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本證寺(愛知県安城市)|三河一向一揆以前に本多正信が通っていた寺

本證寺・常夜灯と鼓楼と内堀のハス 徳川家臣団ゆかりの地

本證寺ほんしょうじは、愛知県安城市にある浄土真宗・真宗大谷派のお寺です。

徳川家康公の無二の参謀・本多正信は若かりし頃、この本證寺に通っていました

その後、永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで続いた三河一向一揆」において、正信は真宗門徒側として主君である家康公に敵対しました。

本證寺は戦国時代に三河一向一揆の拠点となった経緯から、鼓楼や土塁を備え、水濠に囲まれた城郭寺院となっています。

家康公により一揆が鎮圧された後、一揆側として戦った多くの徳川家臣は家康公のもとに帰参しますが、正信は帰参せずに妻子を置いて出奔してしまいます。

のちに家康公のもとに帰参する正信ですが、その後は寺社の復旧・保護にも力を入れました。

今回は、そんな正信が若い頃に通っていた寺院・本證寺をご紹介いたします。

本證寺とは?

本證寺の略史

まずは、本證寺の略史についてご紹介します。

本證寺・案内看板『国指定史跡本證寺境内』

国指定史跡 本證寺境内ほんしょうじけいだい 平成27年3月10日指定

本證寺は真宗大谷派しんしゅうおおたにはの寺院で、山号さんごう雲龍山うんりゅうざんといいます。鎌倉時代後期(13世紀末ころ)に、慶円きょうえんによって開かれました。寺伝によれば、慶円が新たな布教の土地を求めて矢を放ち、この地に落下したとされます。
15世紀後半には、本願寺ほんがんじ蓮如れんにょの教化によって浄土真宗じょうどしんしゅう高田派たかだはから本願寺派ほんがんじは(いわゆる一向宗いっこうしゅう)に転じました。このころから、三河みかわ地方における本願寺派寺院の組織化が進み、後に上宮寺じょうぐうじ勝蔓寺しょうまんじ(いずれも岡崎市)とともに三河さんと呼ばれます。そして16世紀の前半になると、二重の堀と土塁が築かれました。これにより城郭寺院じょうかくじいんとも呼ばれます。
永禄えいろく6年(1563)の三河一向一揆みかわいっこういっきでは、本證寺は他の三河三か寺とともに領主の徳川家康とくがわいえやすと争いました。いったんは和議が結ばれますが、家康から一方的に出された改宗かいしゅう命令を拒否したため、坊主衆ぼうずしゅうは領国から追放となり、建物も破却はきゃくされたと伝えられます。本證寺10代の空誓くうせいも、加茂郡かもぐん菅田輪すげたわ(現豊田市)に逃れました。一揆の罪が赦免しゃめんされたのは、約20年後のことです。天正てんしょう13年(1585)の徳川家康黒印状こくいんじょうでは、本證寺は施設である「道場屋敷どうじょうやしき」の保証と、寺に属した「家来三十間けらいさんじゅっけん」(家来=外堀に囲まれた「寺内じない」の住人)の租税そぜいの免除が認められています。
江戸時代には、三河三か寺は本山ほんざん中本山ちゅうほんざん末寺まつじという本末制度ほんまつせいどのなかで中本山の地位を与えられ、末寺のとりまとめ役を担いました。また、本證寺は領主や寺社奉行じしゃぶぎょうと配下の寺院とをつなぐ三河国みかわのくに触頭ふれがしらとしての役割をあわせ持ち、幕末には200か寺余の末寺を有する大寺となりました。
今日の本證寺の寺観は、江戸時代を通じて順次整えられています。現存する建物のうち最も古く再建されたのは本堂で、以後、鐘楼しょうろう、裏門、鼓楼ころう経蔵きょうぞう庫裡くりの順となります。そして、江戸時代後期には、かつての外堀の位置が掘削され、再整備が行われました。
また、大名家と関係を持っていたことも特徴です。近江国おうみのくに水口藩みなくちはん(現滋賀県甲賀市こうかし)の加藤家は、本證寺の檀家だんかであったことから、宝暦ほうれき11年(1761)に藩主はんしゅ加藤明煕かとうあきひろ本尊ほんぞんを納める宮殿くうでんを寄進しています。
明治時代になると、本末制度は廃止されますが、今日まで多くの寺宝を伝え、堀や土塁、建造物群が残されています。

