絶賛放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、登場する武士の髪型がいわゆるちょんまげ(丁髷)と月代という髪型の武将が多く見られます。
月代とは、前頭部から頭頂部にかけての範囲の頭髪を剃った髪型のことです。
また、ちょんまげ(丁髷)とは、月代で剃った残りの頭髪を結った髪型のことです。
なぜ、武士はこのような独特な髪型にしていたのでしょうか。
新型コロナウイルスによる外出自粛も続いておりますので、今回は自宅で巣篭もりしながらでもできる事をしてみようと思います。
そもそも、ちょんまげ(丁髷)や月代とは何か? いつから行われていたのか?
そもそも、ちょんまげ(丁髷)と月代とはどういう髪型なのでしょうか。
まずWikipediaによると、ちょんまげ(丁髷)については以下の説明がされております。
丁髷(ちょんまげ)とは、江戸時代の男性にみられた髪型の一種。月代(さかやき)と呼ばれる前頭部から頭頂部にかけての範囲の頭髪を剃り、残りの頭髪を結ったものをいう[1]。
[1]難波知子「明治時代の生活に学ぶ 第1回 "ちょんまげ"から"ざんぎり"へ」『国民生活(2017年12月号)』。
引用元:丁髷 - Wikipedia
次に、月代については以下の通りです。
さかやき(月代)とは、江戸時代以前の日本にみられた成人男性の髪型において、前頭部から頭頂部にかけての、頭髪を剃りあげた(抜き上げた)部分を指す。
引用元:さかやき - Wikipedia
つまり、簡単にいうと上記のイラストのような感じですね。
また、月代は平安時代末期から行われていました。
『玉葉』安元2年7月8日の条に、「自件簾中、時忠(平時忠)卿指出首、(其鬢不正、月代太見苦、面色殊損)」とあり、平安時代末期、行われていたことが分かる。
『太平記』巻5に、「片岡八郎矢田彦七あらあつやと頭巾を脱いで、側に指し置く。実に山伏ならねば、さかやきの跡隠れなし」とあり、絵巻物などと照らし合わせると、鎌倉時代、室町時代にさかやきが行われていたと分かる。当時は、兜による頭の蒸れ対策として戦の間だけ行われた習慣であり、日常に戻った時は総髪となった。
戦国時代になると、さかやきが日常においても行われるようになった。それまでは毛抜きで頭髪を抜いてさかやきを作るのが主流であったが、頭皮に炎症を起こし、兜を被る際に痛みを訴える者が多くなったため、この頃を境に毛を剃ってさかやきを作るのが主流となる。
沖縄の古謡集『おもろさうし』のうち、1609年の島津氏による琉球出兵を歌ったものでは、薩摩兵を「まへぼじ(前坊主)」と揶揄しており、さかやきを作っていた事がわかる。
江戸時代になると、一定の風俗となった。公卿を除く、一般すなわち武家、平民の間で行われ、元服の時はさかやきを剃ることが慣例となった。蟄居や閉門の処分期間中や病気で床についている間はさかやきを剃らないものとされた。外出時もさかやきでない者は、公卿、浪人、山伏、学者、医師、人相見、物乞いなどであった。さかやきの形は侠客、中間、小者は盆の窪まであり、四角のさかやきは相撲から起こり、その広いものを唐犬額といった。江戸時代末期にはさかやきは狭小になり、これを講武所風といった。また若さをアピールする一種のファッションとして、さかやきやもみあげを藍で蒼く見せるという風習も流行した。
明治の断髪令まで行われた。
引用元:さかやき - Wikipedia
このように、月代は平安時代末期から行われ始め、最初は頭髪を毛抜きで抜いて行われていたものの、戦国時代には次第に剃り落とすようになり、江戸時代には風俗として広く定着していきました。
また、ちょんまげ(丁髷)は室町時代末期以降に、露頂の風習が定着したことにより発展したようです。
男性の髪型
男性の髪型といえば、丁髷(ちょんまげ)だが、時代により結い方がずいぶん異なることに驚かされる。面白いことに、江戸時代の女性達が結った髪型の多くは、男髷(おとこまげ)の模倣から生まれたものが多いと見られる。男性の髪型には女心を捉える魅力があったのだろう。
