歴史の教科書や各種歴史本から大河ドラマなどの時代劇に至るまで、とてもよく目にする「幕府」という言葉。
ですが、そもそも「幕府とは何なのか?」実はよく分からない、とは思いませんか?
また、日本史には3つの幕府が登場しますが、鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)それぞれにどういう違いがあるのでしょうか?
大河ドラマでは2021年『青天を衝け』で徳川幕府の滅亡が、2022年『鎌倉殿の13人』で鎌倉幕府の始まりが、そして2023年『どうする家康』でついに我らが徳川家康公が開いた徳川幕府が描かれます。
まさに、3年連続で「幕府」が登場します。
そこで今回は「幕府って何?」という疑問を解決できるよう、なるべく簡単にご紹介したいと思います。
そもそも幕府とは何か?
そもそも「幕府」とは一体何でしょうか?
まずは「幕府」という言葉の元々の意味を見てみましょう。
(中略)「幕」は・「幔幕」・「陣幕」・「帳幕」・「天幕」を意味し、「府」は王室等の財宝や文書を収める場所、転じて役所を意味する。中国の戦国時代、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。日本では近衛大将の唐名となり、「幕下(ばっか、ばくか)」あるいは「柳営」ともいった。
引用元:幕府 - Wikipedia
日本の官職(太政大臣や征夷大将軍など)は、元々古代中国から輸入した律令制というシステムを日本流にしたものでした。
なので、日本の朝廷が任じる官職の多くは、古代中国側のシステムに基になったオリジナル版があるという事になります。
そのオリジナル版が唐名です。
ですが、日本では飛鳥時代末期~奈良時代にかけて、この元々の意味での「幕府」という言葉は使われなくなります。
幕府とは何か? 幕府の定義・要件を分かりやすく知る
「幕府」とな何なのかについて、まずは簡単に見てみましょう。
幕府
幕府(ばくふ,mùfǔ)は、将軍の任命を受けた者が、朝廷の外にあって、朝廷のために活動するために設けた役所。将軍府(しょうぐんふ,jiāngjūn fǔ)または軍府(ぐんぷ,jūn fǔ)ともいう。
(中略)8世紀以降の「天皇」は、自身で配下に各種の将軍号を授与するようになった。中世から近世にかけて、武家の棟梁を首班とする政権が次々と成立するが、豊臣政権をのぞき、その首班は征夷大将軍の称号を受けていた。江戸時代中期以降にこれら歴代の武家政権を幕府と称するようになるが、「それは天皇が任命した征夷大将軍の幕府である」。
引用元:幕府 - Wikipedia
なるほど、元々の意味から転じて幕府とは「天皇が任命した征夷大将軍=武家の棟梁をリーダーとする政権」のことを意味するようになっていったんですね。
では最後に、いわゆる皆さんのイメージする意味の「幕府」について見てみましょう。
(中略)源頼朝が鎌倉に武家政権を創始したことから、その政庁(居館)を幕府と呼ぶようにもなった。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした後の建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられ、以後代々の首長もまた頼朝を継承する地位の表象として征夷大将軍職に就いたことから、幕府の主を将軍とする通念を生じた。征夷大将軍を中国風に覇者とみなし、覇者の政庁の所在地として「覇府」とも呼ばれる。
「幕府」という言葉が将軍個人や空間的な将軍の居館・政庁から離れ、今日のように観念的な武家政権を指すものとして用いられるようになるのは、藩と同じく江戸時代中期以降のことで、朱子学の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する儒学者によって唱えられた。「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉はこの時代以降に考案されたものである。それ以前には「関東」「武家」「公方」などと呼ばれており、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したことも、朝廷が幕府を開くようにと命じる詔勅もない。一方で王政復古の大号令では、朝廷から明確に幕府の廃絶が宣告された。
歴史学上の定説としては、日本には、幕府は鎌倉幕府と室町幕府と江戸幕府があったことになっている。どの幕府も形式上は将軍の家政機関の形態をとっていた。
引用元:幕府 - Wikipedia
ここまでの説明を簡単にまとめると、以下の通りです。
- 「幕府」という言葉は元々、将軍個人や空間的な将軍の居館・政庁を意味していた。
- 源頼朝が鎌倉に武家政権を創始したことから、その政庁(居館)を幕府と呼ぶようにもなった。
- 「幕府」という言葉の意味が、今日のように観念的な武家政権を指すものとなるのは江戸時代中期以降だった。
- それぞれの初代征夷大将軍が「幕府を開く」という宣言を出したことはない。
- 天皇や朝廷が「幕府を開くように」と命じた詔勅もない。
ポイントは、天皇や朝廷が「幕府を開け」と命じた事実はなく、征夷大将軍が「幕府を開く」と宣言した事実もない、という事です。
これは少々、意外な事だと思いませんか?
