『勝入塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の池田恒興の供養塚です。
『庄九郎塚』は同じく「長久手の戦い」で討死した、恒興の嫡男・池田元助の供養塚です。
恒興と元助は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。
長久手古戦場エリアの史跡巡りに便利な、無料のレンタサイクルを借りられる長久手市郷土資料室からすぐ近くにありますので、まずは『勝入塚』と『庄九郎塚』から見て回るのがオススメです。
勝入塚・庄九郎塚の見所ベスト3
- 池田恒興は織田信長の乳兄弟であり、織田・羽柴政権にて着々と力を着けていった人物。
- 恒興とその嫡男・池田元助は「長久手の戦い」にて徳川家康公率いる軍勢と野戦を行い、父子とも討死した地に建てられた供養塚。
- 恒興の次男であり元助の弟・池田輝政は後に家康公の愛娘を娶り、秀吉亡き後は家康公・秀忠父子に厚遇された。
【併せて読みたい】近くにある関連施設・史跡
池田恒興とはどんな人物だった?
天文5年(1536年)、池田恒興は尾張織田家臣・池田恒利の子として生まれました。
母・養徳院は織田信長の乳人を務めた人なので、恒興は信長の乳兄弟にあたります。
乳姉妹の縁もあり、恒興は幼少期より小姓として信長に仕えました。
引用元:『池田恒興像』(林原美術館蔵)
信長が驚嘆と共に天下にその名を轟かせた「桶狭間の戦い」以降、美濃平定など信長の黎明期から支えました。
また、信長が浅井・朝倉連合と激突した「姉川の戦い」では、信長との同盟により参戦していた徳川家康公率いる徳川勢に、丹羽長秀と共に援軍として加わりました。
尾張国犬山城主となって以降も、信長による「比叡山焼き打ち」や「長島一向一揆」の平定、室町幕府第15代将軍・足利義昭の軍勢を破った「槇島城の戦い」など、信長の快進撃を支え続けます。
信長の配下に加わっていた荒木村重が謀反を起こした「有岡城の戦い」では、村重の居城である摂津国有岡城の支城・花隈城を攻め落とします。
合戦の功績により、恒興は信長から摂津国に12万石を拝領したので、兵庫城を築城して花隈城を廃城としました。
こうして信長の側近として実績を積み重ねてきた恒興ですが、転機が訪れます。
天正10年(1582年)6月2日早朝——。
主君・織田信長は京都・本能寺にて、家臣・明智光秀の謀反によりこの世を去ります(本能寺の変)。
その直後、毛利攻めから引き返してくる「中国大返し」真っ最中の羽柴秀吉が兵庫城を通る際に、恒興は秀吉の軍勢に加わります。
秀吉が光秀を撃破した「山崎の戦い」において、恒興は5千の兵力を率いて右翼の先鋒を務め、秀吉の勝利に貢献しました。
「山崎の戦い」後に行われた「清洲会議」には、信長の後継者を決めるために柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名が参加しました。
秀吉と長秀が信長嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立し、恒興も賛同します。
結果、三法師を信長の後継者とするもののまだ幼いので、三法師の叔父である織田信雄・信孝兄弟が後見人を務め、堀秀政が傅役を務め、勝家・長秀・秀吉・恒興の4名が執権として補佐し、家康公が協力者として外部から支援するという体制が決定しました。
併せて「清洲会議」では領地の再分配も協議され、恒興は摂津国の大坂・尼崎・兵庫で合わせて12万石を領有することとなりました。
その後、恒興は美濃国13万石を拝領して大垣城に入り、岐阜城に嫡男・池田元助を入れます。
天正12年(1584年)3月から開始された「小牧・長久手の戦い」では、徳川家康公・織田信長方と羽柴秀吉方のどちらに加わるか、恒興は決断を迫られますが、羽柴方として参戦することを選びました。
勝入塚(池田恒興供養塚)
晩年、池田恒興は入道して「勝入」と名乗りました。
そのため、供養塚の名前も「勝入塚」となっています。
池田恒興の最期・その死因とは?
