慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)にて、徳川家康公率いる東軍と石田三成ら西軍が「関ヶ原の戦い」を行いました。
「関ヶ原の戦い」の約3ヶ月前、慶長5年7月25日(1600年9月3日)下野国小山に布陣していた家康公は、豊臣軍の諸将を集めて軍議を開きます。
この「小山評定」により結束した東軍は、反転して西へ向かい進軍していきます。
今回は「小山評定」が行われた場所である須賀神社をご紹介いたします。
なお、須賀神社のすぐ近くに「小山評定跡碑」もありますので、併せて訪れたいところです。
↓「小山評定」について詳しくはこちら↓
「小山評定」はどこで行われた? 2つある小山評定記念碑の謎
「関ヶ原の戦い」前の重要なターニングポイントとなった「小山評定」ですが、この「小山評定」が行われた場所として建てられた記念碑は2つ存在しています。
1つは小山市役所の敷地内にある『小山評定跡碑』、もう1つがここ須賀神社にある『小山評定之碑』です。
小山市役所の『小山評定跡碑』は昭和39年(1964年)に、須賀神社の『小山評定之碑』は平成24年(2012年)に建立されたので、いずれもかなり新しい記念碑です。
では、小山市役所と須賀神社どちらで「小山評定」が行われたのでしょうか?
産経新聞の記事に興味深い情報がありました。
評定が行われたのは須賀神社の境内だった 家康公が戦勝祈願も
(中略)沼部春友宮司(78)は「小山評定は神社の境内で行われ、徳川家康公が戦勝祈願をした」と話す。
小山評定があった祇園城跡は、市役所やその周辺にあたる。家康の侍医、板坂卜斎の「慶長期」には三間(5メートル)四方の仮御殿を造らせたとあるが、沼部宮司は「境内ならどこでもできる」。
昭和30年の「栃木県市町村誌」や明治時代の「栃木県誌」「明治神社誌料」など多数の公的な文献にも、同神社境内で評定が行われたとする社伝が記されている。ただ、同市は、市役所北隣の小山御殿跡地を小山評定の場所と推定している。いずれにしても、徳川家は須賀神社に特別な思いがあった。神社に残された寄進状によると、関ケ原の戦いの後、神社に51石余が与えられた。
そして神社に残る朱神輿(あかみこし)。江戸幕府3代将軍、徳川家光が、日光東照宮を豪華絢爛(けんらん)な今の姿にした寛永の大造替(だいぞうたい)の職人に命じて造らせた。
高さ2・25メートル、重さ1・5トン。東照宮本殿を模した精巧なミニチュア。屋根の露盤の墨書から1658(万治元)年12月に造られたことが分かる。制作を命じた家光は既に亡くなっていた。引用元:【小山評定・紀行編(4)】評定が行われたのは須賀神社の境内だった 家康公が戦勝祈願も(1/2ページ) - 産経ニュース
※上記の引用文中には「慶長期」とありますが、正しくは『慶長記』です。
『慶長記』は家康の侍医・板坂卜斎が書き残した覚書であり、例えば家康公がどんな本を読んでいたかなど、家康公のことが事細かに記録されている貴重な史料です。
↓家康公はどんな本を読んでいたのか? 家康公と読書についてはこちら↓
司馬遼太郎先生の『関ケ原』などでは、この『慶長記』による「三間(5メートル)四方の仮御殿を造らせた」という記録に基づいた描写がされています。
ここが、源平以来下野で威をふるった豪族小山氏の旧本丸なのであろう。
この塁のあとに、庄屋屋敷がある。家康の陣所である。
