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堀久太郎秀政本陣跡(愛知県長久手市)|「桧ヶ根の戦い」で秀政が布陣した場所

堀秀政陣跡・記念碑と案内看板 その他の史跡・ゆかりの地

堀久太郎秀政本陣跡の記念碑は、愛知県長久手市の桧ヶ根公園内にあります。

秀政は「小牧・長久手の戦い」における「桧ヶ根の戦い」で、徳川方の榊原康政勢や大須賀康高勢らを破りました。

ですがその直後、色金山に布陣していた徳川家康公が御旗山に移動して金扇の馬印を立てると、それを見て戦況の不利を悟り撤退しました。

堀久太郎秀政本陣跡の見所ベスト3

  • 「桧ヶ根の戦い」は直前に行われた「白山林の戦い」で羽柴秀次勢を壊滅させた榊原康政勢や大須賀康高勢に対して、堀秀政が攻撃を仕掛けて勝利した野戦合戦。
  • 「桧ヶ根の戦い」に勝利後、秀政は近くの御旗山に家康公が布陣するのを見ると、岩崎城を攻め落とした池田恒興・元助勢と森長可勢の援軍要請に応じずに退却。
  • 堀久太郎秀政本陣跡の記念碑は「いつ・誰が・どこに」建立したのか不明だが、現在は桧ヶ根公園の一角にある。

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御旗山(愛知県長久手市)|「桧ヶ根の戦い」後に徳川家康公が布陣した場所
御旗山は「小牧・長久手の戦い」における「桧ヶ根の戦い」での徳川方敗北の報せを受けた徳川家康公が、色金山から陣を移した場所です。 御旗山は「桧ヶ根の戦い」で勝利した直後の羽柴方・堀秀政の陣からすぐ近くにあり、御旗山に家康公が立てた金扇の馬印を見た秀政は形勢の不利を悟り、分断された池田恒興・元助勢と森長可勢からの援軍要請を無視して撤退しました。

堀秀政が勝利した「桧ヶ根の戦い」とは?

天正12年(1584年)、徳川家康公と織田信長の次男・織田信雄と、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が直接対決した「小牧・長久手の戦い」が起こりました。

「小牧・長久手の戦い」のうち、同年4月9日の早朝に「白山林の戦い」で榊原康政ら徳川方の別働隊が羽柴秀次勢を壊滅させました。

その秀次敗走を知った羽柴方の堀秀政は、長久手の桧ヶ根にあった山の上に布陣し、榊原勢らを待ち構えました。

その時に秀政が布陣した場所の付近にあるのが、今回ご紹介する『堀久太郎秀政本陣跡』の記念碑です。

「白山林の戦い」で秀次勢を撃破した勢いのまま、堀勢に突撃する榊原勢ら徳川方の別働隊でしたが、秀政は鉄砲隊の一斉射撃を浴びせて隊列を崩し、総攻撃を行い徳川方を敗走させます。

これが「桧ヶ根の戦い」です。

しかし、付近の色金山に布陣していた家康公はその敗走の報せを受けると、すぐに秀政の陣からすぐ近くにある御旗山に移動しました。

岩崎城を攻撃した後の池田恒興勢・森長可勢からの援軍要請を受けたものの、御旗山に立てられた家康公の金扇の馬印を見た秀政は状況の不利を悟り、援軍要請に応じず撤退しました。

徳川家康公が布陣した御旗山から堀久太郎秀政本陣跡まで

「白山林の戦い」での徳川方勝利と、その直後に行われた「桧ヶ根の戦い」での敗走の報せを受けた徳川家康公は、布陣していた色金山から香流川かなれがわを渡って御旗山に布陣します。

御旗山から堀久太郎秀政本陣跡に向かう際は住宅街を最短距離で移動しても良いのですが、すぐ近くを流れる香流川沿いに向うのもおすすめです。

香流川(御旗山付近)

桧ヶ根公園の敷地が見えてきたら、左折して公園沿いを進みます。

香流川(堀秀政陣跡付近)

