大光院新田寺は、新田源氏の末裔を自称した徳川家康公が、その祖先とした新田義重の菩提を弔うために建立した寺です。
大光院に現存する吉祥門は、徳川方が「大坂の陣」にて大坂城を落城させ豊臣家を滅亡させた日に上棟されました。
そのため、縁起が良いとして家康公に『吉祥門』と名付けられました。
また、芝・増上寺で修業して大光院を開山した呑龍上人にちなんで、大光院は「呑龍様」の愛称でも親しまれています。
大光院新田寺の見どころベスト3
- 「大坂の陣」で徳川方が勝利した日に上棟された吉祥門を見ることができる
- 吉祥門の名付け親は家康公
- 本堂、大方丈、小方丈、庫裏、吉祥門は家康公が建てた頃の建物が現存している
大光院新田寺の由緒
大光院新田寺は慶長18年(1613年)に徳川家康公が、徳川家の源流とした新田源氏の祖・新田義重の菩提寺として建立しました。
義重は、源義家(「八幡太郎義家」の名で有名な、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先)の孫です。
また、義重の子・新田義季=徳川義季であり、徳川の祖とされました(お墓は世良田東照宮の隣にある長楽寺境内にあります)。
太田市指定重要文化財
大光院吉祥門
所 在 地 太田市金山町三七番八号
指定年月日 昭和四十七年(一九七二)九月二六日「呑龍様」の名で親しまれている大光院は慶長十八年(一六一三)徳川家康がその祖とした新田義重(源義家孫・新田氏祖)を追善するため創建したものである。寺名の義重山新田寺大光院は義重の法号「大光院殿方山西公大禅定門」による。寺領三百石、徳川幕府が定めた浄土宗の学問所関東十八檀林の一寺となる。
初代住職には江戸芝増上寺の観智国師の一人呑龍上人が迎えられた。呑龍は庶民教育に心をくだき、生活困窮者の子供を弟子の名目で養育、その高徳により「子育て呑龍」として信仰を今に集めている。(以下略)
平成四年(一九九二)二月二九日
太田市教育委員会引用元:大光院新田寺案内看板『大光院吉祥門』
大光院には幕府から寺領300石が与えられましたが、これはどのくらいの規模・価値なのでしょうか?
ご参考までに他の神社仏閣と比べてみると、大光院と同じ太田市内にあり境内に世良田東照宮を擁する長楽寺は寺領100石、徳川秀忠の産土神を祀る五社神社は家康公から社領15石・徳川家光から社領300石、後に五社神社と合祀された諏訪神社も家光から社領300石、家康公が自ら植えた銀杏が現存する宗仲寺は寺領7石4斗などです。
また、そもそも知行1石がどの程度の価値なのかについてですが、知行1石というのは「1年間で米1石程度の生産力がある土地の支配権」とでも考えてもらえれば良いです。
ただし、江戸時代は約260年と大変長い期間に渡るので、その間に米の価値や金の価値は変動しています。
そのため、参考までに天保年間の価値で計算してみると「米1石=金1両=6万3千円~30万円」相当ということになるそうです(出典:磯田道史[2020]『カラー版 江戸の家計簿』(宝島社新書)P.12)。
この換算レートを用いて単純計算すると、江戸時代における大光院の寺領から上がる収入は「寺領300石×6万3千円=1千890万円」から「寺領300石×30万円=9千万円」程度だったと思われます。
従って、十分な寺院経営を行えるだけの収益源を確保していたと言えそうですね。
大光院新田寺(呑龍様)
それでは、大光院新田寺をご紹介します。
太田駅から大光院までの道・大光院大門
大光院新田寺の最寄駅は、東武伊勢崎線・太田駅です。
東武伊勢崎線・太田駅の2駅隣にある世良田駅には、世良田東照宮や長楽寺があります。
家康公ゆかりの地であり、また徳川家発祥の地とされています。
ぜひ大光院と併せて訪れてみてください。
太田駅の駅前から日光例幣使街道を西に進むと、街道沿いには『太田宿本陣跡地』の記念碑があります。
さらに街道を西に進んで、本町交差点を右折して北へ進むと、大光院の大門があります。
大光院の大門には、徳川家の三つ葉葵『葵の御門』があります。
大門からそのまま道なりに進むと、やがて金山町交差点に着きますので、左折して少し進んでから右折すると、大光院の門前に出ます。
奥の突き当りに、大光院の入口である吉祥門があります。
吉祥門
こちらが、大光院の吉祥門です。
元和元年(1615年)の吉祥門建立当時には、中門として建立されたそうです。
太田市指定重要文化財
大光院吉祥門
所 在 地 太田市金山町三七番八号