会議は、そこでおこなわれる。屋敷がややせまいために、屋敷に連結してそのうしろに三間ぶちぬきほどの広さの広間が、きょうの軍議のために建てられていた。むろん家康の携行用の野陣材料でたてられた一夜普請ではあるが。引用元:司馬遼太郎[1974]『関ケ原(中)』(新潮文庫)P.513
ですが一方で、明治時代に編纂された『栃木県誌』や『明治神社誌料』、昭和30年(1955年)に編纂された『栃木県市町村誌』など、多数の公的文献には「須賀神社の境内で小山評定が行われた」とする須賀神社の社伝が記録されています。
ご参考までに、明治36年(1903年)に編纂された『下野神社沿革誌』の一文を引用します。
下都賀郡小山町大字小山字宿鎭座 郷社 須賀神社
社傳に曰く(中略)後慶長五年1600當地に諸侯を合し評定の節徳川家康本社に参籠あり戰勝を祈り濃州關ヶ原の戰に打勝ち遂に天下を一統せしを以て仝十五年報賽として本多上野介に命して仝郡立木地内に於て高二十石四升五合仝郡石塚村地内に於て高十五石九斗九升仝郡木澤村に於て高十五石合せて五十一石余を社領として附せられ後木澤村の社領十五石を改めて朱印地となし本社に賜はり徳川將軍家代々崇敬の社なり
引用元:風山広雄[1903]『下野神社沿革誌 巻之4』P.36
両者は非常に近い位置にありますので、どちらで「小山評定」が行われたとしても不思議ではないと思われます。
記念碑間の距離は約350m程度ですし、当時はこの国道4号線の位置に道があった訳でもないので、この一帯の土地に陣を敷いていたのならば、開催場所の詳細な特定までは難しいかもしれません。
ただし、須賀神社の場所について元々は小山城内(別名:祇園城)にあったとされ、小山藩藩主・本多正純によって江戸時代初期に現在地に移転されたとする情報もあるようです。
この情報については、国土交通省による冊子にも情報があります。
須賀神社
代々小山氏の崇敬が厚く、小山66郷の総鎮守とされてきました。以前は小山城内にありましたが、本多正純の小山城改修の際に現在地に移転されました。(以下略)元須賀神社
宮本町にある須賀神社の元の位置との説があります。江戸時代には牛頭天王社・元祇園社・本祇園社などとよばれていました。引用元:国土交通省関東地方整備局宇都宮国道事務所調査課[2002]『歩く・楽しむ・発見する日光街道御徒マップ』
なるほど、戦国時代末期には「小山城内=元須賀神社の位置」にあった須賀神社が、江戸時代初期に本多正純により現在地に移転したという事のようです。
もしそうだとするならば、小山評定が須賀神社の境内で行われたのだとしても、それは小山城内にあったかつての須賀神社の境内であって、須賀神社が現在ある場所で小山評定が開かれた訳ではないという事になります。
そして、ここにきて元須賀神社という新たな候補地が浮上してしまいました。
ただし、この点について当の須賀神社側は略記等で一切触れていません。
須賀神社の所在地について、須賀神社の社伝によると「平治年間(1159年〜1160年)に小山城の築城に際して現在地に遷座(移転)した」という事だそうです。
当初は小山の字北山(現在の中久喜地内)にまつられましたが、小山城の築城に際し、城の鎮守とも仰がれ、平治年間(1159〜60)に現社地に遷座されました。
引用元:須賀神社について | 須賀神社
はたして、小山評定が行われた場所は一体どこなのでしょうか?
