今回は、稲毛惣社白幡八幡大神(しらはたはちまんだいじん)を訪れました。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、二代将軍・徳川秀忠が「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」の折に戦勝祈願のために「禰宜舞(ねぎまい)」を舞わせた神社との事です。
この「禰宜舞」は一子相伝にて代々受け継がれ、今日でも毎年7月と9月に披露されています。
今日を生きる私たちが、400年前に家康公や秀忠が祈願した舞を観ることができる――歴史ロマンあふれる魅力を感じます。
そんな白幡八幡大神は、神奈川県川崎市宮前区平4-6-1にあります。
それでは、さっそくご紹介いたします。
家康公や秀忠が戦勝祈願した「禰宜舞(ねぎまい)」とは?
白幡八幡大神のWebページでは、以下の通り「禰宜舞」について紹介されています。
禰宜舞について
神事日 7月第3日曜日・9月第3日曜日
川崎市文化財・川崎市 市重要習俗技芸指定新編武蔵風土記稿の神主小泉家について記された中に「村内の八幡・神明・五所稲荷などの神職を兼務む…。近村神主少なきゆえ何れの村に祭りある毎に、必ず信濃に託して今の俗に用ゆる所の十二座及び五座等の神楽を行えり」とあって、この五座の舞が禰宜舞です。
舞の起源ははっきりしませんが、慶長五年(1600)徳川家康関ヶ原御出陣の祭戦勝御祈願の為、平村白幡八幡社の神主小泉に太々神楽を興行させたのが始まりと言われ、今日に伝わっています。江戸初期には正月3日、江戸城に上り将軍の前で舞ったと言われています。
現在では各神社の夏祭・例大祭に氏子皆様の家内安全を願い奉納されています。
舞は素面による四方祓の舞の後、面と衣裳を取替えて五座の神々の舞を行います。
この禰宜舞は一子相伝にて伝えられ、舞われています。
つまり、慶長五年(1600年)に行われた関ヶ原の戦いの折に、徳川家康公がご出陣に際して戦勝祈願のために舞わせた神楽舞が、この「禰宜舞」だそうです。
また、白幡八幡大神の境内にはこのような案内看板が設置されています。
「禰宜舞」は「口伝による一子相伝の舞」として、今日まで語り継がれています。
稲毛惣社白幡八幡大神
『新編武蔵風土記稿』によると、以下の通り書かれています。
平村
八幡宮村の中央にあり、源榮山白旗八幡と號す、神供免三石餘なり社傳に云鎌倉の右大將源賴朝奥州の泰衡を征伐の時、此度の軍利あらば鎌倉より奥州までの海道の中、十里毎に八幡一祠を建立せんと誓言ありしが、果して勝利なりしかば建久三年に至りて、つひに誓の如く鎌倉より奥州までの間に數ケ所の八幡を勸請せらる、當社は其一なりと、此事【東鑑】等にはさらになき事なり、鎌倉の古海道は今隣村土橋村の内に其跡遺れり、神體は應神天皇の一坐にて二尺許の木像なり、村の總鎭守にして例祭は二月初の卯の日と定め、社前に於て射術の式あり、尤其形ばかりなり、本社は一間四方許の宮作りにして覆屋あり、拜殿は二間四方、稻毛總社八幡宮の七字を扁す、前に石階ありて其下に鳥居たてり、神主小泉信濃が事は村内熊野權現の神職を兼てしかも、權現の傍に居る故其所に事實を出せり、天正十九年東照宮の命ありて御武運長久の御祈禱をなせしにより、當社へ神供免七十石餘の御朱印を賜はれり、慶長五年台德院殿關ケ原御出陣の時釣命によりて御祈禱のため太々神樂を興行せり、御凱旋の後神器等御寄附あり、同き十九年大坂御出陣御首塗の時、先年の御吉例を以、御祈禱を命ぜらる、御凱旋の後も神主伊豫を召出されて銀子若干を賜はる、後いつの頃にか社地囘祿の時御朱印鳥有となりしかば、是まで賜はりし七十石の地は收公せられ、又其後願ひ上て三石免の地を除せられしより、今に至るまで先規の如く御祈禱怠らず、