近世の男性の結髪(ゆいがみ)は、室町末期以降広がった露頂(ろちょう)の風習が定着したことから、多様な発展を見せたと述べられている。織豊期から江戸初期にかけては、成人が月代(さかやき)を剃る武家の風習が一般庶民にも広がり、束ねた髪を元結(もとゆい)で巻いて先端を戻のように出した茶筅髷(ちゃせんまげ)と元結の先を二つ折にした髷とがみられた。元服前の男子は前髪を残して中剃りを行う若衆髷(わかしゅまげ)で、元服後に前髪を落とした。江戸時代には二つ折の髷が武家、一般庶民ともに主流となり、髪型は月代(さかやき)の大きさ、髷の太さや形、鬢(びん:顔の左右の側面の髪)の厚さ、髱(たぼ:後頭部の髪)の形などの違いによって多様化したようである。髪型の変化は流行によるところも少なくないが、それ以前に身分、年齢、職業、人柄などによって細かく異なる。また、特徴的な流行として、月代を大きく剃り細かい髷の元結部分を高く結いあげた形である「本多髷(ほんだまげ)」が知られる。(増田美子:2010 年を参照)
露頂とは、中世男子の冠や烏帽子(えぼし)をかぶらない頭部のことや、頭を露出することです。
つまり、平安時代末期ごろから月代が行われていたがそれは戦の時のみであり、次第に常時行われるようになり、江戸時代には風俗として広く社会に浸透していた訳です。
なお、厳密にはちょんまげ(丁髷)は「短い髷(まげ)」のことであり、髷の一種を指しています。
それでは、なぜ武士はちょんまげ(丁髷)に月代という髪型だったのでしょうか。
その謎を解き明かしてみたいと思います。
武士の髪型〜なぜ武士はちょんまげ(髷)に月代(さかやき)なのか?
調べてみると諸説あり、実は明確には絞り込めない事が分かりました。
今回調べた限りでは、3つの説がありました。
説その1「ちょんまげを結うのは兜の中が蒸れるから」
これが現在、最も一般的な説のようです。
日本人がちょんまげを結った現実的な理由
日本人がちょんまげを結ったのには現実的な理由がありました。
ちょんまげは、かつては武士階級が行う結い方でした。武士は戦のときに兜をかぶって戦いましたが、湿度の高い日本では、戦闘中、兜をかぶっている頭が蒸れてしまいます。その蒸れを防ぐ結い方として考えかれたのが、ちょんまげでした。引用元:時代劇でお馴染み”ちょんまげ”。なぜこのような変わった髪形文化が日本に定着してたのでしょうか? | ライフスタイル 歴史・文化 - Japaaan #歴史
なるほど確かに、金属製の兜は通気性最悪な被り物ですので、湿度の高い日本では髪があると一層蒸してしまうというのも理由として納得できそうです。
説その2「髷は冠や烏帽子の中に髪を入れるため・月代は頭に血が上るから」
この説は、なかなか有力そうな説得力があります。
國學院大学史学部の根岸茂夫教授による回答が分かりやすく掲載されておりましたので、引用いたします。
Q.侍の「ちょんまげ」の髪型を見たときに、とても驚きました。なぜあのような形をしているのですか?
A.古くは髪をまとめて冠の中に入れるために結ったものです。
男子は古代から頭に冠や烏帽子を着用するのが一般的であり、その中に髪を纏めて入れたため、髪を纏めたのが髷の原型です。古代には冠などの中に入れるため、上に立てていました。ただ中世に入り武士の世の中になると、武士たちは、合戦に際して兜をかぶるために髷を解きました。また合戦のとき、頭に血が上るといって、頭部の髪を抜きました。これが月代(さかやき)で、頭部の前面から頭頂の髪を除いたものです。月代は剃るのでなく抜いたために、戦国時代に来日した宣教師ルイス・フロイスは、合戦には武士が頭を血だらけにしていると記しています。中世後期には一般に烏帽子などをかぶらなくなり、髷を後ろに纏めて垂らし、烏帽子や冠は公家・武士・神職などが儀式に着用する程度になりました。近世には、月代が庶民にまで広がって剃るのが一般化し、髷を前にまげて頭の上に置くようになると、丁髷(ちょんまげ)と呼ばれました。丁髷は明治4年(1871)断髪令が出たのち廃れ、現在では力士などが結うだけです。
つまり、髷を結う理由は烏帽子などの被り物に髪を入れるためであり、月代にする事で頭に血が上るのを防ぐ効果があると思われていたから、という訳です。
これは大変興味深い説です。
歴史的背景や服飾の文化的背景からも理解できる、筋の通った理由だと思います。
説その3「出家儀式(得度式)の準備だった」
私の尊敬するお坊さん、曹洞宗宝林寺(千葉県市原市)住職・東北福祉大学学長の千葉公慈住職の著書に、大変興味深い説明がありました。
武士の髪型「月代」と“坊主頭”との意外な関係