【現状で考えられる小山評定が行われた場所の候補地一覧】
- 小山評定跡碑(場所としては小山市役所隣の小山御殿跡)
- 小山評定之碑(須賀神社境内)
- 元須賀神社(須賀神社から徒歩約10分の場所)
残念ながら、どの候補地も決定打に欠けるというのが現状だと思います。
ただし、家康公は須賀神社で「関ヶ原の戦い」の戦勝祈願を行っており、また「関ヶ原の戦い」戦勝後には須賀神社に知行51石を寄進しています。
三代将軍・徳川家光の代になると、家康公を祀る日光東照宮を模した朱神輿を造らせるなど、須賀神社は家康公を始め徳川将軍家から破格の待遇を受けています。
従って、もし「小山評定」が開かれた場所が須賀神社の境内ではなかったとしても、須賀神社が家康公ゆかりの地であることは間違いないと言えます。
まあ全て徒歩で回れる距離ですし、須賀神社自体はとても素敵な神社ですので、せっかく訪れたのならばまとめて全て回ることをオススメしたいと思います。
須賀神社
須賀神社は『小山評定跡碑』や『小山御殿跡』から最短距離だと徒歩約4分で行けますが、せっかくなので少し遠回りをして参道の入口から行くことをオススメします。
参道・一の鳥居
こちらが、須賀神社の参道入口です。
参道の入口脇には、早くも小山評定が開かれた地であることをアピールする看板が立っています。
須賀神社の参道は一直線に境内まで続いており、その途中に一の鳥居があります。
こちらが、須賀神社・一の鳥居です。
一の鳥居からさらに進むと、ビューポイントの案内看板があります。
参道の中央からの景色は、赤い灯篭も合わさってとても素晴らしい景色です。
参道を奥まで進んでいくと、国道4号線と丁字路になっています。
その国道4号線を越えると、いよいよ須賀神社の境内に到着します。
二の鳥居・社標・日光石など
こちらが、須賀神社の境内入口です。
手前にある道路が国道4号線です。
国道4号線を越えると、須賀神社・二の鳥居と社標、そして『小山評定之碑』があります。
下の写真では一番右側に見えるのが、小山評定の開催地を記念した石碑『小山評定之碑』です。
こちらが、須賀神社・二の鳥居です。
こちらが、須賀神社の社標です。
片隅には『日光石』なるものがあります。
碑文によると、この『日光石』は「神となった徳川家康公=東照大権現」を祀る日光東照宮の台座石を拝領したものだそうです。
日光石と楓
須賀神社御創建壹千七拾年記念事業の一環として 小山評定碑建立にあたり日光東照宮よりその台座石(日光石)と楓の苗木を拝領した
楓は昭和天皇の思召により皇居吹上御所から日光東照宮に下賜されのち同宮においてその種子を二代にわたって育成された
もって記念事業が一層意義あるものとなったことをここに銘記する平成二十四年五月十九日
須賀神社宮司沼部春友撰文引用元:須賀神社・日光石碑文『日光石と楓』
この『日光石』は『小山評定之碑』の裏側にひっそりと置いてあります。
家康公関連のアイテムがこんなところにあるとは、油断していました。
こちらは、須賀神社の略記です。
須賀神社略記
●御社名
須賀神社と称す。祇園社・牛頭天王(ゴズテンノー)・天王さまとも称す。●御祭神
素盞鳴命 スサノオノミコト 病魔退散、交通安全、厄除開運、農耕・殖産の神と仰がれる
大己貴命 オオナムチノミコト 大国主神とも称し、縁結び、招福、商売繁昌の神と仰がれる
誉田別命 ホンダワケノミコト 八幡神とも称し、学芸、武道、勝利の科と仰がれる●御由緒
当神社の創建は、藤原秀郷公が天慶の乱に際して、日夜素盞鳴命に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、天慶三年(九四〇)四月、京都の八坂神社(祇園社)から勧請して創祀した。
当初は学北山(現中久喜)にまつられたが、小山城築城に際し、城の鎮守と仰がれ、平治年間(一一五九~六〇)に当地へ遷座された。以来、小山六十六郷(小山市全域に野木町、国分寺町、下石橋、結城市小田林地区を含む)の総鎮守と仰がれる。