安城市教育委員会

引用元:本證寺案内看板『国指定史跡 本證寺境内』

また、上記看板の右下には『本證寺境内堀復元図』が掲載されており、この本證寺が2重の堀と土塁を巡らせた「城郭」と呼ぶに相応しい寺であったことが分かります。

本證寺・案内看板『国指定史跡本證寺境内』境内掘復元図

ちなみに、本證寺では2018年4月29日に城郭考古学の第一人者である奈良大学教授・千田嘉博先生が「城郭としての本證寺」をテーマにご講演されました

上の『本證寺境内堀復元図』をご覧いただいても分かる通り、もうこれは寺というより平城という方がしっくりくる感じですよね。

本多正信が通っていた寺・本證寺

本多正信は若い頃、本證寺に通っていました。

本證寺第十代・空誓(蓮如の曾孫)が中心となって浄土真宗の本願寺門徒に檄を飛ばし、徳川家康公に対して一向一揆を起こすと、正信は一揆方に加勢して主君・家康公と敵対してしまいます。

三河一向一揆

お寺が影響力を広げていることを由々しきことと思った家康が、「寺内」に干してあった種籾を部下に奪い取らせたのが三河一向一揆のはじまりだそうです。普通、一揆は生活に不満を持つ民衆対為政者という構図ですが、お寺と家康が戦うことになって、家臣達は、領主を取るか信仰を取るかで揺れ動きました。本多忠勝は宗旨を変えて家康につき、本證寺に足繁く通っていた本多正信は一揆方に加勢。お互いに戦略も熟知し、敵か味方もよくわからんという状態で、普通の一揆よりも多くの血が流れ、命が奪われたそうです。
戦いは和議を結びますが、半年後、簡単に反故に。そして坊主軍の退去、寺内の破却、
禁教、そして守護不入も剥奪されます。ここは「野寺」と言いますが、本当に野っ原になった。堀も埋められ土塁も削られました。
一揆のリーダーに祭り上げられた空誓上人(蓮如上人のひ孫)は、妻子を伴って足助の香嵐渓から7~8㎞離れた菅田和というところに行き、大きな洞穴に20年間隠れ住みました。それから許されて戻ってきて、一揆からちょうど100年後の1663年(寛文3年)末にはこの本堂が建ち、緒伽藍が建ち、大体300年くらいかけて元の状態に戻りました。

引用元:安城市教育委員会文化振興課[2020]『未来寺子屋4』

家康公による三河一向一揆の鎮圧後、一揆側として主君・家康公に弓を引いた正信は、家康公の元から去ります。

その後、正信は妻子を置いて(当時はまだ正信の友人だった大久保忠世が妻子の世話を焼いてくれた)、加賀国へ出奔してしまいます。

時を経て、忠世の取りなしにより家康公の元に復帰する正信ですが、その時期については確定しておらず、早ければ「姉川の戦い」頃、遅くとも「本能寺の変」の直前頃には復帰したようです。

なお、後年になると正信は忠世の後を継いだ小田原藩初代藩主・大久保忠隣を政敵として葬り去ります

詳しくは「岡本大八事件」で調べてみてください(本多と大久保という2本柱のうち、どちらを側近として残すか選ぶことを迫られる、まさに「どうする家康」という事件です)。

浄土真宗・真宗大谷派 雲龍山本證寺

小川的場丘城跡から本證寺までの道のり

本證寺の付近には本多正信ゆかりの地である小川的場丘城跡(本城公園)がありますので、今回はそちらから本證寺へ向かいました。

小川的場丘城跡から本證寺への道

途中、大久根の辺りでは広大な田んぼのど真ん中を貫く道路があり、とても気持ちいい散歩になりました。

小川的場丘城跡から徒歩約17分で、本證寺付近に到着しました。

本證寺への道(山門の北側)