ちなみに、この辺りから振り返ると御旗山の木々が見えますので、かつて秀政が見た家康公の金扇を想像してみるのも一興です。

堀秀政陣跡付近の香流川から見える御旗山

堀久太郎秀政本陣跡

堀秀政は天文22年(1553年)、美濃国を治める「マムシ」のあだ名で有名な戦国大名・斎藤道三の家臣である堀秀重の長男として、美濃国厚見郡茜部で生まれました。

羽柴秀吉に仕えますが、その主君であった織田信長に取り立てられ、出世を重ねていきます。

数々の武功を挙げていく秀政ですが、天正10年(1582年)に起きた「本能寺の変」の直前には、信長が安土城に招いた徳川家康公の饗応役(接待役)から明智光秀を外すと、その後を丹羽長秀と共に任されました。

その後、秀吉が布陣していた備中へ向かう秀政でしたが、信長死去の報せが届くと、秀吉と共に「中国大返し」を行い、上方へ戻って「山崎の戦い」に参陣、先鋒を務めました。

天正11年(1583年)4月の「北ノ庄城の戦い」でも秀政は先鋒を務め、越前国北ノ庄の柴田勝家を攻めました。

その時の秀政の戦いぶりについて、家康公が秀吉に宛てた書状に「はた又、久太郎(秀政)方砦へ、柴田取りかかり候のところ、すなはち合戦に及び、切り崩され、あまた討捕られ候えば、定めて比類なき儀、心地よく候、云々」と称賛するほどのものでした。

天正14年(1586年)には、信長の側近時代からの同僚・長谷川秀一と共に昇殿を許されました。

秀吉が天正15年(1587年)に行った九州平定にも秀政は参陣し、その先鋒部隊を任されました。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣し、豊臣方における左備の大将を任されます。

戦上手の秀政は箱根口を攻め上り、北条方の山中城を陥落させました。

そのまま相模国小田原の早川口まで攻め込み、海蔵寺に布陣した秀政でしたが、同年5月27日に陣中にて病死しました。

享年38歳。

桧ヶ根公園・園内の様子

堀久太郎秀政本陣跡の記念碑は「桧ヶ根公園」の中にあります。

桧ヶ根公園・入口(堀秀政陣跡)

桧ヶ根公園の南側から入ってそのまま北へ進むと、すぐに記念碑があります。

桧ヶ根公園・園内の様子(堀秀政陣跡)

公園のちょうど中央くらいの場所です。

堀秀政陣跡・記念碑と石田橋(遠景)

友好の樹(長久手市・ワーテルロー市)

堀久太郎秀政本陣跡の記念碑の隣には、長久手市とベルギー国ワーテルロー市が姉妹都市となった事を記念して植えられた「友好の樹」があります。

桧ヶ根公園・友好の樹(長久手市・ワーテルロー市)

ワーテルロー市は1815年6月1日、フランス皇帝ナポレオン1世が率いるフランス軍と、ウェリントン将軍率いるイギリス・オランダなどの連合軍とプロイセン軍が戦った「ワーテルローの戦い」の戦場として有名な場所です。

そうした縁から、平成4年(1992年)10月8日に桧ヶ根公園のすぐ隣にある長久手市中央図書館にて、両市の姉妹都市提携調印式が行われました。

桧ヶ根公園・友好の樹記念碑(長久手市・ワーテルロー市)

堀久太郎秀政本陣地跡

こちらが、桧ヶ根公園にある堀久太郎秀政本陣跡の記念碑です。

堀秀政陣跡・記念碑概観(右斜め前から)

記念碑が周囲の植え込みに埋まるようにして設置されているため、遠くから見ると分かりづらいのですが、近づくと一目で分かります。

堀秀政陣跡・記念碑概観(正面から)

今日、陣跡には記念碑と案内看板があるだけです。

堀秀政陣跡・記念碑概観(左斜め前から)

記念碑には「堀久太郎秀政本陣地」と刻まれています。

堀秀政陣跡・記念碑(右斜め前から)

