金ピカの豪華絢爛な社殿で有名な日光東照宮ですが、実は最初から今の社殿ではありませんでした。
2代将軍・徳川秀忠が家康公を祀るために建てた最初の日光東照宮は、家康公の遺言により質素な社殿でした。
その後、3代将軍・徳川家光が今の金ピカ日光東照宮に建て替えたのですが、その時に最初の社殿は移築されました。
今回は、その日光東照宮の最初の社殿が現存する、世良田東照宮をご紹介いたします。
世良田東照宮とは?
世良田東照宮は、寛永21年(1644年)に3代将軍・徳川家光の命によって、上野国世良田村・長楽寺の境内に創建された東照宮です。
世良田東照宮がなぜ世良田村に創建されたかというと、世良田村は新田源氏や世良田氏と縁の深い場所だったからです。
徳川家康公は源氏の末裔を自称していましたが(『忠臣蔵』で有名な吉良上野介の祖先から家系図を買収して改ざんした)、その系譜について「新田源氏から分立した世良田家の末裔が徳川家」としていました。
世良田村は新田源氏の開祖・新田義重が、平安時代末期に上野国新田郡新田荘に建てた居館の跡地とされており、前出の長楽寺境内には義重の供養塔もあります。
そうした縁から、歴代の新田氏本宗家惣領は長楽寺を庇護し、大いに栄えていたそうです。
小田原征伐により北条家が滅んだ後、豊臣秀吉の命により関東に移封された家康公は、世良田氏ゆかりの地である世良田村を「徳川ゆかりの地」としました。
また世良田東照宮が建立された当時、家康公の側近の1人である南光坊天海が長楽寺の住職を務めていた縁もありました。
世良田東照宮は歴代の徳川将軍から信仰され、江戸時代の間は大いに栄えました。
しかし、明治維新後の明治8年(1875年)、世良田東照宮は明治新政府による神仏分離によって長楽寺から分離することとなりました。
世良田東照宮の由緒
世良田東照宮の創建は、寛永21年(1644年)に3代将軍・徳川家光の命により行われた日光東照宮の大改築まで遡ります。
日光東照宮の大改築時に、元々あった2代将軍・徳川秀忠が建てた社殿は破却されずに、上野国世良田へ移築されました。
こうして、世良田東照宮は創建されました。
東照宮
元和二年(一六一六)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめいていた。
東照宮の鎮座により地元世良田の住人はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中助郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。東照宮の文化財
(国指定重要文化財)
建造物─本殿・唐門・拝殿・附鉄燈籠・棟
工芸品─太刀銘了戒・附拵銀造沃懸地太刀
(県指定重要文化財)
絵画─板面著色三十六歌仙図
(県指定史跡)
法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡
真言院井戸昭和六十二年三月
引用元:世良田東照宮案内看板『東照宮』
当然ですが、世良田東照宮の御祭神は神となった徳川家康公=東照大権現です。
ちなみに、家康公の神号(神様としての名前)を巡っては、家康公の側近・金地院崇伝が「大明神」を、南光坊天海が「大権現」を推して激論が繰り広げられましたが、最終的に「大明神には不吉な先例(豊国大明神=豊臣秀吉)がある」との天海の主張により、大権現に決まったというエピソードがあります。
日光東照宮と世良田東照宮の関係
前出の通り、日光東照宮の旧社殿を移築して始まったのが世良田東照宮ですので、両者の関係性は極めて深いものがあります。
元和3年(1617年)に最初の日光東照宮が建てられた「元和の造営」の際、家康公の遺言によって東照宮の造営を差配したのは、天台宗の僧侶にして家康公の側近の1人だった南光坊天海でした。
そして寛永13年(1636年)、家光の命により日光東照宮の大改修が開始されますが(寛永の大造替)、その折に「元和の造営」で建てられた社殿は上野国世良田村の長楽寺境内に移築され、世良田東照宮が創建されました。
当時、長楽寺の住職を務めていたのも南光坊天海でした。
また、家康公が最初に祀られた駿河国・久能山東照宮、不死の霊峰とされた富士山、徳川発祥の地とされた下野国・世良田東照宮、そして後に家康公が分霊された下野国・日光東照宮、これらは全て一直線上に並んでいます。