では、私たちが普段イメージしていた「幕府」すなわち「観念的な武家政権を指すもの」とは、一体何なのでしょうか。
次は、その点をもう少し具体的に見ていきたいと思います。
幕府成立に必要なものは何か? 幕府を開く条件とは何か?
観念的な武家政権を指す「幕府」とは、一体何なのでしょうか?
この謎を解くヒントとして、まずは幕府の成立に必要なものが何なのかを見てみましょう。
かつて、幕府の成立は「幕府の初代が征夷大将軍になった時」とされてきました。
そのため、鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍になった1192年とされ、成立年を「いい国作ろう鎌倉幕府」と語呂合わせで覚えた人も多いのではないでしょうか。
同じように、室町幕府の成立は足利尊氏が征夷大将軍になった1338年、徳川幕府(江戸幕府)の成立は徳川家康公が征夷大将軍になった1602年とされてきました。
しかし、最近では3つの幕府全てが、違う成立年だとされているようです。
これは一体、どういう事でしょうか?
極論を言ってしまえば「幕府の成立した年がいつなのか」は歴史学者が決めている、という事です。
要するに、かつては幕府の成立を「幕府の初代が征夷大将軍になった時」だと決めていたのですが、最近は最新の研究成果を踏まえて「より実態を反映した決め方」に変更したと言えます。
例えば、最初に開かれた幕府である鎌倉幕府の成立年については、現在だと以下の通りだとされています。
鎌倉幕府成立は5択のどれ?
Q7.では、ズバリお聞きします。鎌倉幕府はいつ始まったのですか?
(中略)
①家臣(御家人)を統制する「侍所」が設置された1180年
②院庁(いんのちょう)から頼朝の東国支配が承認された1183年
③主要政治機関(公文所・問注所)が設置された1184年
④守護・地頭を設置し、全国の土地管理権を掌握した1185年
⑤奥州を平定した1189年
~番外~
⑥やっぱり征夷大将軍に任じられた1192年武家政権は「日本史上初の試み」で、さまざまな試行錯誤が繰り返されたという理由から、かつての「鎌倉幕府は○○年から始まった」ではなく、「①~⑥の過程で“段階的に”成立した」と考えられるようになっています。
(中略)高校の日本史の教科書としてよく使われている山川出版社の『詳説日本史B』でも、下記のように「1192年に鎌倉幕府がはじまった」とは書かれていません。
(中略)じつは「何をもって鎌倉幕府が成立したと考えるか」によって年代は違ってきます。
幕府による支配体制は、「実質的」には、征夷大将軍に任命されるより前に、「①〜⑤の過程で少しずつできあがっていった」というのが実態です。引用元:鎌倉幕府は何年に成立?正解を言えますか | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
昔の歴史教科書に載っていた「鎌倉幕府の成立を1192年とする説」は、上記①〜⑥の要件が全てそろったのが1192年だったからです。
また、ひと昔前の歴史教科書に乗っていた「鎌倉幕府の成立を1185年とする説」は、守護・地頭の設置を幕府の成立年にしたからです。
ですが「幕府」を「観念的な武家政権」とするならば、少なくとも上記①~④までの要件は満たさなければ「政権を樹立した」と言えなさそうですね。
【鎌倉幕府を開いたと判定できる要件】
- ①家臣(御家人)を統制する「侍所」が設置された1180年
- ②院庁(いんのちょう)から頼朝の東国支配が承認された1183年
- ③主要政治機関(公文所・問注所)が設置された1184年
- ④守護・地頭を設置し、全国の土地管理権を掌握した1185年
逆に、奥州藤原氏を滅亡させて奥州平定を達成したという要素については、奥州が幕府の勢力下となっていなくても「幕府を開いた」という判定には影響ないでしょう。
また、征夷大将軍の任官についてですが、源頼朝以降の征夷大将軍42人中5人が「幕府の将軍」ではなかったので、必ずしも征夷大将軍の任官が「幕府を開いた」という判定と直結しないと言えます。
天皇・朝廷や征夷大将軍が「幕府を開く」と宣言しない以上、実務的な要件を1つずつ積み重ねて「政権」としての機能を備えるに至った時点で、後世から見て「幕府を開いた」と判定できるということなのでしょう。
しかし、鎌倉幕府の成立について見てみましたが、日本史では幕府が3つ開かれたとされています。
3つの幕府、すなわち鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)では、全て同じ条件で「幕府を開いた」とされるのでしょうか?
次は、3つの幕府を比べてみたいと思います。
鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)は何が違うのか?