本證寺の大門付近には、境内のハスに関する案内看板が設置されています。

案内看板『本證寺のハス』

歴史の散歩道 本證寺のハス

本證寺の内堀に咲くハスは、明治32年(1899)の「三河三ヵ寺野寺本證寺全図」に描かれていることから、少なくともこの頃には、本證寺を象徴する景観として認識されていたようです。
毎年7~8月には、山門に向って右側には白い花、左側には赤い花を咲かせていました。ところが、平成6年(1994)を最後に、ハスは突如消滅してしまいます。
平成22年(2010)になり、かつての本證寺の景観を取戻そうと、地元の有志によって「本證寺ハスの会」が結成されます。それまでの調査によって、内堀にはミシシッピアカミミガメ(ミドリガメ)、アメリカザリガニ、カムルチー(雷魚)などの外来生物が多数生息していることが判明していました。そこで会は、ハスの植栽を行うとともに、ハスの育成を妨げていると考えられた外来生物の駆除を進めました。何度かの試行錯誤を重ねた結果、平成25年(2013)には、山門の両側のハスの再生に成功したのです。しかし、外来生物が内堀から完全にいなくなったわけではありません。
現在、会ではハスの育成や外来生物の駆除を継続しているとともに、広く子どもたちに自然環境の大切さを伝える活動を行っています。

安城市教育委員会

引用元:本證寺大門付近の案内看板『歴史の散歩道 本證寺のハス』

ミドリガメやアメリカザリガニなどの外来生物を、かつて誰かが内堀に捨てたということでしょうか。

案内看板の向かいには、本證寺の鼓楼と大門が見えます。

本證寺・鼓楼と大門

上の写真から分かる通り、本證寺の境内と道路との間には内堀があり、内堀には多数のハスの葉が見えます。

大門・鼓楼・鐘楼

こちらが、本證寺の山門である大門です。

本證寺・大門(概観)

本證寺の標石には親鸞聖人と蓮如上人の名が刻まれていますが、本證寺の開基・慶円は親鸞聖人の門弟です。

親鸞聖人を本證寺の庵室に招いた際、雨漏りしたにもかかわらず親鸞聖人の周囲だけ雨漏りしなかったという言い伝えが遺されているそうです。

ちなみに、慶円は鎌倉幕府御家人・小山朝政の二男であり、朝政ゆかりの地である下野国小山は、後に家康公や正信らが「関ヶ原の戦い」直前に開いた軍議「小山評定」の舞台となりました

何とも数奇な縁ですね。

また、蓮如上人については本證寺7代住職・空円が蓮如に帰依し、三河本願寺派の中心となったことに由来するのでしょう。

本證寺・標石

大門に向って右側の角に鼓楼が、左側の角に鐘楼があります。

本證寺・大門と鼓楼と鐘楼

こちらが、本證寺の鼓楼です。

解体修理時に確認された部材から、宝暦10年(1760年)に建立されたと判断されました。

鼓楼は浄土真宗特有の建物だそうで、一定程度の寺格のお寺にしかないそうです。

手前の内堀は、ハスの会の方々のご尽力により復活したハスで埋め尽くされています。

本證寺・鼓楼(大門前から撮影)

国指定史跡 本證寺境内ほんしょうじけいだい 平成27年3月10日指定

鼓楼(安城市指定文化財)
宝暦10年(1760)の建立です。真宗寺院特有の建築で、上層にある太鼓で時を知らせていました。屋根の鯱瓦や黒と白の外観、石積み上に建つ姿は城郭の隅櫓を思わせます。

安城市教育委員会

引用元:本證寺案内看板『国指定史跡 本證寺境内』から一部抜粋

鼓楼の反対側には鐘楼があります。

本證寺・鐘楼(大門前から撮影)

