令和5年1月8日、ついに大河ドラマ『どうする家康』が放送開始となりました。
当ブログでも可能な限り、各回の感想や徳川家康公ファンとして気になったポイントを書いていきたいと思います。
※ネタバレ全開で行きますので、ご注意ください。
第1回「どうする桶狭間」あらすじ
第1回 どうする桶狭間
2023年1月8日(日)群雄割拠する戦国時代。尊敬する今川義元(野村萬斎)のもとで、人質ながらも充実した生活を送っていた松平元康、のちの徳川家康(松本潤)は、心優しい姫・瀬名(有村架純)と結婚。このまま幸せな日々が続くと信じていた。そんなある日、織田信長(岡田准一)が領地に攻め込み、元康は前線基地の大高城に米を届ける危険な任務を命じられる。何とか使命を果たしたものの、戦場の真ん中でまさかの知らせが!どうする元康!?
まず導入部では、語り部役の女優・寺島しのぶさんによるナレーションからスタートしました。
ナレーション後は「桶狭間の戦い」直前の大高城にて、松重豊さん演じる家康公前半の参謀役・石川数正が失踪した徳川家康公を捜索したり、土砂降りの大高城から脱走する家康公が映ります。
オープニングを挟んで、物語は弘治2年(1556年)の駿府から始まります。
今川義元の下で人質生活を送っている家康公の日常が描かれます。
義元の嫡男・今川氏真との手合わせや、有村架純さん演じる家康公正室・瀬名姫との出会いや交流など。
根拠地・三河国岡崎へ「墓参り」として訪れる家康公ですが、駿府と比べてあまりのド田舎ぶりに唖然とします。
岡崎滞在中には、酒井忠次を始めとした初期の家康公有力家臣らが次々と登場していきます。
岡崎城に到着すると、家康公らは今川家が置いた岡崎城代・山田新右衛門(山田元益)に拝謁します。
拝謁後、粗末な屋敷で三河武士の家臣らによるもてなしを受ける家康公ですが、出された汁物に顔をしかめます。
周囲の三河武士らは壷から八丁味噌を直食いしていたり、歯が抜けて何を言っているのか分からない鳥居忠吉に困惑したり、個性的な三河武士たちが描かれます。
「海老すくい」の踊りなど「これの何が面白いのじゃ……」とボヤく家康公。
しかし、数正から「何とみすぼらしき者たち、何と貧しき膳……そうお思いでしょう。されど田畑の実りのほとんどを今川家に献上している三河衆にとって、あれが精一杯のもてなしなのでござる。私は涙が出る。殿、お忘れあるな。あの者たちこそが殿の家臣であり、今は今川の城代が居座るあの城こそが、殿の城なのです。いつか必ずあの者たちと共に、三河一国を束ねるべく立ち上がる時が参ります。その日にお備え下され」と諭されます。
その後、駿府に戻った家康公は瀬名姫との逢瀬の最中、瀬名姫の母らが瀬名姫を連れ戻しにきます。
瀬名姫を側室にしたい氏真に、義元は勝った者に瀬名姫を使わすとして家康公と手合わせをさせますが、家康公の勝利を見て今まで手加減をしてわざと負けていたことを見抜き、それは相手への侮辱だとして二度とするなと叱ります。
その後、家康公と瀬名姫は祝言をあげ(結婚)、さらには第一子の男子・松平信康が生まれます。
そして永禄3年(1560年)、尾張国・織田信長が今川方の大高城を猛攻撃している場面から、かの「桶狭間の戦い」が描かれます。
家康公は自身の役目を大高城へ兵糧米を運び込むだけと瀬名姫に語りますが、実際には大高城を包囲している織田方の丸根砦を突破しなければなりません。
出陣前の家康公らを義元が訪れ、陣中見舞いとしてかの有名な『金陀美具足』(正式名称『金陀美塗黒糸威二枚胴具足』)を「息子よ、受け取るがよい」と言って家康公に与えます。
この場面で家康公と義元の問答があり、家康公が「武をもって治めるは覇道、徳をもって治めるのが王道」と答えます。
信長は覇道、義元は王道を往く者だという訳です。
そしていよいよ、家康公ら松平勢は織田方の丸根砦突破を開始します。
織田方との戦闘を経て何とか丸根砦の突破に成功し、家康公は大高城に兵糧米を届けることに成功しました。
その後、雨が降り始め、周囲の様子を探るために出した物見が帰還しますが、その口から義元の討ち死にを知らされる家康公ら一行。
そこで家臣らが混乱する最中、家康公は義元討ち死にのショックと織田方が迫る恐怖のあまり、何と失踪してしまいます。
そこで、冒頭の家康公逃走シーンにつながるという訳です。
大高城から脱走した家康公ですが、浜辺に辿り着くと追ってきた本多忠勝に襲撃され、忠勝から主君だと認めないと言われ意気消沈した家康公は、大高城に連れ戻されてしまいます。