日本史では鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)と3つの幕府が登場しますが、それぞれにどんな違いがあるのでしょうか。
主な要素ごとに、簡単な比較をしてみたいと思います。
鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)の簡単な比較一覧表
鎌倉幕府 | 室町幕府 | 徳川幕府(江戸幕府) | |
創設者 | 源頼朝 | 足利尊氏 | 徳川家康公 |
成立年 | 治承4年(1180年)~建久3年(1192年)にかけて段階的に成立
| 延元元年/建武3年11月7日(1336年12月10日)
延元3年/暦応元年8月11日(1338年9月24日)
| 慶長8年2月12日(1603年3月24日)
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滅亡年 | 元弘3年/正慶2年(1333年)5月
| 元亀4年(1573年)7月
天正16年(1588年)1月13日
| 慶応3年12月9日(1868年1月3日) 「王政復古の大号令」による
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時代 | 鎌倉時代 | 室町時代/戦国時代 | 江戸時代 |
場所 | 相模国鎌倉 | 山城国京都 | 武蔵国江戸 |
歴代将軍 | 源頼朝以降3代:源氏 4代以降:摂家・宮家 | 足利家 | 徳川家 |
存立原理 政権構造 | 将軍と御家人による「御恩と奉公」
| 有力守護大名らによる合議制連合政権
| 徳川将軍が全国260余りの大名らと主従関係を結んで統制
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統治構造 | 御恩と奉公
| 守護領国制
| 幕藩体制 幕:将軍の政府である幕府 藩:将軍と主従関係を結んだ大名らの政府である藩
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財政基盤 |
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※幕府は各藩に徴税権を与えており、各藩での年貢収入等は幕府の財政に入ってこなかったが、全国各地の大型公共事業等は幕府の財政=将軍家の財政から賄われたため、幕府財政はひっ迫していった(後に各藩に負担させるようになる)。 |
実権の推移 |
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滅亡理由 |
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当時の呼び方 | 朝廷:関東、武家 武士:鎌倉殿 一般:武家 | 初期:鎌倉殿 以降:室町殿、公方など | 公儀 (幕末以降は「幕府」) |
鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)を支えた人々の違い
鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)を支えた人々といえば武士ですが、一言で武士といってもその時代ごとに役割に違いがありました。
【鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)を支えた人々】
- 鎌倉幕府:御家人・守護・地頭
- 室町幕府:守護大名
- 徳川幕府(江戸幕府):大名(譜代大名・外様大名)
「守護・地頭」「守護大名・守護代」「譜代大名・外様大名」の違いについては、以下の記事をご覧ください。
幕府の成立
次は、鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)それぞれの幕府が成立した過程を見てみましょう。
鎌倉幕府の成立
鎌倉幕府の成立については既に前掲の通り、複数の要件を段階的に満たして成立したと考えられています。
【鎌倉幕府を開いたと判定できる要件】(再掲)
- ①家臣(御家人)を統制する「侍所」が設置された1180年
- ②院庁(いんのちょう)から頼朝の東国支配が承認された1183年
- ③主要政治機関(公文所・問注所)が設置された1184年
- ④守護・地頭を設置し、全国の土地管理権を掌握した1185年
もしくは、ここに「源頼朝の征夷大将軍任官(1192年)」を加えて、源頼朝が武家政権を樹立したと判定できる、すなわち「鎌倉幕府が成立した」と判定できるという訳です。
では、なぜ一気に要件を満たして幕府を成立させなかったのでしょうか?
