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長久手城跡(愛知県長久手市)|「岩崎城の戦い」の最中に焼き討ちにされた城

長久手城跡・記念碑(サムネイル画像) 徳川家臣団ゆかりの地

長久手城は、戦国時代後期に長久手村一帯を領有していた加藤忠景かとうただかげの居城です。

忠景は天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」において、岩崎城主の丹羽氏次から岩崎城を任された弟・丹羽氏重の元で「岩崎城の戦い」に参加し、城兵もろとも討死しました。

長久手城自体は「長久手の戦い」直前に行われた「岩崎城の戦い」の最中に、森長可勢によって焼き討ちにされ、そのまま廃城となった模様です。

長久手城跡の見所ベスト3

  • 長久手城主・加藤忠景は「長久手の戦い」で徳川方として「岩崎城の戦い」に参加、籠城戦をするも池田恒興勢と森長可勢に攻め落とされ全滅した。
  • 長久手の地名を冠する城ではあるが、長久手城は小規模な城だった。
  • 現在、長久手城跡には記念碑と観音像がある。

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勝入塚・庄九郎塚(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」で討死した池田恒興・元助父子の供養塚
『勝入塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の池田恒興の供養塚です。 『庄九郎塚』は同じく「長久手の戦い」で討死した、恒興の嫡男・池田元助の供養塚です。 恒興と元助は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。
武蔵塚(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」で討死した森長可の供養塚
『武蔵塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の森長可ながよしの供養塚です。 長可は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。 長久手古戦場エリアの史跡巡りに便利な、無料のレンタサイクルを借りられる長久手市郷土資料室からすぐ近くにあります。
鎧掛松・血の池公園(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」後に槍や刀の血を洗い落とした池の跡
『血の池公園』は「長久手の戦い」後に、徳川家康公の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗ったと伝わる池の跡地です。 その際、脱いだ鎧をかけた松が『鎧掛松』です。 現在『血の池』は埋め立てられて『血の池公園』となっており、池だった面影は一切ありません。

長久手城とは?

長久手城は、岩崎城主・丹羽氏次の姉を娶った加藤忠景が城主の城でした。

その縁もあり、氏次が「小牧・長久手の戦い」において徳川家康公の家臣として小牧山に参陣する際、忠景は氏次の弟・氏重と共に岩崎城の守備に就きました。

天正12年4月9日未明に始まった「岩崎城の戦い」では、香流川を渡った羽柴方第1隊・池田恒興とその嫡男元助勢7千、そして軍目付役の第3隊・堀秀政5千が岩崎城への攻撃を開始します。

その間、羽柴方第2隊・森長可勢3千から分かれた別動隊が、長久手にて徳川方に属する長久手城と一色城を焼き討ちにしました。

長久手城は焼き討ちにされた後、そのまま廃城となったそうです。

そして、長久手城主の忠景もまた、氏重と共に岩崎城にて籠城戦を行いますが、岩崎城の兵力は僅か280、忠景・氏重共に討死しました。

こうして岩崎城を攻め落とした池田勢と森勢でしたが、ちょうど「岩崎城の戦い」が行われている頃、羽柴方の大将を務める羽柴秀次勢が「白山林の戦い」において徳川方の水野忠重勢・丹羽氏次勢・大須賀康高勢・榊原康政勢に惨敗し、秀次自身も敗走してしまいます。

その報せを受けた堀秀政は軍勢を桧ヶ根に移動して、秀次勢に勝利した徳川方と「桧ヶ根の戦い」を行い、徳川方を破ります。

「桧ヶ根の戦い」での敗北の報せを受けた家康公は、色金山から御旗山に移動して池田勢・森勢と堀勢を分断して、池田勢・森勢を孤立させました。

家康公自ら率いる徳川方と、退路を断たれた事で覚悟を決めた池田勢・森勢との間で野戦「長久手の戦い」が行われると、徳川方が勝利、恒興とその嫡男・元助や長可は討死しました。

下の写真は、長久手城跡に設置されている案内看板です。

長久手城跡・案内看板『市史跡長久手合戦史跡長久手城址』

市史跡 長久手合戦史跡 長久手城趾ながくてじょうし

長久手城は、中世末期、長久手村を領有りょうゆうした加藤太郎右衛門忠景かとうたろううえもんただかげ(1543~84)の居城きょじょうです。
忠景は、16世紀の中頃、前領主斎藤さいとう氏の古城を修築しゅうちくして入城しその後、近隣の地侍じざむらいらと親交を深め、姻戚いんせきを結びました。天正12年(1584)小牧こまき長久手ながくての戦いの時には、家康いえやすに従った義弟ぎてい岩崎城主いわさきじょうしゅ丹羽氏次にわうじつぐの留守を預かって奮戦しましたが池田隊いけだたいの多勢に敗れ、城兵じょうへい230余名もろともに戦死しました。城は後に民家になり、荒れ果てましたが、文化6年(1809)忠景子孫の尾張藩士おわりはんしが当地を訪れ、宅跡の観音堂かんのんどう脇に石標を立て、供養しました。