これは果たして単なる偶然に過ぎないのでしょうか。
信じるか信じないかは、あなた次第です。
ちなみに、実は家康公にまつわる「レイライン」ですが、他にあと2本存在しています。
【関連記事】家康公に関係する3本のレイラインの謎について
(近日中に公開予定です)
いずれにせよ、久能山東照宮・富士山・日光東照宮を結ぶ一直線上にあるこの世良田東照宮は、極めてご利益のあるパワースポットである事は間違いありません。
ぜひ参拝して、家康公からご利益を授かってはいかがでしょうか。
世良田東照宮
世良田駅から世良田東照宮までの道のり
世良田東照宮の最寄り駅は、東武伊勢崎線・世良田駅です(徒歩約20分)。
世良田駅の駅前はご覧の通り、自販機以外にお店らしいお店は何もありませんので、飲食物等の物資は世良田駅に着く前に調達しておくとよいでしょう。
世良田駅の駅前には、近隣の観光名所を案内する地図があります。
世良田駅の駅前には無料のレンタサイクルがあるようです。
こちらが、無料のレンタサイクルを受け付けている場所のようですが、残念ながら私が訪れた時にはご不在のようでしたので徒歩で目指すことに。
世良田駅の駅前すぐの景色です。
とても広い畑で見晴らしがよい景色ですが、風も強かったです。
ひたすら道なりに歩くと、立派な古民家が目印となる世良田交差点に着きますが、まだまだ道なりに直進します。
やがて、長楽寺の総門前に到着しますので、あともう少しだけ直進します。
東照宮の目印がありますので、この道に入って進んでいくと、世良田東照宮に到着します。
摂社・日枝社
まず、一番手前側にあるのが世良田東照宮の摂社・日枝社です。
この日枝社では、日光山から奉遷された大山咋命(大山咋神)を祀っています。
日枝社
御祭神 大山咋命
寛永二十一年(一六四四)世良田東照宮建立の時、日光山より奉遷。間口二尺五寸、屋根は栩葺き。
江戸時代は幕府により十数回の修理が行われた。昭和二年、修理。平成二十五年、東照宮 三ツ葉葵会により修理。
江戸期の祭典日は、毎年四月の「申」の日。引用元:世良田東照宮末社・日枝社立札『日枝社』
また、社の中には一対の神猿像が納められています。
こちらが、向かって右側の神猿像です。
こちらは、向かって左側の神猿像です。
一対の神猿は夫婦であり、日枝社の御祭神・大山咋命の使いだそうです。
神猿
奉納 平成二十六年六月十八日庚申
東照宮禰宜 菊池貞寛作大山咋神(山王神)の神使いとする夫婦猿一対で、手に持つ御幣は穢れを祓い、神楽鈴は生命の盾ともなる音を奏で、桃は邪気を払う力と長寿を得られる果物とされています。 猿は子供への愛情の強さから「子授け」「安産」「子育て」のご利益をもたらすとも云われます。
またこの日枝社は東照宮本殿から鬼門の方角に位置しており、鬼(災厄)の苦手な猿が東照宮を守護する役割もしています。引用元:世良田東照宮末社・日枝社『神猿』
この日枝社は世良田東照宮の鬼門に位置しており、鬼の弱点である猿が鬼門を守っているそうです。
そういえば、南光坊天海は徳川将軍の居城・江戸城も、邪気が入ると言われる鬼門に寛永寺と上野東照宮を、邪気の通り道と言われる裏鬼門に増上寺を配置して、鬼門を封じ込める設計にしました。
また、寛永寺・神田明神・江戸城・増上寺は全て一直線上に並んでおり、さらに浅草寺・日枝神社を直線で結ぶと、2つの線の交わるところに江戸城が建っている事が分かります。
各地の今日における中枢施設の地点で線を結ぶと若干ずれていますが、それぞれ江戸時代当時は広大な敷地を誇る神社仏閣でしたので、その敷地内のどこかから線を引けばおそらくギリギリ江戸城で重なるのではないかと思います(たぶんきっと)。
車清祓所
日枝社のすぐ左隣に、世良田東照宮の看板があります。
道沿いが駐車場になっており、そのまま矢印の方角に進むと、世良田東照宮の車清祓所があります。
ちなみに、世良田東照宮の境内図がありました。
御黒門(縁結び門)
こちらが、世良田東照宮の御黒門(縁結び門)です。
世良田東照宮の創建当時に建てられた門だそうですから、寛永13年(1636年)頃の建立でしょうか。
御黒門(縁結び門)
東照宮創建時、幕府により建てられた門で、左右には八十メートルの白壁の塀がありました。
