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武蔵塚(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」で討死した森長可の供養塚

武蔵塚・塚石と石碑 その他の史跡・ゆかりの地

『武蔵塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の長可ながよしの供養塚です。

長可は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。

長久手古戦場エリアの史跡巡りに便利な、無料のレンタサイクルを借りられる長久手市郷土資料室からすぐ近くにあります。

武蔵塚の見所ベスト3

  • 森長可は源義家(八幡太郎義家)の六男・義隆を祖とする森家の当主だった人物で、森成利(森蘭丸)は長可の弟。
  • 僅か13歳で森家の家督を継ぎ、15歳で他の織田家重臣と肩を並べて活躍していた。その武勇から「鬼武蔵」と呼ばれた。
  • 岳父・池田恒興と共に羽柴秀吉に加わった「小牧・長久手の戦い」では「羽黒の戦い」で徳川勢に惨敗、最期は「長久手の戦い」にて徳川家康公率いる軍勢と野戦を行い討死。長可の討死した地に建てられた供養塚が『武蔵塚』。

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森長可はどんな人物だった?

森長可は永禄元年(1558年)、織田信長家臣・森可成(三左衛門)の次男として生まれました。

森家は河内源氏の棟梁だった源義家の六男・義隆が開祖であり、そのため森家の本姓も源氏の家系です。

元亀元年(1570年)、長可の父・可成が討死してしまい、同年に長兄・可隆までもが討死してしまいました。

そのため、遺された長可は弱冠13歳の若さで森家の家督を相続し、織田信長に仕えます。

森長可・肖像画

引用元:森長可肖像画(可成寺所蔵)

長可の初陣は元亀4年(1573年)3月、織田信長による「第二次長島一向一揆攻め」です。

以降、信長の合戦には数々参加し、武功を挙げていきます。

天正10年(1582年)の信長による「甲州征伐」後、長可は信濃国に残り戦後統治を担当しました。

しかし、同年6月2日に「本能寺の変」が起こり信長が討たれると、事態は一変します。

長可が配下に収めた信濃の国衆にも信長死亡の報が伝わると、出浦盛清(のち真田昌幸信之父子に仕える人物。大河ドラマ『真田丸』では寺島進さんが演じていました)以外のほぼ全員が長可を裏切りました。

長可は海津城で預かっていた国衆らの妻子などの人質を盾に、信濃国からの脱出を図ります。

そして、松本に到着した長可は、連れてきた人質を残らず処刑して木曽谷方面へと撤退しました。

天正10年(1582年)6月24日、ついに長可は無事に旧領・美濃国金山への帰還を果たしました。

ですが、この時点で離反する森家の家臣らも出てきて勢力が衰退してしまっており、旧領への帰還後すぐに長可は離反した旧家臣らに次々と合戦をしかけて、各個撃破していきました。

翌天正11年(1583年)の5月頃には、長可は東美濃全域と中濃の一部を勢力圏下にするまで勢力を回復・拡大しました。

なお、長可の異名「鬼武蔵」の名は信長から授かったそうですが、信長の生前には使用されず、この頃から書状では「武蔵守」を名乗るようになったようです。

天正12年(1584年)、徳川家康公・織田信雄連合と羽柴秀吉の間で軍事衝突した「小牧・長久手の戦い」では、長可は岳父・池田恒興と共に羽柴方に味方しました。

森長可の最期・その死因とは?

「小牧・長久手の戦い」の序盤にあたる天正12年(1584年)3月17日早朝、尾張国羽黒に布陣していた森勢に対し、家康公は家臣・酒井忠次、榊原康政、大須賀康高ら総勢5千の兵を向けて、長可へと奇襲をかけて「羽黒の戦い」が開戦しました。

一旦は軍勢を立て直すことに成功した長可でしたが、酒井勢が後方に回り込むと森勢は崩れ、撤退には成功するものの300の兵を失う敗北を喫しました。

その後、家康公の布陣する小牧山を迂回して、家康公の本拠地・三河国岡崎を奇襲する「中入り」作戦を岳父・恒興が秀吉に進言して採用されます。

この戦に際して、長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬して、不退転の覚悟で望みました。

そして、まず「岩崎城の戦い」にて恒興に加勢して岩崎城を落とします。

しかし、そうした「中入り」の動きを察知していた家康公は、本陣の小牧山から秘かに兵を抜き、自ら率いて長久手方面へと向かいます。

まず、徳川方から分かれた別動隊が「中入り」作戦の総大将・羽柴秀次勢を壊滅させ、秀次は命からがらの退却をします。

その徳川方別働隊は羽柴方・第3陣の堀秀政勢が破りますが、その間に家康公が率いる徳川方本隊が色金山から御旗山へと移動して、羽柴方の第2陣と第3陣の間に割り込むように布陣しました。