長久手古戦場国史跡指定
長久手市教育委員会

引用元:長久手城跡案内看板『市史跡 長久手合戦史跡 長久手城趾』

長久手城跡

こちらが、現在の長久手城跡です。

長久手城跡・加藤太郎右衛門忠景邸跡(概観)

住宅街の中にちょっとした広場があり、そこに記念碑・案内看板とお地蔵・観音堂があります。

長久手城跡・加藤太郎右衛門忠景邸跡

長久手城跡

こちらが長久手城跡の記念碑と、加藤太郎右衛門忠景邸跡の記念碑です。

長久手城跡・概観

正面の黒い石碑が、長久手城跡の記念碑です。

長久手城跡・記念碑

曲輪や土塁などの長久手城の遺構は、残念ながら周囲の宅地開発時に破壊されてしまい、遺構らしい遺構は残っていないそうです。

長久手城跡・記念碑(左前から)

長久手城跡の記念碑は徳川義宣氏の揮毫によるものです。

長久手城跡・記念碑(接写)

記念碑の裏面を見ると、まだ長久手市が市になる前の長久手町だった頃の名残が見られます。

長久手城跡・記念碑(裏面)

加藤太郎右衛門忠景宅趾

こちらは、長久手城主・加藤忠景の邸宅跡だった事を示す記念碑です。

加藤太郎右衛門忠景邸跡・記念碑(概観)

文化6年(1809年)に、忠景の子孫の尾張藩士が「小牧・長久手の戦い」当時を偲んで建てた記念碑だそうです。

ちなみに、近年の宅地開発の影響により、元々建てられた場所から現在の場所に移動されたそうです。

地蔵さま

こちらは、長久手城跡の記念碑の隣にあるお地蔵です。

長久手城跡・地蔵さま

お地蔵の隣には、その由緒が記された石碑があります。

長久手城跡・地蔵さま(石碑碑文)

地蔵さま建立について

天正十二年四月九日 長久手合戦において、この地が激戦地となり多くの戦死者、処刑者を出したと聞き伝えられております。
現在、「池田勝入・森武蔵守・紀伊守・加藤太郎右ヱ左門」は長湫区会の手によって毎年四月九日に供養がなされております。
他の多くの戦死者、処刑者はその霊の祭ってあるところもなく、又、地形も整理事業によって昔の面影もなくなりました。
よって、この地に伝わる過去の因縁による霊を慰めるため、長久手城址に「地蔵さま」を建立して、その霊を慰めるとともに併せて地元の危を払い安全祈願をしたいと思い立ち心ある有志の皆様方のご賛同を得て寄進により建立する。

引用元:長久手城跡石碑『地蔵さま建立について』

また、地蔵さまの隣には建物があります。

長久手城跡・長久手観音堂

中の様子から察するに、観音堂ではないようですが、集会場か何かでしょうか?

長久手城跡・長久手観音堂(内部)

長久手城自体は、長久手エリアで行われた合戦の主戦場ではありませんでしたが、こうして今日に記念碑が残されているというのはありがたいことだと思います。

長久手古戦場巡りの道中にぜひ立ち寄ってみてください。

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長久手古戦場跡(愛知県長久手市)|徳川家康公が秀吉に勝利した「小牧・長久手の戦い」の局地戦が行われた地
徳川家康公が羽柴秀吉と直接対決した合戦「小牧・長久手の戦い」。 互いににらみ合いを続けているうちに秀吉が和平工作を行い、その後の飛躍も考えると政治的には秀吉が勝利した合戦と言えます。 ですが、合戦そのものでは家康公が羽柴軍に勝利したのをご存知ですか? 「小牧・長久手の戦い」は合戦の期間が長引いた上に、交戦地点も複数あって複雑なのですが、まずは「長久手の戦い」が行われた「長久手古戦場跡」をご紹介します。

アクセス・案内情報

  • 名称:長久手城跡
  • 住所:愛知県長久手市城屋敷218
  • 交通:愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)長久手古戦場駅から徒歩約15分
  • 備考:『血の池公園』から自転車で約1分

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