江戸時代は平常閉ざされ、門前での参拝。正月・四月の祭典日などは特別に開かれ、拝殿下の階段までの参拝が許されました。
この門の蹴放し(溝のない敷居)をまたいで参拝すると、良縁が成就すると云われ、縁結び門とも言われています。引用元:世良田東照宮立札『御黒門(縁結び門)』
立派な佇まいの門です。
ちなみに、この世良田東照宮や隣接する長楽寺一帯は、国指定史跡「新田荘遺跡 東照宮境内」に指定されています。
また、世良田東照宮自体は国指定重要文化財に指定されています。
境内の様子・御朱印
こちらが、世良田東照宮の境内の様子です。
御黒門(縁結び門)の真正面に石鳥居や拝殿があります。
上の写真の中央やや右側の建物が社務所で、御朱印を頂けます。
初穂料は300円です。
他に、御黒門(縁結び門)から境内に入ってすぐに右側を見ると、立札があります。
守護不入(守護使不入)とは、守護職等に対して犯罪者追跡や徴税のために立ち入る事を禁じる命令です。
つまり、世良田東照宮は徳川幕府によって保護されていたようです。
この立て札は、世良田東照宮の創建に深く関わった南光坊天海が定めた掟が記されています。
こちらの立て札は、役所が定めた掟のようです。
ちなみに、文中にある「公儀」とは徳川幕府のことです。
寛政8年(1796年)ですと、幕府は11代将軍・徳川家斉の時代でした。
上番所
御黒門(縁結び門)から境内に入ってすぐに左側を見ると、上番所があります。
上番所は世良田東照宮の防衛拠点として、江戸時代に運用されていた警備施設だそうです。
上番所
江戸時代 徳川幕府は東照宮を護る為上・下の二ヶ所に番所を設け、昼夜警備に当らせた。
この番所は二間と一間半の建物で、ここに川南(埼玉県深谷)の中瀬・横瀬・北阿賀野・南阿賀野・町田・血洗島・上手計・下手計・大塚・成塚・新戒・高島の村々、川北(群馬県太田市・伊勢崎市)の世良田・粕川・出塚・大館・堀口・上田中・下田中・上江田・中江田・下江田・高尾・八木沼・平塚・中嶋・高尾・境・女塚の村々から二~四人出仕していた。
出仕の村々には、助郷の課役が免除されるなど他の地域とは異なる優遇を受けた。番所にあった道具
一、三ッ道具(突棒・刺股・袖搦)
一、棒十本
一、鳶口三本火災時には、縦横三尺の大団扇を以って数十数百人一団となり、火消しを行った。
引用元:世良田東照宮立札『上番所』
上番所の再現建物の内部には、番所にあった道具も展示されています。
手水舎
こちらが、世良田東照宮の手水舎です。
水盤です。
手水舎の天井には、手水の使い方の案内看板があります。
この武士の何とも言えない緩い感じの表情がが絶妙で、実に味わい深いですね。
石鳥居・石灯篭
こちらが、世良田東照宮の石鳥居です。
石鳥居の奥に見えるのは、世良田東照宮の拝殿です。
こちらは、世良田東照宮・石鳥居の扁額です。
石鳥居の後ろには、一対3組の石灯篭が並んでいます。
これらの石灯篭、実は全て江戸時代に奉納された石灯篭が現存しているものだそうです。
奉納石燈籠
一、宝暦十三年(一七六三)
前橋藩 十五万石 松平朝矩
一、寛政八年(一七九六)
川越藩 十五万石 松平直恒
一、天保十五年(一八四四)
忍藩 十万石 松平忠国唐門前石燈籠
一、正保二年(一六四五)
忍藩 五万石 老中 阿部忠秋引用元:世良田東照宮立札『奉納石燈籠』
まず、一番手前にある石灯篭が、天保15年(1844年)に忍藩主・松平忠国が奉納した石灯篭です。
天保の文字をくっきりと確認することができます。
次にある真ん中の石灯篭は、寛政8年(1796年)に川越藩主・松平直恒が奉納した石灯篭です。
ここにある石灯篭は、まだ刻まれた文字がまだ見える状態なので、世良田東照宮を訪れる際はぜひ文字も確認してみてください。
最後に、一番奥にある石灯篭ですが、これは宝暦13年(1763年)に前橋藩主・松平朝矩が奉納したものです。
こちらは、その左側の石灯篭です。
ちなみに、正保2年(1645年)に忍藩主・老中・阿部忠秋が奉納した石灯篭もありますが、それは唐門前にありますので、社務所で拝観料を納めれば見学することができます。
鉄燈籠・御供水井戸
こちらは、世良田東照宮にある鉄燈籠です。