それは、当時の人々の認識に「幕府」というもの(概念)があった訳ではなく、頼朝ら坂東武士の勢力が「自分たちに必要な要素」をその都度備えていった結果として「武家による政権」が樹立されたのであって、それを後世の歴史学者が「幕府」という概念を作って当てはめてたからだと言えます。
室町幕府の成立
室町幕府の成立については、延元元年/建武3年11月7日(1336年12月10日)に法律『建武式目』の制定をもって成立したとされています。
足利尊氏は『建武式目』の制定によって「新たな武家政権の施政方針」を示し、加えて北朝から権大納言に任ぜられたことで「鎌倉大納言」と称され、鎌倉将軍(鎌倉殿)を継承する存在として認識されるようになりました。
その後、延元3年/暦応元年8月11日(1338年9月24日)に尊氏が征夷大将軍に任ぜられますが、尊氏の征夷大将軍任官をもって室町幕府の成立とする説もあります。
ただし、定説では『建武式目』制定の時期が室町幕府の成立とされています。
ちなみに、征夷大将軍就任後の尊氏は当初、実弟・足利直義と分業体制を敷いていました。
つまり、室町幕府の征夷大将軍として担う役割を「軍事面(と恩賞の付与)は尊氏・政治面は直義」として役割分担して担当していたのです。
このような分担状態から、幕府の将軍が持つ権力の要素は「主従制的支配権と統治権的支配権」の2本柱で成り立っていると考えられています(将軍権力の二元論)。
こうして、室町幕府の部署(役職)は軍事と政治に分けられ、互いに連携しながら武家政権の運営を開始しました。
ですが、後に尊氏と直義は対立していき、幕府の有力者らも加わり、ついには「観応の擾乱」と呼ばれる室町幕府の内部抗争が勃発してしまいます。
最終的に尊氏が直義とその一派を滅亡させて勝利し、将軍権力の軍事・政治両面を尊氏が握ることとなりました。
徳川幕府(江戸幕府)の成立
徳川幕府(江戸幕府)の成立は、慶長8年2月12日(1603年3月24日)に徳川家康公が朝廷から征夷大将軍に任官されたことで幕府が成立したとされています。
ここで、1つ疑問を感じないでしょうか。
既に見てきたように、鎌倉幕府・室町幕府の成立は「征夷大将軍の任官」ではなく、鎌倉幕府は段階的に政権の機能を備えた結果として、室町幕府は「幕府の法律・施政方針」である『建武式目』の制定をもって、それぞれ「幕府が成立した」と考えられています。
では、なぜ徳川幕府(江戸幕府)は「徳川家康公が征夷大将軍に任官された」時点をもって「幕府が成立した」と考えられているのでしょうか。
鎌倉幕府・室町幕府の成立基準を徳川幕府(江戸幕府)に当てはめるならば、幕府の成立は家康公の征夷大将軍任官ではなく、政権としての機能を備えて幕府の法律も整備した時点をもって「徳川幕府(江戸幕府)が成立した」と考えるべきではないでしょうか。
また、室町幕府の成立過程で触れた「将軍権力の二元論」から考えるならば、家康公が全国の諸大名と主従関係を結んで主従制的支配権を確立し、かつ幕藩体制を構築して統治権的支配権を確立した時点をもって「徳川幕府(江戸幕府)が成立した」と考えるべきです。
これらの項目について、時系列順に整理すると以下の通りです。