(中略)蒸れ予防が目的なら、頭をつるつるに剃ったほうが合理的です。それに武士の気構えをあらわしたのは、月代ではなく髷ではないでしょうか。そう考えると、月代には何か特別の目的があったのではないかと思えてきます。
では、その目的とは何だったのか。推論を許していただければ、武士の月代というのは、じつは「出家儀式(得度式)」の準備ではなかったかと、私はにらんでいるのです。
仮に戦の途中で命を落とした場合、激しい合戦の最中では出家儀式をすることはできません。といってそのまま死ねば、殺生を繰り返した武士は間違いなく地獄行きです。
そこで武士たちは、出陣前に前頭部から頭頂部を剃って月代をつくり、どのような状況でも即席で出家ができる準備をととのえたのではないでしょうか。
「月代を剃って坊さんになる準備もととのった。もう怖いものはない」
そう自分を奮い立たせて出陣し、敗戦確実、もはやこれまでとなったときは急ぎ髷を切り落とし、お坊さんとなって死んでいった——そう考えれば、あの風変わりな髪型にも納得がいくのです。
引用元:千葉公慈[2016]『そうだったのか!お寺と仏教』(河出書房新社)P.112
同著では、武田信玄の「信玄」や上杉謙信の「謙信」など、出家して戒名を名乗っている武将の存在も紹介されております。
確かに、武士は出家する者や、寺を建てる者が多くいますが、もしかしたら仏教に救いを求めたからなのかもしれません。
例えば、鎌倉に鎌倉時代に創建された禅宗の寺が多いのも、一説によると戦で敵を殺さなければならない鎌倉武士が、仏教に自らの心の救いを求めたから流行したのだそうです。
そうだとすると、死ぬ準備を整えて戦に向かう武士の心境とは、いかほどだったのでしょうか。
平和な時代を生きる今日の日本人には、きっと想像もできないような心持だったのではないかと思います。
大河ドラマ『麒麟がくる』明智光秀たちの髪型
大河ドラマ『麒麟がくる』主人公の明智光秀や斎藤道三らは、髷を結っているものの月代にはしていません。
これは総髪という髪型で、戦国時代には総髪にしている武士もおりました。
総髪(そうはつ)は、男性の髪型である。月代(さかやき)を剃らずに、前髪を後ろに撫で付けて、髪を後ろで引き結ぶか髷を作った形を言う。髪を結ぶ位置が高いものは形が慈姑(クワイ)に似ることから「慈姑頭」とも呼ばれた。
室町時代までは男性の一般的な髪型であった。江戸時代前期からは男性の神官や学者、医師の髪型として結われ始め、江戸時代後期には武士の間でも流行した。経済的に余裕がなく、頻繁に髪の手入れができない浪人も総髪であった。現在でも見られる髪型であり、日本人男性の最も伝統的な髪型の一つである。
引用元:総髪 - Wikipedia
一方、織田信秀や織田信長らは月代に髷という髪型です。
今のところ『麒麟がくる』作中では主に、美濃勢が総髪に髷、尾張勢が月代に髷、足利将軍家やその周囲は烏帽子を身につけている事が多いようです。
ただ、明智光秀の肖像画を見ると烏帽子の下は月代になっておりますので、作中でも今後、どこかのタイミングで月代の光秀を見る事ができるかもしれませんね。
ちなみに、長い髪を後ろで結ってポニーテールのような髪型になっているものも、この総髪に分類されます。
髪結いのお値段はいくらだったのか?
人気歴史学者・磯田道史先生の著書によると、江戸時代中期の髪結いは1人あたり32文(約2,400円)で月収約8000文(約60万円)だったそうです。
また、髪結いを専門とする床屋は3代将軍・家光の頃に誕生した。多くは湯上り客を狙って、湯屋の近くに開業したが、開店費用は現代に換算して5000万円近くもした。
客の頭(月代)を剃り、髷を結いなおし、眉の手入れや耳掃除などをして相場は32文、約2400円。月収約60万円という高額所得者だった。
引用元:磯田道史[2020]『カラー版 江戸の家計簿』(宝島社)P.63
月収約60万円はすごいと思いますが、1人あたり2,400円程度なら良心的な価格だったと言えそうです。
また、開業に約5000万円もの開業資金が必要だったようですが、それでも髪結い業が成り立っていたということは、それほど利用客が多い=月代が広く人々に定着していたということでしょう。
以上、今回は武士の髪型として印象的な、ちょんまげ(丁髷)と月代についてまとめてみました。