案内看板によると、当時の桧ヶ根(この付近)は標高81.2mだったそうで、周囲一帯を広く見渡せる場所だったそうです。

堀秀政陣跡・記念碑案内看板『堀久太郎秀政本陣跡地』

堀久太郎秀政本陣地跡
町史跡 長久手合戦史跡

この本陣地跡は、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの折、秀吉方の武将堀秀政が桧ヶ根の戦闘で本陣を布いた所です。
堀秀政(1553~90)は始め美濃の斉藤氏の家人でしたが、後に信長に仕え、信長の死後は、秀吉に属して戦い、山崎や賤ヶ岳の戦いの戦功によって秀吉から佐和山城9万石を与えられました。小牧・長久手の戦いでは、秀吉方の軍監(いくさめつけ)として進軍し、桧ヶ根の戦闘で榊原康政・大須賀康高ら家康方の追撃隊を撃ち破りました。
当時の桧ヶ根は標高81.2m、頂上に立てば北から進軍して来る家康軍と、南に先行する味方の池田・森隊の両軍が同時に見渡せる恰好の場所でした。

1992・長久手町教育委員会

引用元:堀久太郎秀政本陣跡案内看板『堀久太郎秀政本陣地跡』

秀政が「桧ヶ根の戦い」によって徳川方の別動隊を破った後、家康公が布陣した御旗山の標高は86mでしたので、それに近い高さがあったと考えると、秀政の布陣場所も中々良い場所だったと言えそうですね。

ちなみに、この堀久太郎秀政本陣跡の記念碑が「いつ・誰によって」建てられたのかは不明だそうです。

堀秀政陣跡・記念碑(正面から)

判明している由緒は、昭和45年に桧ヶ根の山頂に移され、その後の区画整理で現在の桧ヶ根公園内に設置されたという事です。

堀久太郎秀政本陣跡から見える色金山

堀久太郎秀政本陣跡の記念碑のすぐ近くにある石田橋からは、家康公が御旗山へ移動する前に布陣していた色金山も良く見えます。

堀秀政陣跡・桧ケ根から見える色金山

当時の桧ヶ根は標高81.2mの山だったそうなので、より一層長久手一帯を広く見渡せたものと思われます。

秀政も戦上手として有名だった人物ですので、やはり布陣すべき場所を的確に押さえていたであろう事が伺えます。

それ故に、御旗山に立てられた家康公の金扇を見て、池田・森勢を半ば見殺しにする形での撤退を選択してしまったのかもしれませんが……

家康公が御旗山に移動する前に布陣していた色金山

(近日中に記事公開予定)

「桧ヶ根の戦い」直後に色金山から移動した家康公が金扇を立てた御旗山

御旗山(愛知県長久手市)|「桧ヶ根の戦い」後に徳川家康公が布陣した場所
御旗山は「小牧・長久手の戦い」における「桧ヶ根の戦い」での徳川方敗北の報せを受けた徳川家康公が、色金山から陣を移した場所です。 御旗山は「桧ヶ根の戦い」で勝利した直後の羽柴方・堀秀政の陣からすぐ近くにあり、御旗山に家康公が立てた金扇の馬印を見た秀政は形勢の不利を悟り、分断された池田恒興・元助勢と森長可勢からの援軍要請を無視して撤退しました。

長久手古戦場巡りはレンタサイクルを借りると便利です

長久手古戦場跡(愛知県長久手市)|徳川家康公が秀吉に勝利した「小牧・長久手の戦い」の局地戦が行われた地
徳川家康公が羽柴秀吉と直接対決した合戦「小牧・長久手の戦い」。 互いににらみ合いを続けているうちに秀吉が和平工作を行い、その後の飛躍も考えると政治的には秀吉が勝利した合戦と言えます。 ですが、合戦そのものでは家康公が羽柴軍に勝利したのをご存知ですか? 「小牧・長久手の戦い」は合戦の期間が長引いた上に、交戦地点も複数あって複雑なのですが、まずは「長久手の戦い」が行われた「長久手古戦場跡」をご紹介します。

アクセス・案内情報

  • 名称:堀久太郎秀政本陣跡(堀久太郎秀政本陣地跡)
  • 住所:愛知県長久手市坊の後113
  • 交通:愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)長久手古戦場駅から徒歩約21分
  • 備考:『長久手城跡』から自転車で約2分

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