府中御殿跡ですが、史跡としての整備・紹介の中心は国史跡である「武蔵国府」であり「国司館」です。
同地は府中御殿跡であり、家康公の棺が逗留した場所ですが、それよりも昔の時代には武蔵国府の国司館が建っていたという場所です。
府中御殿跡では国史跡である「武蔵国府」を中心として整備・紹介されていて、かつてそうした施設があった場所に、後の時代になって家康公が府中御殿を建設した、そして家康公の棺を久能山から日光へ移す際には逗留した、という流れで紹介しており、家康公が「府中は古えより府庁の地と兼ねて聞召されければ、その旧地へ営むべき旨…」と御殿造営を命じた事は武蔵国の正当な統治者である事を示そうとしたのではないか、と結んでいます(この紹介の仕方について、より重要な史跡を中心に据えながらも、歴史の流れの中で双方を関連付けて紹介するという点が、個人的には好印象です)。
同じ場所に複数の史跡が存在する場合、どの史跡を主に据えるかという問題は難しい問題かもしれません。
ですが、決してやってはいけない事は「こちらの方をメインにした方が話題作りになる・集客できる・金になる」という観点から、歴史学的見地を歪曲して(あるいは無視して)整備計画を策定してしまう事ではないでしょうか。
(例えば、家康公は「3英傑」の1人ですし、徳川幕府の開祖ですし、徳川将軍家の祖ですし、2023年にはNHK大河ドラマ『どうする家康』も放送されますし、近年は秀忠の評価も見直されているし、小山氏とか祇園城跡とかよりも家康公関連の小山御殿として売り出した方が経済効果が高い集客できるよね、みたいな考え方で史跡としての整備計画を左右させては駄目だという事です)
今日を生きる私たちが史跡を楽しめるように、後世の人々も史跡を楽しめるように、正しく史跡が受け継がれていくようにしなければならないと思います。
そうした事を考えながら小山御殿跡を見つめた時、違った姿に見えてくるのではないでしょうか。
今一度、史跡とは何かについて考えさせられました。
(ちなみに、当ブログでは「家康公ファン」としての視点から、史跡をご紹介しています。そのため、内容は多少強引にでも家康公や徳川家等を中心に据えてありますが、今回は思う所がありましたので少々私見を書いてみました)
小山御殿跡(小山御殿広場)
こちらが、現在の小山御殿跡(小山御殿広場)の様子です。
正面に見える真新しい建物は、小山市役所の新庁舎です。
コンクリート舗装されている部分が、御殿外側に巡らせてあった堀と土塁の規模を、色分けで表現しているものと思われます。
御殿の敷地部分は芝生で覆って保護されています。
小山御殿の敷地面積は「東西64m×南北100m=6,400平方メートル」程度だったようです。
他の御殿と比較すると、例えば鴻巣御殿の敷地面積は「1.4ヘクタール=14,000平方メートル」程度、船橋御殿の敷地面積は「404アール=40,400平方メートル」程度、中原御殿の敷地面積は「東西78間(約141m)×南北56間(約101m)=14,241平方メートル」程度でしたので、小山御殿はやや小さめの御殿だったのかなという印象です。
小山御殿広場の隅には、標柱が建てられています。
地元の方たちも、広場として利用している様子でした。
まだ小山市役所庁舎の建設工事が完了していないのか、敷地の一部はバリケードで区切られています。
案内看板の奥はやや傾斜があります。
広場の奥から振り返ってみると、こんな感じです。
ちなみに、今回ご紹介した小山御殿広場の近くには、家康公ゆかりの地である「小山評定跡碑」と須賀神社があります。
ぜひ併せて訪れてみてください。
小山御殿広場の隣にある「小山評定」の舞台・小山評定跡碑
もう1つの「小山御殿跡」記念碑がある!? 須賀神社はこちら
アクセス・案内情報
- 名称:小山御殿広場
- 住所:栃木県小山市中央町1-1-1(小山市役所敷地内)
- 電話:0285-22-9668 (小山市文化振興課)
- 交通:JR小山駅西口から徒歩約8分
- 参考:小山評定と小山御殿 - 小山市ホームページ