こちらが、本證寺の鐘楼です。

本證寺の鐘楼は元禄16年(1703年)に建てられました

本證寺・鐘楼

国指定史跡 本證寺境内ほんしょうじけいだい 平成27年3月10日指定

鐘楼(安城市指定文化財)
大寺院特有の脇柱を持ち、元禄16年(1703)に建立されました。牛久保(現豊川市)の堂宮大工棟梁岡田五左衛門が関わっています。龍、獅子、麒麟、虎などの彫刻も秀逸です。

安城市教育委員会

引用元:本證寺案内看板『国指定史跡 本證寺境内』から一部抜粋

本證寺の大門は、宝永元年(1704年)に建てられました

本證寺・大門

手水舎・経蔵

本證寺境内の様子です。

大門をくぐると、手水舎と駐車場があります。

正面に本堂があり、左手には鐘楼と経蔵があります。

本證寺・境内の様子

こちらが、本證寺の手水舎です。

本證寺・手水舎

こちらが、本證寺の経蔵です。

本證寺・経蔵

国指定史跡 本證寺境内ほんしょうじけいだい 平成27年3月10日指定

経蔵(安城市指定文化財)
経蔵は寺宝である経典を収納する蔵で、文政6年(1823)に建立されました。腰壁には、耐火性に優れ、土蔵などに見られる海鼠壁が用いられています。

安城市教育委員会

引用元:本證寺案内看板『国指定史跡 本證寺境内』から一部抜粋

内堀

本證寺の内堀は大門から鐘楼脇で曲がり、経蔵の裏を通って本堂の脇側につながっています。

本堂脇の内堀にもハスがたくさん生えています(そして謎の鶴の置物が2羽)。

本證寺・本堂横の内堀とハス

そして、本堂脇にはもう1つ内堀があり、こちらは本堂裏手に回るようにあります。

本證寺・本堂横に現存する内堀

こちらは、本證寺・本堂の裏手側です。

本證寺・本堂裏の様子

本堂

こちらが、本證寺の本堂です。

本證寺・本堂

本證寺の本堂は、遅くとも寛文3年(1663年)には建てられていたそうです。

本證寺・本堂(正面)

さすがは三河国を代表する「三河三ヵ寺」の1つだけあり、立派な本堂です。

本證寺・本堂(斜め前から)

国指定史跡 本證寺境内ほんしょうじけいだい 平成27年3月10日指定

本堂(愛知県指定文化財)
一揆から100年後の寛文3年(1663)に再建されました。地方の真宗寺院本堂としては比較的大型になります。欄干の擬宝珠には、寄進者の名が刻まれています。

安城市教育委員会

引用元:本證寺案内看板『国指定史跡 本證寺境内』から一部抜粋

本證寺・本堂(近景)

本證寺・本堂の賽銭箱です。

本證寺・本堂の賽銭箱

本證寺には本堂含めて、確認できる範囲には扁額がありませんでした。

本證寺・本堂には扁額がない

本堂の屋根には、1対の像が乗っています。

本證寺・本堂の瓦屋根

向って右側の像は口を開いています。

本證寺・本堂屋根のしゃちほこ?2

左側の像は口を閉じています。

本證寺・本堂屋根のしゃちほこ?

これは狛犬でしょうか?

国指定史跡の標石と案内看板

本證寺の本堂に向って右手側には、国指定史跡の記念碑と、史跡としての本證寺を紹介する案内看板があります。

本證寺・案内看板『国指定史跡本證寺境内』から庫裏への石橋

国指定史跡としての本證寺を案内する看板につきましては、本記事の冒頭をご覧ください。

本證寺・国指定史跡の案内看板と標石

案内看板の横には、国指定史跡としての本證寺の標石があります。

本證寺・国指定史跡の標石

庫裏・裏門

国指定史跡の標石の左手側から回り込むように奥へ進むと、本證寺の庫裏と裏門に行けます。

本證寺・本堂から庫裏への道

本證寺の本堂と庫裏は廊下でつながっているようです。

本證寺・本堂と庫裏を繋ぐ廊下

国指定史跡の標石の正面奥には内堀に架かる石橋がありますが、この石橋は通行できません。

本證寺・本堂から庫裏への石橋

本證寺の庫裏と裏門です。

本證寺・庫裏前の様子

こちらが、本證寺の庫裏です。

本證寺・庫裏

国指定史跡 本證寺境内ほんしょうじけいだい 平成27年3月10日指定

庫裡(安城市指定文化財)
文政13年(1830)に、一部を他から移築して再建されました。大寺院にふさわし規模と質を備え、特に表土間と広間の吹き抜け空間からは、本證寺の風格が感じられます。