この位置関係は、ちょうど森勢と池田勢が先行したまま敵地に取り残される形となってしまい、覚悟を決めた長可は岳父・恒興の率いる池田勢と合流して、徳川方との決戦に挑みます。

現在の『長久手古戦場跡』付近にて両軍が激突した「長久手の戦い」は、一連の「小牧・長久手の戦い」において最も激しい野戦合戦となりました。

「長久手の戦い」両軍の兵力一覧

【徳川方】

  • 右翼:徳川家康公3千3百
  • 左翼:井伊直政3千・織田信雄3千

【羽柴方】

  • 右翼:池田元助・池田輝政4千
  • 左翼:森長可3千
  • 後方:池田恒興2千
  • 撤退:堀秀政2千
    (池田勢・森勢の援軍要請を無視して撤退)

「長久手の戦い」は4月9日午前10時ごろに開戦し、戦闘は2時間余り続きました。

開戦当初、戦況は一進一退の攻防が続きます。

しかし、やがて前線に出ていた長可は徳川方・井伊直政勢の鉄砲足軽・杉山孫六に、眉間を撃ち抜かれて討死しました。

即死だったそうです。

享年27歳。

その後、長可の討死により羽柴方の左翼が崩れ始めると、徳川方に流れが傾き始めます。

池田恒興・元助父子も付近にて討死し、羽柴方は敗走。

「小牧・長久手の戦い」最大の激戦となった「長久手の戦い」は、徳川方の勝利に終わりました。

武蔵塚(森長可供養塚)

『武蔵塚』への入口は、長久手古戦場駅近くにある『庄九郎塚』からすぐの住宅街にあります。

森長可の岳父である池田恒興とその嫡男・池田元助もまた、「長久手の戦い」においてこの付近にて討死しました。

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武蔵塚・入口

『武蔵塚』がある一帯はちょっとした公園のようになっていますが、近くを通る「古戦場通り」から入ることはできませんので要注意です。

公園のような敷地の北東側に入口がありますので、そちらから入ると良いです。

武蔵塚・遠景

『武蔵塚』の目の前には、森長可に関する案内看板があります。

武蔵塚案内看板『国史跡長久手古戦場武蔵塚』

国史跡 長久手古戦場 武蔵塚むさしづか

森長可もりながよし(1558~84、庄蔵しょうぞう武蔵守むさしのかみ)の戦死の場所と伝えられています。
長可は美濃みの(岐阜県)金山城主かなやまじょうしゅで、天正12年(1584)の小牧こまき長久手ながくての戦いの時は、秀吉ひでよしに味方しました。しゅうと 池田恒興いけだつねおきらとともに、家康の本拠地岡崎おかざきを突こうとして失敗し、4月9日の仏が根の戦闘せんとうで戦死しました。
長可は、天正10年(1582)の本能寺ほんのうじへんで、信長のぶながとともに落命した蘭丸らんまるの長兄で、勇猛果敢ゆうもうかかん武将ぶしょうとして知られています。
塚名は、長可の異名鬼武蔵おにむさしにちなんで名付けられたものです。

長久手市教育委員会

引用元:長久手市教育委員会・武蔵塚案内看板『国史跡 長久手古戦場 武蔵塚』

武蔵塚・概観

『武蔵塚』は塚石と、記念碑があります。

武蔵塚・塚石と石碑

『武蔵塚』の記念碑は明治31年4月に建立されたようです。

武蔵塚・石碑

碑文は綺麗に読める良好な状態です。

武蔵塚・石碑の碑文

こちらが『武蔵塚』の塚石です。

武蔵塚

この『武蔵塚』も、近隣の『勝入塚』や『庄九郎塚』同様に、こちらの細長い石柱が明和年間(1764年~1772年)に建てられた「明和の碑」だそうです。

武蔵塚・塚石

(中略)人見・赤林による「明和の碑(刻銘:森武蔵守長一戦死場)」と、子孫が明治31年に立てた「明治の碑(刻銘:森公遺蹟碑)」があります。なお墓は岐阜県可児市兼山の可成寺にあります。

引用元:武蔵塚(むさしづか)【国指定史跡】 | 名所・公園 | 長久手商店街

【武蔵塚周辺の観光スポット】

まずは長久手市郷土資料室でレンタサイクルを借りる

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「長久手の戦い」で討死した池田恒興・池田元助・森長可の墓がある『常照寺』

(近日中に公開予定)

アクセス・案内情報

  • 名称:武蔵塚
  • 住所:愛知県長久手市武蔵塚905
  • 交通:愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)長久手古戦場駅から徒歩約7分
  • 備考:『庄九郎塚』から自転車で約2分

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