世良田東照宮の鉄燈籠は、元和4年(1618年)に総社藩主・秋元長朝の命で造られたもので、当時の鉄燈籠では日本一の大きさを誇るものだったそうです。
こちらは、世良田東照宮の御供水井戸です。
この御供水井戸は、寛永21年(1644年)の世良田東照宮創建時に、幕府の命により造られたものです。
御供水井戸
この井戸は寛永二十一年(一六四四)東照宮創建時に幕府の命により造られました。江戸時代は社殿と同時に修復が成され、汲まれた清き神水は御神前へ供えられました。現在もこの神水は地下水となっておりますので容器持参の上でお汲みになり、ご利用ください。
また、東照宮神域の清砂を社務所にてお頒け致しております。引用元:世良田東照宮立札『御供水井戸』
この御供水井戸は、現在でも地下水として現役の井戸です。
さらに、容器を持参すれば神水をいただくことができるそうです。
拝殿
こちらが、世良田東照宮の拝殿です。
前出の通り、世良田東照宮の拝殿は元々、日光東照宮の拝殿として建てられましたが、後の大改修で移築されてきたものです。
拝殿(重要文化財)
日光東照宮奥社拝殿として元和年間(1615~1623) に造営され、寛永17年(1640)~同19年に当地、徳川氏発祥の地「世良田」へ移築された。設計施工 中井大和守正清の最後の作ともいわれ、桃山時代の特色をよく表している。
中井正清は「関ヶ原の戦い」後、家康公に使えて江戸城、知恩院、駿府城天守、江戸の町割り、増上寺、名古屋城、二条城、内裏、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など、徳川家関係の重要な建築を次々と担当した名工です。
その名工・正清最後の作品が、この世良田東照宮の社殿でした(建立当時は日光東照宮の社殿として建立された)。
徳川家を象徴する三つ葉葵「葵の御紋」もあしらわれています。
冬に訪れたので枯れ枝でしたが、春には見事な桜と共に楽しめるそうです。
絵馬を奉納する場所は拝殿の前にあります。
なお、社務所にて拝観料を納めれば、拝殿から先にある唐門や本殿等を見ることができます。
納札所・人形代祈願所
こちらは、世良田東照宮の納札所です。
こちらは、世良田東照宮の人形代祈願所です。
人形代に名前を記し、身体をなでて息を三度吹きかけます。鳥居をくぐり、御神水に浮かべ、「神拝詞」を唱えてください。
引用元:世良田東照宮立札(人形代祈願所)
末社・開運稲荷社
こちらは、世良田東照宮の境内にある末社・開運稲荷社です。
稲荷社は、世良田東照宮の創建前からこの地にあったようです。
開運稲荷社
創建当初の「稲荷社」は、当地に古くから祀られていた神様で、開運招福・商売繁盛・五穀豊穣に特にあらたかなご利益のある神様であります。東照宮の修復の際は、この稲荷社も幕府により手厚い保護が成されてきました。
明治二十五年(一八九二)、同地良田山内に鎮座していた世良田五社稲荷の一社と伝わる「開運稲荷社」を合祀。
明治四十年(一九〇七)「開運稲荷社」は、小社合祀奨励により、旧世良田村小角田の「稲荷神社」、旧世良田村上矢島の勝手神社末社「稲荷社」、旧木崎町高尾の久呂住神社末社「稲荷社」と共に東照宮へ合祀。
平成八年(一九九六)現地に社殿が新築成り、遷座祭が斎行。御宮に合祀されていたすべての稲荷社が御鎮座され、現在の「開運稲荷社」となる。例大祭 三月初午日(旧暦)
引用元:世良田東照宮案内看板『開運稲荷社』
こちらは、開運稲荷社の鳥居にある扁額です。
こちらは、開運稲荷社の社です。
南御門・御神域桜・真言院井戸
こちらは、世良田東照宮の南御門です。
この南御門はかなり真新しいので、創建当時などの古いものが現存しているのではなく、復元したものです。
南御門
この御門は東照宮が御鎮座したおり御神域を守護するため、現在地より東南の位置に築かれておりました。
また御黒門を中心とした北御門・南御門の門前には、下馬札が立てられておりました。引用元:世良田東照宮立札『南御門』
こちらは、世良田東照宮・南御門の近くにある御神域桜です。
群馬県内で最も太いソメイヨシノの桜だそうで、樹齢年は不明のようです。
こちらは、世良田東照宮の境内にある真言院井戸です。
この井戸の井戸枠は、寛永19年(1642年)に南光坊天海が作り替えたものだそうです。
国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内