安城市教育委員会

引用元:本證寺案内看板『国指定史跡 本證寺境内』から一部抜粋

詳細は分かりませんが、庫裏の近くには建物がもう1つあります。

本證寺・庫裏脇の建物

こちらが、本證寺の裏門です。

本證寺の裏門が建立された年代は不明ですが、その建築様式から1700年前後のものだろうと考えられているそうです。

本證寺・庫裏前の裏門

国指定史跡 本證寺境内ほんしょうじけいだい 平成27年3月10日指定

裏門(安城市指定文化財)
裏門は薬医門という形式で、18世紀前半に建立されました。簡素ですが雄偉で力強く、風格が備わっています。

安城市教育委員会

引用元:本證寺案内看板『国指定史跡 本證寺境内』から一部抜粋

裏門の付近では、少し分かりづらいですが内堀と土塁の跡も確認できます。

本證寺・裏門付近の内堀跡か?

外堀跡

本證寺の北側では、かつての外堀の跡と思われる遺構を見ることができます。

本證寺の北東側(かつての外堀跡)

下の写真ですが、道路が橋状になっており、その下を外堀の底と思われる痕跡が横切っています。

本證寺・現存する外堀跡(大門北側)

道路と民家に囲まれた僅かな痕跡ではありますが、本證寺を訪れる際はぜひ確認してみてください。

おまけ:最寄駅・南桜井駅

今回、付近にある小川的場丘城跡から向かいましたが、本證寺の本来の最寄駅は名鉄西尾線・南桜井駅です。

名鉄西尾線・南桜井駅の駅標

レトロな赤い車体が可愛い名鉄西尾線です。

名鉄西尾線・南桜井駅にて

南桜井駅の駅前は畑や工場などが占めており、人通りもかなり少ない印象でした。

名鉄西尾線・南桜井駅概観

駅前のバスロータリーは比較的新しく整備されたもののようで、結構綺麗です。

名鉄西尾線・南桜井駅前の様子

その一角には『安城歴史の散歩道』という看板があり「三河一向一揆の舞台 本證寺を歩く」と題して付近の史跡等を案内しています。

名鉄西尾線・南桜井駅案内看板『安城歴史の散歩道』

名鉄西尾線・南桜井駅案内看板『安城歴史の散歩道』本證寺

南桜井駅からは、下の写真のような景色の中を約15分ほど歩くと、本證寺の裏手側に着きます。

名鉄西尾線・南桜井駅から本證寺への道

本多正信の墓?

本證寺の中庭には、本多正信の墓があるそうです。

本多正信の墓

中庭には、本多正信のお墓があります。お骨は浅草の徳本寺にありますが、私達
の尊敬をこめてお礼としてここに残したと聞いています。
横に立っている木はタラヨウという木。葉っぱに傷をつけると字が浮かび上がる。
紙の代わりにお経を書いたということで、「お経の木」とも言われています。

引用元:安城市教育委員会文化振興課[2020]『未来寺子屋4』

今回訪れた際には拝見することはできませんでしたが、数少ない正信ゆかりの痕跡かもしれません。

関連情報

アクセス・案内情報

名称:本證寺
住所:愛知県安城市野寺町野寺26
電話:0566-99-0221
交通:名鉄西尾線「南桜井駅」下車徒歩約15分
参考:本證寺 - ホーム | Facebook

参考Webサイト等

安城市/本證寺境内、国指定史跡へ

本證寺|安城市野寺町|愛知県|徳川家康ゆかり

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