【徳川幕府(江戸幕府)の成立過程】
- 文禄2年(1593年)最初の老中職に大久保忠隣が就任
(以降、幕府の役職は17世紀中に段階的に整備されていった) - 慶長5年(1600年)「関ヶ原の戦い」に勝利
戦後、西軍東軍の諸大名に対して家康公が知行の増減を処遇
→家康公と諸大名との間で主従関係が成立 - 慶長8年(1603年)徳川家康公が征夷大将軍に任官される
- 慶長20年(1615年)大名に対する法律『武家諸法度』制定
- 慶長20年(1615年)天皇・公家に対する法律『禁中並公家諸法度』制定
つまり、徳川幕府(江戸幕府)が政権としての機能を備えるのは段階的に、家康公が全国の諸大名と主従関係を結んで主従制的支配権を確立したのは「関ヶ原の戦い」の戦後処理によって(知行=恩賞を与えることをもって主従関係が成立)、幕藩体制を構築して統治権的支配権を確立したのは「関ヶ原の戦い」以降に段階的に構築されていき、幕府の法律が整備されたのが『武家諸法度』と『禁中並公家諸法度』の制定によって、それぞれ「幕府成立の要件」をクリアしていったと考えられます。
ですが、現状では「家康公が征夷大将軍に任官された時点」をもって、徳川幕府(江戸幕府)の成立とされています。
ちなみに、幕藩体制の「藩」という呼び方ですが、藩も幕府と同じで当時はあまり使われていない言葉でした。
藩のことを江戸時代当時は「国」「家中」「領」「領分」などと呼んでいました。
幕府の滅亡~盛者必衰の理~
栄えた者も必ず滅びるのが世の道理であり、権勢を誇った幕府もやがては滅びました。
各幕府の滅亡について見てみましょう。
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府の滅亡ですが、元弘3年/正慶2年(1333年)5月18日に16代執権・北条守時が自害し、22日に9代将軍・守邦親王が将軍職を退いて出家したことをもって、鎌倉幕府は滅亡しました。
元弘元年(1331年)に後醍醐天皇は倒幕を企てましたが、鎌倉幕府側に露見して失敗に終わります。
しかし、これを契機に鎌倉幕府や北条家の執権による得宗専制政治に不満を持つ「悪党」と呼ばれる武士(楠木正成や赤松則村など)が、鎌倉幕府に反乱を開始します。
モンゴル帝国による2回の侵攻(元寇)を防いだ鎌倉幕府でしたが、新たに土地を得られる戦いではなかったため幕府から御家人に恩賞として土地を与えることができず(「新恩給与」がなく)、以降幕府と御家人の間における「御恩と奉公」のバランスが崩壊していき、各地で幕府に対する不満が高まっていました。
元弘3年/正慶2年(1333年)4月になると、こうした反幕府勢力を討伐するために京都へ派遣された鎌倉幕府の有力御家人・足利高氏(のち足利尊氏)が後醍醐天皇側に寝返り、5月7日に京都にある鎌倉幕府の出先機関・六波羅探題を落としました。
さらに翌日には新田義貞が上野国で挙兵しますが、当初150騎だった軍勢は関東の御家人らが合流して数日のうちに大軍となります。
5月18日、新田義貞は大軍となった軍勢で鎌倉に対し攻撃を開始し、防戦する鎌倉幕府軍との間で激しい戦いが行われました(鎌倉の戦い)。