そこに、岡田准一さん演じる織田信長が、2000の兵を引き連れて接近しているとの報告が入ります。
かつて、織田信長にぶん投げられた時の記憶が蘇り、怯える家康公。
阿部寛さん演じる武田信玄が義元討ち死にの報を聞き、吉兆だと不敵に笑います。
最後は、大高城に迫りながら「待ってろよ竹千代。俺の白兎」と呟く信長でした。
第1回「どうする桶狭間」感想
オープニングは朝ドラのような、柔和かつポップな感じの印象でした。
オープニング明けのナレーションは所謂「武家言葉」の語り口で、平成12年(2000年)放送の大河ドラマ『葵 徳川三代』を彷彿とさせてくれました。
今川義元の下で人質生活を送っている家康公ですが、人形遊びに興じているなど、晩年のイメージとは随分と違う人物像を打ち出してきました。
家康公と義元の嫡男・今川氏真の関係ですが、晩年、家康公は品川に義元の菩提寺として泉岳寺を建立しますが、氏真が泉岳寺を訪れて家康公と面会するなど、何だかんだこの二人の仲は長く続いていきます。
家康公にとって駿府での人質生活は、必ずしも冷遇や抑圧の多いものではなかったことが伝わってきます。
三河国岡崎へ墓参りに向かう際の場面では、石川数正の手回しの良さがさりげなく表現されていましたね。
岡崎に到着した家康公がそのあまりのド田舎ぶりに唖然としますが、当時の駿府は京都に次ぐ一大文化拠点として栄えていましたので、そんな駿府と比較したら岡崎をド田舎に感じるのも無理はありません。
しかし、この場面があるからこそ、この後に三河武士の家臣らからもてなしの席を設けてもらった際に、数正が家康公に諭した「これがこの者たちの精一杯のもてなしなのです」「この者たちが本当の家臣なのです」という言葉が胸に響きます。
酒井忠次が家康公を源頼朝に例えて持ち上げる台詞が出てきましたが、これは単に頼朝が当時既に伝説的な武家の棟梁として認識されていたというだけでなく、家康公が頼朝を尊敬していたことにも掛けているのかもしれません。
今川家が置いた岡崎城代・山田新右衛門(山田元益)に家康公が拝謁する場面ですが、ここで当時の家康公や松平家と、今川家や岡崎城代との力関係が端的に描かれています。
この当時の家康公は、先祖代々の自分の城に帰ってきたのに、その城の主人面をしている岡崎城代に頭を下げなければならないという立場な訳です。
その後の三河武士団による宴会シーンですが、ここで特に注目したいのは本多忠真と夏目広次(夏目吉信)の両名です。
家康公が武田信玄に惨敗する「三方ヶ原の戦い」において、家康公を浜松城まで逃がすため忠真と広次は決死の奉公を見せます。
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宴会の最中、三河武士らの輪から離れた家康公に数正が諭す場面がありますが、この数正の言葉の重みを理解できるようになるのは、まだ先のことなのでしょう。
そしてやがては「人の上に立つものは、心に一匹の鬼を飼わねばならん」(『葵徳川三代』の名台詞)とか言うようになるんだろうなぁ……と思うと、人の一生は遥か遠い道を行くようですな。
瀬名姫を賭けて家康公と氏真が手合わせする場面、義元の口から瀬名姫の出自が「関口氏純の姫」と語られます。
出自には諸説ある瀬名姫ですので、この場面で『どうする家康』では「関口氏純の娘」説を採用したということが分かります。
この後、一気に家康公と瀬名姫の結婚や、第一子の松平信康を設けますが、瀬名姫と信康を待ち受けている悲劇を思うと、この辺りの一家ほのぼのシーンは見ていて切ないですね。
出陣前の義元の舞、さすが狂言師の野村萬斎さんという見応えある舞でした。
そして丸根砦の突破シーンですが、CGが多用されています。
若干薄っぺらい感じの印象もありますが、これらCGのおかげで地形や雰囲気が伝わってきますので、個人的には一長一短かなという感じです。
大高城主・鵜殿長照は後に、独立後の家康公によって討ち滅ぼされます。
その際、長照の子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟は松平方に捕らえられ、鵜殿兄弟と人質交換する形で、駿府にて幽閉されていた瀬名姫・松平信康母子はようやく岡崎へ移り家康公と再開できました。
大高城の時点では、そのような数奇な運命を辿るとは誰も想像していなかっただろうなぁ……
さて、大高城に留まっていた家康公一行ですが、義元討ち死にの報を受けると、家臣らがあれこれとバラバラな意見を主張し始めます。