天正12年(1584年)4月9日、岩崎城を占領した羽柴方の池田恒興勢・森長可勢でしたが、徳川の軍勢が現れたとの知らせを受け、撤退し始めます。
そのころ、小牧山城から小幡城、色金山を経由した家康公は、御旗山(富士ヶ根)に陣を構えます。
「長久手の戦い」両軍の兵力一覧
【徳川方】
- 右翼:徳川家康公3千3百
- 左翼:井伊直政3千・織田信雄3千
【羽柴方】
- 右翼:池田元助・池田輝政4千
- 左翼:森長可3千
- 後方:池田恒興2千
- 撤退:堀秀政2千
(池田勢・森勢の援軍要請を無視して撤退)
「長久手の戦い」は4月9日午前10時ごろに開戦し、戦闘は2時間余り続きました。
戦況は一進一退の攻防が続きましたが、前線に出ていた森長可が狙撃されて討死しました。
長可の討死により羽柴方の左翼が崩れ始めると、徳川方に流れが傾き始めます。
恒興も立て直しを図りますが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したこともあり、徳川方の永井直勝(永井荷風、三島由紀夫、野村萬斎らの先祖)に槍で討ち取られます。
こうして、恒興は討死しました。
享年49歳でした。
勝入塚
『勝入塚』への入口は、長久手市郷土資料室からすぐの街道沿いにあります。
緩やかな坂道を進むと、右手側にすぐ『勝入塚』が見えてきます。
『勝入塚』の目の前には、池田恒興に関する案内看板があります。
国史跡 長久手古戦場 勝入塚
池田恒興(1536〜84、庄三郎、信輝、勝入斎)の戦死の場所と伝えられています。
恒興は美濃(岐阜県)大垣城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は秀吉に味方しました。この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で家康と秀吉が対峙したとき、家康の本拠地の岡崎攻めを秀吉に進言し、自ら軍を率いて侵攻しました。しかし、途中、岩崎城(日進市)を攻めるのに手間どり、家康軍先遣隊に追撃の機会を与えてしまいました。
結局この地で家康の本隊と会い、仏が根の戦闘で戦死しました。
恒興は、天正8年(1580)入道し、勝入斎と名乗りました。塚名はこの法名にちなむものです。長久手市教育委員会
引用元:長久手市教育委員会・勝入塚案内看板『国史跡 長久手古戦場 勝入塚』
『勝入塚』の塚石ですが、2つの塚石が並び立っているように見えます。
まず、向かって左側にある石碑は「明和の碑」で、明和8年(1771年)に建立されたそうです。
(中略)「明和の碑」は、明和8年(1771)尾張藩士人見彌右衛門と赤林孫七郎が古戦場を訪れた際、立てたものです(刻銘:池田勝入信輝戦死場)。
向かって右側の塚石は「明治の碑」だそうで、明治時代に建立されました。
塚石の風合い的には「明治の碑」の方が古そうに見えるのですが、実はこちらの方が新しいそうです。
『勝入塚』の裏面には碑文が刻まれています。
『勝入塚』からは『長久手市郷土資料室』の建物が見下ろせます。
庄九郎塚(池田元助供養塔)
池田元助は永禄2年(1559年)または7年(1564年)に、池田恒興の嫡男として生まれました。
元助は幼少の頃より、父と共に織田信長に仕えました。
引用元:『池田之助(元助)像』(岐阜県揖斐郡本郷村龍徳寺所蔵)
残されている元助の記録で最も古い登場は、天正6年(1578年)12月の「有岡城攻め」です。
以降、父・恒興と共に数々の合戦に加わり活躍しました。
「清洲会議」以降も恒興と共に、羽柴秀吉の味方として天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」に参戦しました。
恒興が美濃国大垣城主となると、元助は岐阜城主となりました。
天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」では、元助は恒興の献策により実行された三河奇襲の別働隊に加わります。
4月9日、この別働隊の動きを察知していた徳川家康公が率いる軍勢と長久手にて交戦、父・恒興や義弟・森長可共々討死しました(長久手の戦い)。
元助が討死した地と伝わる場所に建てられた供養塚が「庄九郎塚」です。
なお、庄九郎とは元助の幼名から名付けられました。
池田元助の最期・その死因とは?