この「鎌倉の戦い」で追い詰められた16代執権・北条守時が自害し、鎌倉幕府の有力武将らも討ち死にや自害していきます。
そして、22日には9代将軍・守邦親王が征夷大将軍の職を退いて出家します。
こうして、鎌倉幕府は滅亡しました。
室町幕府の滅亡
室町幕府の滅亡は、元亀4年(1573年)7月に15代将軍・足利義昭が織田信長によって京都から追放された時点とするのが定説です。
ですが、織田信長が対立する義昭を京都から追放した後も、実は室町幕府は滅んでいなかったとする考え方もあります。
なぜかというと、実は義昭は京都追放後も征夷大将軍の職に就いたままであり、毛利輝元の保護を受けながら再起を狙っていました。
この時期の義昭政権を「鞆幕府」として認定する説もありますが、現状では定説として認められていない状況のようです。
天正16年(1588年)1月13日、義昭は関白となった豊臣秀吉とともに参内して、征夷大将軍の職を朝廷に返上しました。
征夷大将軍の存在を幕府の要件と考えるならば、この征夷大将軍職の返上時点をもって室町幕府の滅亡と考えることもできます。
ただし、既にみてきた通り「征夷大将軍」の任官をもって幕府の成立とする訳ではない以上、滅亡の要件にもならないと考えてよいでしょう。
徳川幕府(江戸幕府)の滅亡
徳川幕府(江戸幕府)の滅亡は、まず慶応3年10月14日(1867年11月9日)に15代将軍・徳川慶喜が朝廷に征夷大将軍の職を返上しました。
次いで慶応3年12月9日(1868年1月3日)に明治天皇による勅令「王政復古の大号令」が発せられて、朝廷による幕府の廃止宣言が行われたことで、徳川幕府(江戸幕府)は滅亡しました。
ただし「王政復古の大号令」では幕府だけでなく朝廷も廃止され、天皇の下に新政府が発足するという形がとられました。
元々、日本では時の武家政権と天皇の関係について、武家が日本の実質的統治者として君臨している状況を「天皇が国家統治を武家の有力者に委任している」状態だと考えられてきました。
天皇・朝廷が「権威」を担い、武家の棟梁・武家政権が「権力」を担当するという、ある種の「棲み分け」が機能してきたと言えます。
ですが、幕末になると西欧列強からの外圧が強まり、その対応をめぐり朝廷と幕府の間で方針の不一致が拡大すると、朝廷から政治を任されているという立場の幕府はその正当性が揺らいでいきます。
従来は制度ではなく慣例であった「政治の委任」ですが、文久3年(1863年)3月・翌元治元年(1864年)4月の2回に渡り、幕府から朝廷に対して、この「委任の正当性」を再確認したほどでした。
この再確認により、慣例だった「政治の委任」が制度化されました。
そうした経緯を経て、慶喜は「大政奉還」に踏み切りました。
ただし、慶喜による「大政奉還」後も、慶喜は征夷大将軍の職に引き続き就いていて、2ヶ月後の「王政復古の大号令」をもって将軍職を辞しました。
こうして、260年続いた徳川幕府(江戸幕府)は滅亡しました。
昔の人々は「幕府」という呼び方をしていなかった?
今日では征夷大将軍を頂点とする武家政権を「幕府」と呼びますが、その当時の人々からは「幕府」と呼ばれていませんでした。
では、一体なんと呼ばれていたのでしょうか?