指定年月日 昭和四十七年(一九七二)九月二六日(中略)
吉祥門は元和元年(一六一五)に中門として建立されたと伝えられている。名前の由来について次のような言い伝えがある。この山門が上棟された日に大阪城が落城し、徳川方にとってめでたく記念すべきことであったので、徳川家康により吉祥門と名付けられたという。吉祥門は間口三間、奥行き一間の切り妻造り、桟瓦葺である。比較的簡素にできているが、瓦の葺き替え・袖垣の修理のほかはほとんど当時のまま保存され古式をよく遺している。大光院創建期の姿を伝えているといわれる本堂内陣・大方丈・小方丈・庫裏とともに、本市における数少ない近世初頭の建築物として重要なものである。
平成四年(一九九二)二月二九日
太田市教育委員会引用元:大光院新田寺案内看板『大光院吉祥門』
大光院・吉祥門の棟紋は、徳川将軍家の家紋である三つ葉葵『葵の御紋』です。
ちなみに、大光院は『ぐんま名所百選名所ザ100』の第1位だそうです。
大光院・境内の様子
こちらが、大光院の境内の様子です。
下の写真は、吉祥門から奥の本堂に向っての参道の様子です。
写真では見えませんが、参道の右手側に鐘楼が、左手側に手水舎があります。
下の写真は、右手が本堂、左手が開山堂です。
鐘楼(慈愛の鐘)
こちらが、大光院の鐘楼です。
大光院の梵鐘は、昭和31年(1956年)に呑龍上人生誕400年記念として鋳造された物です。
慈愛の鐘
当義重山大光院新田寺は、慶長十八年徳川家康公によつて建立された関東十八壇林随一の寺で、この梵鐘は明治四十二年鋳造されたが、太平洋戦爭で供出されたまゝであつた。
昭和三十一年呑龍上人生誕四百年を記念して、当山六十八世大誉霊海師の発願によつて再鋳造されたもので
総重量 八百五十貫
口 径 四尺三寸
越中髙岡在住の鋳匠
香取正彦氏(人間国宝)
老子治右エ門氏
の製作により、昭和三十三年十月に完成落慶を見たもので、その名の通り汎〱衆生に慈愛の徳を賜わるものである。引用元:大光院新田寺案内看板『慈愛の鐘』
※上記引用文中の「汎」について、正しくは「にすい+凡」ですが使用不可の文字だったので汎で代用しました。
既に半世紀の時を経て、良い風合いが出始めています。
手水舎
こちらが、大光院の手水舎です。
こちらが、大光院の水盤です。
中央に徳川家の『葵の御門』が、そして左右には新田家の家紋『丸の内に一つ引き』があります。
そして何より目を引くのは、水盤の足です。
4脚の足がそれぞれ子供(?)の姿で、水盤を担いでいるという形の像になっています。
このブログでは、訪れた神社仏閣にある水盤はほぼ全て写真撮影して掲載していますが、このような水盤は全国的に見ても中々珍しい代物なのではないでしょうか。
ちなみに、この水盤は皇紀2540年すなわち明治13年(1880年)に作られた物のようです。
また、手水舎には大光院の御利益について記された看板もありました。
義重山大光院新田寺に参詣せらるゝ近の善男善女は謹みて御水屋の霊泉を一掬清漱致さるれば至貴長壽の願望と家運榮祥の恵澤を蒙らん
合掌 文詞雪峰
謹刻松庵昭和六十二年四月吉日
引用元:大光院新田寺・手水舎
菩薩像・如来像
こちらは、大光院の境内にある菩薩像です。
菩薩像の奥には如来像もあります。
如来像の前にある常香炉です。
こちらにも『葵の御門』があります。
額殿・建物・戦没者慰霊碑
こちらは、大光院の額殿です。
開山堂の隣にあります。
額殿の近くには、このような建物もありました。
見落としてしまいがちですが、この建物の屋根瓦にも『葵の御門』があります。
吉祥門の近くには、戦没者慰霊碑への入口があります。
こちらが、大光院の戦没者慰霊碑です。
開山堂
こちらが、大光院の開山堂です。
開山堂は後ほどご紹介する本堂よりも大きく、大光院の境内では最も大きな建物です。
趣のある造形の開山堂ですが、その建立は昭和8年(1933年)と比較的新しく、造りも木造ではなく鉄筋コンクリート造りとなっています。
開山堂
十二間四面鉄筋コンクリート造り桃山風建築にして昭和八年六十七世實譽上人代に落成せるもの。正面壇上に開基子育呑龍上人御自作の尊像を安置す。
御開帳日は毎月一日・八日・一五日引用元:大光院新田寺案内看板『開山堂』
こちらは、大光院・開山堂の常香炉です。
こちらは、大光院・開山堂の賽銭箱です。
大光院・開山堂の鬼瓦です。
破風には『葵の御門』があります。
ちなみに、御朱印はこの開山堂でいただけます。
弁天堂・新田義重公墓・呑龍上人御廟
この先は君の目で確かめてくれ!