池田恒興の嫡男・元助もまた、父と共に「長久手の戦い」で討死しました。
元助は徳川方・安藤直次(安藤帯刀)によって討ち取られました。
享年26歳でした。
庄九郎塚
『庄九郎塚』は『古戦場公園』の敷地の南端にあります。
『庄九郎塚』の入口は大通りを背にする向きなので、初見だと少々分かりづらいかもしれません。
『庄九郎塚』の付近には『勝入塚』同様に、池田元助に関する案内看板があります。
国史跡 長久手古戦場 庄九郎塚
池田之助(1564~84、庄九郎、元助、紀伊守)の戦死の場所と伝えられています。
之助は池田恒興の長男で岐阜城主、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの時は、父に従って参戦しました。父や義兄(森長可)とともに家康本拠の岡崎奇襲を企てましたが失敗し、戦死しました。残された一子元信は、秀吉の馬廻に取り立てられ、その後秀頼に仕えましたが、大阪城落城前には本家池田輝政(之助の弟)の家来になりました。
塚名は之助の幼名庄九郎にちなんで名付けられたものです。長久手市教育委員会
引用元:長久手市教育委員会・庄九郎塚案内看板『国史跡 長久手古戦場 庄九郎塚』
『庄九郎塚』も『勝入塚』同様に、やはり「明和の碑」と「明治の碑」の2つの塚石があります。
恒興同様、「明治の碑(刻銘:紀伊守池田公戦死*1)」「明和の碑(刻銘:池田紀伊守之助戦死場)」があります。(中略)庄九郎塚の柵の左に「勝道九兵衛秀胤討死之*1」と刻まれた碑があります。秀胤は史料にはみえませんが、この碑の右面には「池田一族」あります。大字長湫字鴉ヶ廻間にあったものを区画整理のため現在地に移しました。
向かって左側の塚石が「明和の碑」で、右側が「明治の碑」です。
こちらは「明治の碑」です。
『庄九郎塚』と『勝入塚』の塚石は似たようなデザインですが、『庄九郎塚』の塚石は裏面に碑文がありません。
池田恒興・元助父子討死後の池田家と池田輝政
「長久手の戦い」において池田家当主・池田恒興と、恒興の嫡男・元助が共に討ち死にしてしまいました。
ですが、元助の弟・池田輝政は、この「長久手の戦い」に参加していたものの、自らの家臣が「恒興と元助は既に戦場を離脱した」と説得されたため、討死する前に戦場を離脱しました。
そのため、家督は生き残った輝政が相続しました。
「長久手の戦い」からちょうど10年後の文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の仲介によって、輝政は徳川家康公の愛娘・督姫を娶ります。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が亡くなると輝政は家康公と距離を近くします。
慶長5年(1600年)9月15日の「関ヶ原の戦い」では家康公率いる東軍として、家康公の布陣した桃配山の後方に輝政は布陣して、南宮山に布陣した毛利勢から家康公の背中を守りました。
「関ヶ原の戦い」本戦でこそ直接的な戦功はありませんでしたが、直前の「岐阜城の戦い」などの功績により、戦後は三河国吉田15万2千石から播磨国姫路52万石へと家康公により大幅に加増されました。
以降も、輝政は家康公・秀忠父子から、徳川一門以外の大名としては異例の厚遇をされました。
こうして、かつて「長久手の戦い」では徳川方によって恒興と元助を討たれた池田家でしたが、輝政の尽力によって見事に家を立て直すことに成功しました。
【勝入塚・庄九郎塚周辺の観光スポット】
まずは『長久手市郷土資料室』でレンタサイクルを借りる
恒興・元助父子と共に討死した森長可を供養する『武蔵塚』
アクセス・案内情報
勝入塚へのアクセス・案内情報
- 名称:勝入塚
- 住所:愛知県長久手市武蔵塚204(古戦場公園内)
- 交通:愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)長久手古戦場駅から徒歩約5分
庄九郎塚へのアクセス・案内情報
- 名称:庄九郎塚
- 住所:愛知県長久手市武蔵塚204(古戦場公園内)
- 交通:愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)長久手古戦場駅から徒歩約5分