引用元:蘆田伊人[1981]『大日本地誌大系9 新編武蔵風土記稿第3巻』(雄山閣)P.162「新編武蔵風土記稿巻之六十二 橘樹郡之五 八幡宮」
※「數」は「数」の旧字体。
『新編武蔵風土記稿』によると、源頼朝が奥州の藤原泰衡討伐時に、戦に勝ったら鎌倉から奥州までの街道に10里ごとに八幡を1祠建立すると誓いを立てて戦い、見事勝利したので、建久3年(1192年)誓いの通り鎌倉から奥州までの数カ所に八幡宮を勧請したとのことです。
その時に勧請された1社目が、この白旗八幡大神だそうです。
※ただし、白旗八幡大神の公式Webページによると「源頼義が奥羽二国の征討将軍として遠征の途についたのが康平元年(1058)平安時代の中頃でした。(中略)誓いをたてて、当神社の地が丁度第一次の里程になっていましたので山上高く幣帛を捧げて祈願を込めました。この誠心が神に通じ無事使命を果たして帰る事が出来ましたので康平4年(1061)に当神社を奏祠したのです」と紹介されていますので、『新編武蔵風土記稿』の記述は勧請と再建を混同しているのかもしれません。
また、天正19年(1591年)には徳川家康公の命により、武運長久の祈祷を行って70石余りの朱印地を賜りました。
次いで慶長5年(1600年)徳川秀忠が「関ヶ原の戦い」に出陣する際に、戦勝祈願として太々神楽(だいだいかぐら)を興行し、慶長19年(1614年)の「大坂の陣」出陣の際も吉例(関ヶ原での戦勝)にあやかって祈祷させたとのことです。
つまり、白旗八幡大神は「源頼朝と徳川家康公・秀忠親子」という武家を代表する偉人達を、時代を超えて結びつける縁を持つ神社といえます。
とても歴史ロマンのある縁ですね。
参道
こちらが、白幡八幡大神の参道入口です。
白幡八幡大神の参道は、入口から階段を登って進むと社殿があります。
参道入口の右手側には、社号標があります。
入口の石鳥居です。
入口の石鳥居の扁額には「八幡宮」と書かれれています。
実は、白幡八幡大神の由緒には鎌倉の鶴岡八幡宮が関係しています。
参道の階段中腹からは手水舎と境内の鳥居が見えます。
参道の階段を登り切って見下ろすと、結構な高さがあると感じます。
手水舎
参道の終盤には手水舎があります。
とても良い雰囲気のある手水舎です。
境内
境内の左手側です。
右手側です。
奥には社務所と神札所があります。
神札所では御朱印の受付はありませんでしたが、おみくじやお守りなど色々とあります。
社殿前には、おみくじがあります。
境内入口の鳥居横には、神楽殿があります。
境内には、白幡八幡大神の年間行事が記された看板があります。
夏祭りと例大祭で禰宜舞が披露されます。
社殿
こちらが、稲毛惣社白幡八幡大神の社殿です。
小規模な社殿ながら、とても美しく品のある社殿です。
境内は玉砂利でなく芝なのも珍しいですが、社殿に似合っていると思います。
とても趣があります。
社殿の両脇には一対の狛犬が置かれています。
狛犬は比較的新しいものですが、立派な造形です。
こちらが社殿の正面です。
賽銭箱のところには赤色の幣束が飾られており、その由来も案内されています。
こちらが、白旗八幡大神の扁額です。
令和2年度(2020年)の禰宜舞は中止
本来「禰宜舞」は7月の第3日曜日と、9月の第3日曜日に披露されています。
しかし、今年は新型コロナウイルスの影響により、残念ながら本年度の「禰宜舞」開催は中止だそうです。
来年こそは歴史ある舞を拝見したいと、今から楽しみにしています。
【参考】外部サイト

案内情報
- 名称:稲毛惣社白幡八幡大神
- 住所:神奈川県川崎市宮前区平4-6-1
- 電話:044-977-5639
- Webページ:http://www.shira80000.com/
- 交通:川崎市バス「白幡八幡前」バス停下車徒歩3分
川崎市バス「平」バス停下車徒歩5分