この辺り、司馬遼太郎先生の『覇王の家』で描かれていた、家臣らに自由闊達な議論をさせて自分はそれをウンウン頷いて聴きつつ、肝心の結論は自分で意思決定するという家康公と徳川家臣団の様子を思い出しました。
浜辺での家康公vs本多忠勝の格闘戦ですが、家康公を演じる松本潤さんの気迫を感じられる泥臭いシーンです。
大高城に接近する織田信長、槍に義元の兜を生首ごと括り付けて携えている姿が「ヤバい奴」感を出していますね笑
信長が迫っていると聞いて怯える家康公に家臣一同が「どうする!?」と決断を迫る場面は、所謂作品タイトルの回収といった感じの場面でした。
阿部寛さん演じる武田信玄が登場しましたが、山の中腹から遠くの富士山を見ている“阿部信玄”の姿が仙人にしか見えません笑
この“阿部信玄”は絶対に妖術か何かを使えますね。
そして“岡田信長”による「俺の白兎」発言で第1回が終了する訳ですが、何なんだこれは笑
岡田准一さんといえば、大河ドラマ『軍師官兵衛』では主人公の黒田官兵衛(黒田如水)を演じ、映画『関ヶ原』では主人公の石田三成を演じ、他にも複数の時代劇に出演されていますので安心感があると思っていましたが……まさかの「俺の白兎」発言ですよ。
「俺の白兎」という一言で全てを持っていかれました笑
さて『どうする家康』第1回を観た所、松本潤さんの演じる家康公は大変ナイーブな人物像として描かれていて、この当時の家康公としてはこんな感じの人だったのかも感がきちんと出ているような印象です。
イケメンすぎる“松本家康”ですが、大河ドラマは通常、主人公の生涯を描き切りますので、後年の「狸オヤジ」的家康公をどう演じるのか、あるいは違う人物像を打ち出すのか、先が楽しみな作品だと思いました。
家康公の役というのは、特に“津川家康”という大きすぎる存在がありますので、どうしても後年の家康公は比べてしまう宿命にあると思います(注:個人の感想です)。
さて、松本潤さんの演技に期待しましょう!
第1回「どうする桶狭間」家康公ファン的注目ポイント
家康公ファンの一人として、気になったポイントを挙げてみます。
導入部
寺島しのぶさんのナレーションでは、家康公を「大御所」「東照大権現」と呼んでいることから、家康公が亡くなられた後の江戸時代から、回顧している視点の語りだと思いました。
また、家康公を「神の君」と表現していましたが、これも「神の君=神君」ですので、江戸時代に家康公を呼ぶ際に使われていた呼び方の1つだと言えます。
今川義元の名参謀・太原雪斎が登場しない
駿府での人質時代、家康公は仏僧でもある今川義元の参謀・太原雪斎から学問の手習いを受けていました。
しかし、今回の『どうする家康』に雪斎の登場シーンはありませんでした。
雪斎が亡くなったのは弘治元年(1555年)ですが、本作の開始時点で弘治2年(1556年)ですので、既に雪斎は亡くなった後ということになります。
没後ならば仕方ありませんね。
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なぜ鳥居忠吉の忠義溢れる話を描かなかったのか?
『どうする家康』劇中では、歯が抜けて何を言っているか聞き取れないお爺さんという描かれ方をしていた鳥居忠吉ですが、なぜ忠吉の忠義溢れる話を描かなかったのでしょうか。
というのも、忠吉は岡崎に帰郷した家康公を自宅の蔵に連れて行くのですが、何とそこには金銀や兵糧米が貯えてありました。
当時の岡崎は今川家に抑えられており、松平家家臣らの俸禄(収入)は少なく、苦しい生活を余儀なくされていました。
にもかかわらず忠吉は、生活を切り詰め、質素倹約して金銀や米を少しずつ貯めたのです。
「私が長年今川の人々に内緒でこのようなことをしましたのは、君がすぐにでもご帰国なされてご出馬される時、御家人を育み、軍用にも事欠かないようにするため、このように備えていました。私は、80歳という残り少ない余命ながら、朝夕に神仏へ祈ったかいがあって、今このように生前に再び君の尊厳を拝し申し上げることは、生涯これ以上の大きな幸せはございません」と、老眼に涙を浮かべて申し上げました。家康も忠吉の長年の忠義心と資材まで用意していたことに感動し、色々と厚く忠吉を労いました。
全ては、主君である家康公がいつの日か今川家から独立して、岡崎から三河を治める時のために——
なぜ『どうする家康』では、忠吉のこの忠義の姿が描かれなかったのでしょうか?