「幕府」という呼び方が武家政権を指すようになったのは、幕末のことです。
【幕府があった当時の人々による幕府の呼び方】
- 鎌倉幕府
武家・関東(朝廷からの呼ばれ方)
鎌倉殿(御家人からの呼ばれ方) - 室町幕府
鎌倉殿(初期)
室町殿(3代将軍・足利義満ごろから)
公方 - 徳川幕府
公儀(初期〜中期)
幕府(幕末)
上記は一例ですが、今日のように武家政権自体を「幕府」と呼び始めたのは江戸時代の後期(幕末)になってからです。
幕末より以前の時代では「幕府」という言葉の意味が「征夷大将軍の居所・政庁等」を意味しており、今日で言うところの首相官邸のような意味で「幕府」という言葉が使われていました。
平清盛政権・織田信長政権・豊臣秀吉政権は「幕府」ではない?
日本史において最初の武家政権は鎌倉幕府でなく、太政大臣・平清盛による政権です。
また「天下」という言葉が畿内を意味していた時代に、織田信長は畿内を平定したので当時の人々の感覚としてはある意味「天下統一」を果たしたとも言えます(その前には室町幕府13代将軍・足利義輝を京都から追放して畿内を勢力下においた三好長慶も同様)。
その地盤を引き継いだ豊臣秀吉は名実ともに天下統一を達成して、全国規模の政権を樹立しました。
ですが、平清盛政権・織田信長政権・豊臣秀吉政権は、いずれも「幕府」と呼ばれていません。
平清盛の直後に武家政権を樹立した源頼朝政権は「鎌倉幕府」と呼ばれ、三好長慶や織田信長が畿内平定を達成した頃の末期の足利政権は「室町幕府」と呼ばれ続けており、豊臣秀吉が達成した天下統一を乗っ取る形で引き継ぐ形で全国区の政権を樹立した徳川家康公の政権は「徳川幕府(江戸幕府)」と呼ばれています。
特に、徳川幕府(江戸幕府)は直前の豊臣政権をベースにしているものであり、家康公政権を「幕府」と呼ぶのならば豊臣政権も「幕府」と呼んで良いように思えます。
なぜ、平清盛政権・織田信長政権・豊臣秀吉政権は「幕府」と呼ばれないのでしょうか?
その答えについては「平清盛・織田信長・豊臣秀吉は征夷大将軍ではなかったから」という答えをよく見かけます。
確かに、平清盛は太政大臣、織田信長は右大臣兼右近衛大将、豊臣秀吉は関白に任官されましたが、いずれも征夷大将軍には任官されていません。
太政大臣といえば「位人臣を極める」と言い表される(天皇の臣下として最高の位に就任したという意味)官職です。
右大臣は太政大臣に次ぐ官職ですし、右近衛大将は征夷大将軍に匹敵する官職であり、令外官(臨時の官職)ではない常設の官職としては武家の最高位であり、源頼朝も征夷大将軍の前に就任していました。
関白に至っては「天皇の補佐人」として実質的な官職の最高位ですから、征夷大将軍より遥かに上位の官職です。
にもかかわらず、いずれの政権も「幕府」とは呼ばれません。
「幕府」という言葉の意味は、元々「将軍個人や空間的な将軍の居館・政庁(居館)」を指していました。
そこから転じて武家政権を意味するようになったのですから、征夷大将軍ではない平清盛・織田信長・豊臣秀吉の政権は「幕府」と呼ばないのです。
太政大臣・右大臣・関白はいずれも武家の官職ではなく公家の官職ですから、御家人・守護大名・大名らと主従関係を結んだ「武家の棟梁」とは認められないのかもしれません。
右近衛大将は武家の官職(常設では最高位)ですが、別に軍事を担当するという訳でもなく、そもそも元々は公家の官職でした。
また、源頼朝は右近衛大将に就任しましたが、その後「大将軍」の名称を求めて征夷大将軍の任官を受けたという経緯もあります。
こうしたことから、征夷大将軍が「主従制的支配権と統治権的支配権」を備えて樹立した武家政権でなければ「幕府」と呼ばれないのだと考えられます。
↓あわせて読みたい「幕府を支えた人々」についてのまとめ記事↓