令和5年1月22日放送の大河ドラマ『どうする家康』第3回「三河平定戦」のあらすじ紹介、感想、家康公ファン的注目ポントをまとめました。
今回は家康公が生き別れの生母・於大の方と、ついに再開します。
また、歯抜けお爺さん・鳥居忠吉の忠義に涙……必見の第3回です。
※ネタバレ全開で行きますので、ご注意ください。
【参考記事】前回の第2回放送はこちら↓
第3回「三河平定戦」あらすじ
第3回 三河平定戦
2023年1月22日(日)故郷の岡崎へ戻った松平元康(松本潤)は、打倒・信長(岡田准一)を決意するが、弱小の松平軍はまったく歯が立たない。一方、今川氏真(溝端淳平)は援軍をよこさず、本多忠勝(山田裕貴)らは、織田に寝返るべきだと言い始め、駿府に瀬名(有村架純)を残す元康は、今川を裏切れないと悩む。そんな中、伯父の水野信元(寺島進)が岡崎城にある人を連れてくる。それは16年前に生き別れた元康の母・於大(松嶋菜々子)だった。
駿府の竹やぶで家康公の無事を一人祈る妻・瀬名の元に、瀬名の母・巴が駆けつけ、家康公が無事に生き延びていて岡崎入りしたという報せを伝えるところから第3回が開始しました。
一方その頃、駿府では「桶狭間の戦い」で討ち死にした今川義元に代わり今川家の主君となった今川氏真が、家康公に「元康そなたの働き今川家中の鑑である。(中略)岡崎に留まり三河から織田勢をことごとく打ち払え。しかる後に駿府に帰参し、余を側で支えよ」と書状に記して家康公に送ります。
それを読み「氏真様の側近になるんじゃ!」と喜ぶ家康公と、引きつった顔の酒井忠次。
その会話を聞いていた石川数正が、渋い顔で「織田勢を打ち払ったら……我らだけで三河を平定せよと」と呟きます。
慌てて書状を読み直し「やらねばわしは駿府へは帰れぬ」と動揺する家康公。
場面が変わり、洞窟に鳥居忠吉が家康公や数正ら側近を連れていきます。
洞窟の奥には、何と銭や武具などが蓄えられていました。
鳥居忠吉がコツコツと蓄えたとのことで、平岩親吉から「殿がこの城(岡崎城)の主人となられた時のためにのう」と伝えられます。
数正から「どうやってこんなに?」と訊かれ、忠吉は「へへへ……勘定方はこのわしじゃ。ご城代を欺いて銭っこ貯めるぐらい何でもないわ」と答えます。
武具も揃っており「これで戦ができますぞ」と喜び、海老すくいダンスを踊り始める数正以外の三河衆たち。
「桶狭間の戦い」以降、勢いづく織田信長は今川勢(その配下の三河)への攻勢を強めます。
その最前線、三河国碧海郡・刈谷城では、家康公の生母である於大の方の兄・水野信元が、於大の方の再婚相手・久松長家(のち久松俊勝)らと博打を打ちながら「どちらに張るか、これを間違えるやつは生き残れん。あのバカのようにな」と家康公を評します。
数正から、刈谷城を攻め落とせるなら先駆けを任せるがと問われ、槍を手入れしながら「あれは城でござったか。てっきり犬小屋かと」と答える本多忠勝。
そして「その前に、殿に伺っておきたい」と切り出し、生母・於大の方の兄(水野信元)の首を取っても良いかと尋ねる忠勝。
16年前、水野信元が今川家から織田家に鞍替えする際に、信元の妹である於大の方が家康公の父・松平広忠と離縁し、まだ幼い家康公を置いて松平家から去る場面の回想が流れます。
そんな母との思い出について「幼い頃はよく着物や菓子を送ってくださった、便りを添えてな。わしを想う優しいお言葉がつづられておったわ」と懐かしむ家康公。
続けて「だが、水野信元なる男は、わしは嫌いじゃ」と言い放ちます。
そして、兵糧の握り飯を作る女子衆の場面が映り、水野攻めの準備が進んでいきます。
活線の準備が進められる最中、家康公は駿府に残してきた妻・瀬名に手紙を書きます。
お腹の子(亀姫)や長男・竹千代(のち松平信康)らの身を案じる胸中や、岡崎で氏真の命令を実行しようとしている旨を記します。
そして、やり遂げたら(織田勢を打ち払ったら)駿府に帰ると。
その手紙を読んで瀬名やその母・巴は安堵するものの、瀬名の父・関口氏純は浮かない顔をします。
その直後、産気づく瀬名。
時は進み7月、ついに松平勢による刈谷城攻めが決行されます。
本多忠勝を始めとして勇敢に戦う松平勢。
一方、刈谷城の水野信元は「分かっとらんのよ、戦っている相手は俺ではなく、俺の後ろにおるお方だと。背中に気をつけろよ、甥っ子!」と甥っ子・家康公の身を案じます。