徳川家康公は、慶長五年(一六〇〇)七月、当神社境内で小山評定(軍議)を開き、参籠して関ヶ原の戦勝を祈願した。祈願成就した事により、五十一石余の社領を寄進した。のち家康公の崇拝神社なる故をもって、家光公の命により、日光東照宮造営職人の奉製になる朱神輿(アカミコシ)が、当神社に奉納された。
昭和初期には、本殿、神殿、直会殿、大鳥居、手水舎、社務所などが竣工、同五十七年三月には、須賀神社会館が竣工して、年中の諸行事や結婚式場として、利用されている。
平成二年四月に創建一○五〇年大祭を斎行し、これを記念して神門廻廊造営事業に着手し、同八年五月に竣エした。その後引き続き、社殿、末社、神輿殿、手水舎等の屋根銅板井替工事、並びに、境内森林に格苗木一千本を植栽し、境内施設整備をした。
参詣者は、小山六十六郷は勿論、県内外から広く厚い崇敬をうけている。
境内には、小山の伝説で有名な「七ツ石」(夜泣き石)や藤原秀郷公陣、小山朝政公像、小山義政公碑、天狗党に参画した昌木晴雄翁陣、筆塚などがあり、神域の須賀の森には、杉、格、標、林、銀杏等が生い茂り、多くの野鳥が棲息している。(中略)
●宝物
(中略)
朱神輿(アカミコシ) 県指定文化財
徳川家康公朱印状 同右 ※市指定文化財(以下略)
須賀神社社務所
引用元:須賀神社案内看板『須賀神社略記』
※印は筆者補記。
他にも『御創建壹千七拾年記念事業の記』という案内看板もあります。
なるほど、須賀神社にある社標や大鳥居は真新しいものだという印象でしたが、平成24年に造営をしたようです。
境内に入ってすぐのところにある石灯籠です。
この石灯篭は古い時代のもののようです。
もう1種類の石灯籠も、なかなか年季がはいっている様子です。
そのすぐ近くにあるこの石柱(名前が分からないのですが)には「安政三丙辰年」と刻まれています。
安政3年(1856年)というと、アメリカの外交官であるタウンゼント・ハリスが静岡県下田に上陸し、徳川幕府と通貨交換率などについて交渉を行った年です。
小山評定之碑
こちらが須賀神社にある『小山評定之碑』です。
『小山評定之碑』は平成24年に建立された記念碑なので、かなり真新しい状態です。
こちらが『徳川家康公小山評定之碑』の碑文です。
徳川家康公小山評定之碑
徳川家康公は慶長五年(一六〇〇)、上杉景勝討伐のため江戸から会津に向う途次、当地小山において、石田三成が家康公打倒のため挙兵したとの報を受け、急遽会津への進軍を中止し、七月二十五日、当地に諸侯を集めて軍議を開いた。これを後に小山評定という。参集した諸侯は、秀忠公をはじめ、福島正則、結城秀康、黒田長政、本多忠勝、井伊直政、山内一豊、浅野幸長、細川忠興、堀尾忠氏、池田輝政、藤堂高虎、松平忠吉、加藤嘉明、寺沢広高他である。軍議は福島正則が家康公への味方発言をした事により、関ヶ原に向うこうとを決した。そこで、家康公は当神社に参籠して戦勝を祈願し、関ヶ原に向って石田三成の西軍と戦い勝利した。のち家康公は当神社に五十一石の社地を寄進し、寄進状は当神社に社蔵する。また家康公薨去後、日光東照宮が創建されると、家光公の命により、東照宮造営の職人によって、同宮本殿の縮尺になる朱神輿を奉製し、当神社に寄進した。朱神輿は神社会館内に奉安し公開している。
平成二十四年五月十九日
須賀神社社務所引用元:須賀神社記念碑『徳川家康公小山評定之碑』
なぜ本多正信の名が記されていないのか、それが個人的には極めて残念に思います。
家康公にとって唯一無二の参謀として、豊臣秀吉亡き後から「関ヶ原の戦い」後の天下取りまで、家康公と二人三脚でシナリオを描いたであろう正信の名が無いとは……
藤原秀郷公の碑
こちらが須賀神社にある『藤原秀郷公顕彰之碑』です。
記念碑には説明を記した立札もあります。
この須賀神社を創祀した縁で、藤原秀郷の記念碑があるようです。
昌木(沼部)晴雄翁の碑
こちらが、須賀神社にある『昌木(沼部)晴雄翁の碑』です。
天狗党とは、元々は水戸藩主・徳川斉昭の藩政改革を機に結成された尊王攘夷運動の急進的な一派の事であり、後に元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派の集団です。
昌木(沼部)晴雄はその天狗党の一員として挙兵の後、斬首されたそうです。