真言院井戸真言院は、中世に長楽寺別院として境内に建てられた。ここでは専ら密教をつかさどり灌頂を行った。
灌頂とは、真言密教の儀式の一つで、頭の頂きに水を灌れ、それによって僧侶として一定の資格を得ることである。この時使用する閼伽(水)は、きわめて清浄なものとして重視された。
真言院井戸は、この灌頂に用いる浄水を汲むために設けられたものである。僧侶は、この水で灌頂を受けるために諸国からここに参集した。
井戸は、底部より玉石を積み上げ、その上部には、花崗岩の大石を方形にくりぬき、縁を唐戸面に仕上げた井戸枠がすえられている。これは、徳川家康の命により長楽寺住職となり、当寺を再興した天海僧正 (慈眼大師)によって、寛永十九年(一六四二)に作り替えられたものである。(中略)
その後、灌頂の儀式は長楽寺で行われるようになり、真言院は廃されたが、由緒あるこの井戸は丁重に保存され、今日にいたっている。
平成十四年九月
文化庁
群馬県教育委員会引用元:世良田東照宮案内看板『国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内 真言院井戸』
この井戸枠、よく見ると石材どうしの継ぎ目がありません。
案内看板にあるように、1個の「大石を方形にくりぬき」作られたものだという事が分かります。
この真言院井戸は世良田東照宮の境内の隅っこにありますが、南光坊天海の命で作られたものが現存していますので、ぜひお見逃しなく。
普光庵跡
最後は、御黒門から入ると世良田東照宮の境内で一番奥に位置する、普光庵跡です。
国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内
法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡法照禅師は、名を琛海、字を月船といった。弘安五年(一二八二)幕府の命により、長楽寺第五世住職となり、以来二十五年間仏法興隆につくし、鏡堂大円(長楽寺六世)、牧翁了一(同十世)をはじめ多くの高僧を世におくった。
月船は、徳治二年(一三〇七)に京都の東福寺第八世となり、翌延慶元年(一三〇八)同寺で没し、法照禅師と朝廷より諡を賜った。
遺骨は、東福寺と長楽寺に分葬されたが、当寺ではその塔所(墓所)は、久しく不明であった。昭和十二年九月、境内の大杉の根を掘ったところ、偶然石櫃が発見され、その縁に「月船」、蓋石の裏に「月船和尚」と刻まれており、石櫃の中には骨壺(骨蔵器)が納められていたので、ここが法照禅師の塔所であることがわかった。
なお、石櫃の西側に六個の骨蔵器が埋葬されていた(左図参照)。これらは弟子の遺骨で、いわゆる禅宗僧侶の埋葬形式である「普同塔」(共同埋葬)といわれるものであり、従来文献にのみ見えていたものを実証した数少ない貴重な遺跡である。
普光庵は、法照禅師の高弟で、長楽寺第十世牧翁了一が、師法照禅師のために建てた塔頭(弟子が師の徳をしたって塔の頭に建てた庵)である。長楽寺中において密教道場として大いに栄えたが、その後その所在も不明になっていたものである。
しかし、法照禅師の骨蔵器の発見により、近くから当時の礎石も見つかり、普光庵跡も確認され、現在も保存されている。平成十四年九月
文化庁
群馬県教育委員会引用元:世良田東照宮案内看板『国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内 法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡』
案内看板によると、とても貴重な事例のようですが、長らく場所も不明だった通り、現在は跡地となっています。
長楽寺
世良田東照宮は元々、南光坊天海が住職を務めていた長楽寺の境内に建立されました。
(長楽寺については、後日改めて記事を掲載します!)
【あわせて読みたい】徳川家康公を祀る各地の東照宮を特集中!
アクセス・案内情報
- 名称:世良田東照宮
- 住所:群馬県太田市世良田町3119-1
- 電話:0276-52-2045
- 交通:東武伊勢崎線・世良田駅から徒歩約20分
- 参考:世良田東照宮 | 徳川氏発祥の地・世良田東照宮公式サイト