(デジカメ・スマートフォン両方とも電池切れになり、撮影できませんでした。痛恨のミス……)
鉄灯篭・臥龍松
こちらは、大光院の鉄灯篭です。
鉄製の灯篭というのは珍しいように思います(近隣だと、世良田東照宮にも1基ありましたが)。
こちらは、大光院の臥龍松です。
この臥龍松は、呑龍上人お手植えの松だそうです。
という事は、家康公ご存命の時代に植えられた松が現存しているという事ですね。
臥龍松
大光院は慶長十八年(一六一五)四月開創の古刹である ここに蟠踞する重厚雄大にして優美な黒松は当寺開山然誉呑龍上人お手植えの松と伝える 樹齢約七百年といわれるこの松の姿が、あたかも巨龍が地に臥し今まさに昇天せんとする勢いをあらわすもので「臥龍松」と称される
享保五年(一七二〇)の「義重山風土聞見録」に「臥龍松 本堂・鐘楼中間ノ庭上ニ古松有リ、其形髣髴トシテ臥龍ノ勢イノ如シ故ニ以テ名ツク」とあり、また、天保十二年(一八四一)の「北国見聞記」には呑龍上人に血脈を乞うた雷神の大蛇が松の根元に伏したので臥龍松と命名されたとある平成八年(一九九六)四月吉日
大光院第六十九世 法誉霊孝謹書引用元:大光院新田寺記念碑『臥龍松』
また、この臥龍松はつい先日、二世がデビューしたようです。
臥龍松二世
皆様に親しまれ慈しまれております臥龍松が古木となり十数年前より枯死も免れない状況が続いております
呑龍上人御手植えの臥龍松を後世に伝えるため先代貫主発願により種子を採り苗を育てて参りました
今般臥龍松二世として植栽し名木の名を伝えていきたいと願っています令和三年十一月
第七十世 瑞譽引用元:大光院新田寺記念碑『臥龍松二世』
名木とはいえ、命あるものはいつか必ず死を迎えるのが世の摂理です。
その時が近づいているかもしれないという状況で、後の世代のために名木の面影を残そうという試みは素晴らしいと思います。
きっといつの日か「二世を植えておいてくれてありがとうございます」と、後世の歴史ファンからも称賛される日がくるのではないでしょうか。
こうした試みを先人がたがしてきてくれたからこそ、今日を生きる私たちも様々な歴史的遺産に触れることができるのですから、感謝の念を抱かずにはいられません。
大方丈
こちらが、大光院の大方丈です。
大光院では、吉祥門・本堂内陣(本尊を安置している奥の空間)・大方丈・小方丈・庫裏が、創建当時に建てられたものが現存していると伝えられています。
この大方丈も慶長18年(1613年)当時の物だと思うと、感慨深いものです。
大方丈の屋根瓦には、やはり『葵の御門』をしっかりと確認できます。
本堂
こちらが、大光院の本堂です。
吉祥門の案内看板によると本堂の内陣が創建当時のものと説明されていましたが、こちらの立て札によると、改修を受けながらも本堂全体が創建当時のものとして現存しているという事でしょうか。
本堂
慶長十八年開創以来の建築にして大正十四年に大改修を加えしもの。中央須弥壇上に安阿弥快慶作の本尊阿弥陀仏を安置し、脇壇には新田義貞公・徳川家康公・秀忠公・家光公・歴代上人の像を祀る。正面新田寺の大額は尊超法親王の御染筆によるものである。
引用元:大光院新田寺案内看板『本堂』
本堂の屋根瓦にも、やはり『葵の御門』があります。
開山堂と比べるとこじんまりとした大きさに見えますが、とても風格のある本堂です。
大光院・本堂の前にある天水桶です。
裏面を見ると、どうやら元治元年(1864年)に奉納された物のようです。
元治元年というと、徳川幕府は第14代将軍・徳川家茂の時代ですね。
大光院・本堂の賽銭箱は、下の写真のように本堂の中にありました。
こちらが、大光院新田寺・本堂の扁額です。
網でおおわれているのが残念ですが、後世に護り伝えていくためには仕方ない事なのかもしれません。
以上、今回は家康公が建立した大光院新田寺をご紹介しました。
ご覧いただきありがとうございました。
大光院新田寺周辺のグルメスポット
大光院新田寺の門前には、お食事処・雑貨屋の『クルンモット』さんがあります。
こちらでは、このエリアの名物らしい『上州太田焼そば』なるものを頂けます。
この『上州太田焼そば』というのは、お店によって味や製法がバラバラなようでして、上州太田焼きそばのれん会曰く「特徴がないことが特徴」だそうです。
ここ『クルンモット』さんが提供する『上州太田焼そば』は、気さくな女将さんが注文を受けてから焼き始めるので少々お時間はかかりますが、そのお味はぜひ食べていただきたい味です。
モチモチの麺に、少し強めのソースが良く絡んでいて、とても美味しかったです。
大光院を訪れる際には、ぜひお試しあれ。
【あわせて読みたい】群馬県太田市内の家康公ゆかりの地
アクセス・案内情報
大光院新田寺
- 名称:義重山大光院新田寺(呑龍様)
- 住所:群馬県太田市金山町37-8
- 電話:0276-22-2007
- 交通:東武伊勢崎線・太田駅から徒歩約28分
- 参考:大光院 | 太田市観光物産協会
クルンモット
- 名称:クルンモット
- 住所:群馬県太田市金山町29-10(大光院 吉祥門前)
- 電話:0276-55-3303
- 交通:東武伊勢崎線・太田駅から徒歩約28分
- 参考:cafe+zakka クルンモット