小山市内最古の石鳥居(栃木県内で2番目に古い石鳥居)
こちらが、須賀神社にある小山市内で現存する最古の石鳥居です。
石鳥居の裏側(境内側から)です。
須賀神社の石鳥居は、承応2年(1653年)に小山町の旦那衆によって建立されました。
これは、小山市内に現存する石鳥居として最も古いものであり、また栃木県内の石鳥居としても日光東照宮にある4基の石鳥居の次に古い石鳥居という事になります。
手水舎
こちらが、須賀神社の手水舎です。
水盤です。
手水舎には案内看板が設置されています。
手水の作法が案内されていると、分かりやすくて良いですね。
神門
こちらが、須賀神社の神門です。
こちらが、須賀神社・神門の扁額です。
一の鳥居から長い参道を経て、二の鳥居から神門の奥にある拝殿まで、全て一直線上に並んでいます。
その景色は見ごたえがあります。
境内の様子
こちらは、須賀神社の境内図です。
神門をくぐると、まず左手側に神楽殿と南門があります。
正面には拝殿や御神木の切り株などがあります。
右手側には、神輿殿や北門があります。
神楽殿
こちらが、須賀神社の神楽殿です。
須賀神社・神楽殿の扁額です。
御神木
こちらが、須賀神社の御神木です。
須賀神社の御神木・樅の木ですが、樹齢800年だそうです。
北門・須賀神社会館
こちらが、須賀神社の北門と須賀神社会館です。
御朱印などはこちらの須賀神社会館で受け付けているそうです。
南門・狛犬
こちらが、須賀神社の南門と狛犬です。
須賀神社の狛犬は南門の外側にのみあります。
上の画像が阿形の狛犬、下の画像が吽形の狛犬です。
七ツ石(夜泣き石)・小山朝政之碑・小山義政之碑
須賀神社の南門の外には、七ツ石(夜泣き石)と小山朝政之碑・小山義政之碑があります。
上の画像の手前側にある石が須賀神社の『七ツ石(夜泣き石)』です。
この七ツ石(夜泣き石)の伝承ですが、南北朝時代(室町時代初期)に起きた小山城の話です。
康暦2年(1380年)から永徳2年(1383年)にかけて「小山義政の乱」が起こりました。
「小山義政の乱」において、室町幕府が鎌倉に設置した関東統治のための出先機関・鎌倉府によって、小山家は追討され断絶します。
そこで、同族の結城家から結城泰朝を養子を迎えて、小山家を再興しました。
つまり、結城の城主とは結城泰朝改め小山泰朝のことです。
こちらは、須賀神社にある小山朝政之碑と小山義政之碑です。
小山朝政は平安時代末期〜鎌倉時代初期の武士で、父は初代小山城主の小山政光です。
朝政は早くから源頼朝に付き従い、源平合戦や奥州平定に出陣した御家人で、晩年は鎌倉幕府の重鎮として活躍しました。
小山義政は小山朝政の子孫ですが、室町幕府の関東統治のための出先機関・鎌倉府により滅ぼされました。
その経緯については、立札に案内があります。
こうして義政が滅ぼされて名門・小山家は滅亡しますが、名門の滅亡を惜しんだ第2代鎌倉公方(鎌倉府のトップ)足利氏満の指示により、結城家から養子を取ることで復活しました。
ただし、この頃から名門としての権威は失墜しました。
拝殿
こちらが、須賀神社の拝殿です。
拝殿・本殿の裏側には末社がいくつかあります。
拝殿の賽銭箱です。
こちらが、須賀神社・拝殿の扁額です。
「関ヶ原の戦い」は今の岐阜県不破郡にて行われましたが、その直前には家康公らが関東にいたため、実は意外と「関ヶ原の戦い」関係の史跡が関東地方にもあるですね。
関東から関ヶ原まで旅行に行くのは大変ですが、関東近辺の史跡なら気軽に行ける距離なので、ぜひ坂東武士の皆さんは関東の史跡巡りも楽しんでいただけたら幸いです。
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※その他、鋭意更新予定です。
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アクセス・案内情報
- 名称:須賀神社・小山評定之碑
- 住所:栃木県小山市宮本町1丁目2
- 電話:0285-22-0101
- 交通:JR小山駅西口から徒歩約8分
- 参考:須賀神社総合TOP