後年、慶長5年(1600年)に家康公は「関ヶ原の戦い」で勝利しますが、忠吉の嫡男として鳥居家を継いでいた鳥居元忠は「関ヶ原の戦い」の直前に、伏見城で壮絶な最期を遂げて三河武士の忠義を広く世に知らしめます。
元忠らの血が飛び散った伏見城の畳は、後に家康公が江戸城の伏見櫓の階上に置いて、その忠義を諸大名らに偲ばせました。
こうした親子二代に渡る忠義を見せた鳥居家ですが、忠吉の忠義が描かれなかったのは個人的に残念でなりません。
家康公と遊ぶ瀬名姫を探しにきた女性たち
瀬名姫を連れ戻しにきた女性たちの中に「お田鶴」さんがいました。
「あそこでございます」と言って瀬名姫の母・巴御前らを連れてきた女性です。
このお田鶴の方ですが、何と後に女性ながら家康公と一戦交えて討ち死にします。
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家康公に対する今川義元の扱い
今川義元は家康公に対して、相当な厚遇をしていることが『どうする家康』劇中で表現されていました。
例えば、瀬名姫は関口氏純の娘ですが、家康公が今川一門の関口家から姫を娶るということは、松平家も今川一門の仲間入りを果たした(松平家の地位が上がった)ということを意味します。
また、義元が陣中見舞いとしてかの有名な『金陀美具足』を「息子よ、受け取るがよい」と言って家康公に送る辺り、義元自ら相当高額な品をプレゼントしつつ息子呼びする訳ですから、かなりの厚遇ぶりだったということが垣間見えます。
丸根砦の強行突破時に火縄銃を発砲する織田方の伏兵たち
家康公らによる丸根砦の強行突破時、織田方の伏兵が徳川方の兵に火縄銃を発砲する場面があります。
この「桶狭間の戦い」が行われた永禄3年(1560年)より6年前の天文23年(1554年)、織田信長は鉄砲隊を用いて今川方の村木砦を襲撃、これを陥落させています(村木砦の戦い)。
さらに「桶狭間の戦い」では、呑気に宴会をしていた義元を崖上から信長らが急襲したという従来の定説ではなく、山の斜面に陣取り地理的優位を確保していた義元に対して、信長は当時の一般的な槍よりも長い槍を用意して鉄砲隊と組み合わせて真正面から攻撃を仕掛け、今川勢を撃破したとする説もあります。
『どうする家康』では「桶狭間の戦い」本戦の様子が映像化されませんでしたので分かりませんが、はたして本作での信長はどうやって義元の首を取ったのでしょうか?
雨が降り始めた直後の櫓にて、かすかに鉄砲の音が聞こえたという会話がありますので、もしかしたらカメラの外では鉄砲隊と槍隊の連携で今川勢を撃破する信長という設定なのかもしれませんね。
しかし、物見の兵は「不意打ちを受け」と家康公に報告しているし、鳥居忠吉は「桶狭間にてご休息の折」と家康公に報告しているので、やはり従来の定説なのでしょうか?
さて一体どのような合戦が行われたのか……気になります。
織田信長に怯える家康公の回想シーン
織田信長に「食ってやろうか」と言われたり、ぶん投げられたりする家康公が描かれた回想シーン。
これは家康公が人質として今川家に送られる際、当初は信長の父・織田信秀の元に送られ人質生活を送った時の場面でしょう。
ですが家康公が織田家に送られた理由については諸説あり、かつて大河ドラマ『麒麟がくる』では従来通り「織田信秀に攻められた松平広忠(家康公の父)が、今川義元に助けてもらうために竹千代を人質として差し出すものの、義元の駿府に行く途中で織田方に捕まって尾張に連れて行かれた」説ではなくて、最新の説「織田信秀に岡崎城を攻め落とされたので降伏の証として松平広忠が竹千代を人質といて織田方に差し出した」説を採用していました。
『どうする家康』ではどの説により、家康公が織田家に送られたのか気になります。
『どうする家康ツアーズ』第1回
大河ドラマの名物でもある本編終了後の「紀行」ですが、本作『どうする家康』では石川数正役・松重豊さんのナレーションで史跡や品物などを紹介すると共に、家康公役・松本潤さんが久能山東照宮を訪れるという構成でした。
松本潤さんがゆかりの地を訪れるのは第1回だけかもしれませんが、この『どうする家康ツアーズ』からも目が離せません。
【紹介された史跡・ゆかりの地・品物など】
久能山東照宮
- 金陀美具足
- 家康の金時計
- 家康が愛用した鉛筆
- 神廟
静岡浅間神社