その直後、家康公のいる本陣の裏側に織田勢が迫っているという報せが入り、慌てて撤退を命じる家康公。
松平勢の討ち死にの報せが次々と入ってきて、ついに本多忠勝も討ち死にとの報せが入ります。
しかし、追い剥ぎが忠勝から死体漁りをしようとしたところ、忠勝は目を覚まします。
家臣らの討ち死にの情報がまとめられ、報告が上がってくると怒りを滲ませる家康公。
一方、清洲城では織田信長が火縄銃で的を射撃しながら、信元に「狩りにおいて肝心な役目は何と心得る?」と問います。
信元は「獲物を追い込む役目と存じまする」と答えます。
直後、信元の顔面すぐ側に火縄銃を発砲しながら「しかと追い込め。兎を俺の目の前に」と圧をかける信長。
さらに信長はもう1発発砲し、信元は腰を抜かします。
寝所で寝ている家康公を、何と今川義元が訪ねてきます。
「やり直しじゃ、駿府へ帰ろう」と言う義元。
そして駿府の瀬名に再開して涙ながらに抱きしめる家康公。
しかし、風鈴の音で目がさめると、それが全て夢であったと悟ります。
その頃、駿府では瀬名の元を三河衆の妻たちが訪れ、亀姫のために包みやおむつを瀬名に差し入れます。
それを喜び、もうすぐ戻ってくる夫たちを綺麗な服で出迎えようと、生地の端切れがあるから屋敷に上がるよう促す瀬名。
瀬名の父・氏純は松平勢に援軍を送るよう今川氏真に頼み込みますが、氏真は「うるさい、今はそれどころではない! 元康に伝えよ、助けは必ず送る。それまでこらえよと」と返します。
それを聞き肩を落としながら帰ろうとする氏純に、氏真はさらに「そして我が元にはそなたの妻子と、家来たちがいることを忘れるな、とな」と釘を刺します。
今川方の援軍として家康公の元にやってきた吉良義昭は、さっそく馴れ馴れしく家康公を褒め称えます。
義昭の勢いに飲まれる家康公と、呆気にとられる三河衆。
大久保忠世から刈谷城攻めの作戦が披露され、支度にかかる一同。
しかし、8月に作戦を実行した結果、惨敗に終わってしまいました。
刈谷城では首桶の中身を改める場面が映ります。
「死にたくなければこちらに着け」と、信元は再び「恋文」を家康公に送ります。
そしてそれを破り捨てる家康公。
軍議にて妙案はないかと一同に問う家康公ですが、一同押し黙るばかり。
そんな最中、三河家臣団が内輪揉めの取っ組み合いをしているという報せが届き、家康公らが駆けつけます。
本多忠真がとりあえず忠勝に「腹を切れ」と怒鳴りますが、家康公は冷静に何があったかを確認します。
聞けば「今川の助けは来ん。織田につくべきじゃ」と言った者がおり、言い争いになったとのこと。
忠真が忠勝に確認すると、自身は言ってはいないが同じ思いだと答えが返ってきます。
最終的に、数正から「一同、謹慎せい」と言い渡され、争いが納められました。
「次で負ければお家は破滅でござる。今川は立ち直る気配なく、軍資金も底を尽き始めて……」と言いかけた数正に、家康公が「駿府の三河衆を見捨てろというのか!」と食ってかかります。
そこを「まあまあまあ、落ち着きなされ殿」と家康公を宥め、続いて「策がないわけではござりませぬ。武田でござる」と妙案を披露する忠次。
武田信玄と今川義元は固い絆で結ばれていたから、今川の配下である我ら(松平勢)を信玄が助けてくれるという目論見なわけです。
しかし、家康公が信玄に送った挨拶の書状を見て、信玄は開封もせずに「松平何某、礼というものを知らぬらしい。松平はたかだか岡崎の小者にすぎぬ。わしと話がしたいのなら、まずは三河の主となってからであろう。今川家臣の分際で、主君の頭を超え、わしに話しかけるか。この話、聞かなかったことにして進ぜよう。そう伝えよ」と言って書状を踏みにじります。
くしゃくしゃになって返ってきた書状を忠次から受け取りながら「格が違うということか」と忠次に尋ねる家康公。
そこに、水野信元が少数の手勢と共に家康公の元を訪ねにきているという報せが入ります。
何と、信元は直接家康公を説得しにきたのでした。
信元は家康公に「お前が俺を嫌っているのは知っている。だが、俺はバカな甥っ子が可愛い。死なせたくねえ」と言います。
そして信長に頭を下げろと提案します。
震える手で白湯を飲む家康公に、その白湯を飲むのが斬り込んでくる合図かと見抜く信元。
続けて「俺を殺したければやれ。表で待たせている者が死ぬ」と言います。
そして、その「表で待たせている者」が呼ばれてやってくると、何と家康公の生母・於大の方でした。
微笑む於大の方に、目を丸くする家康公。
信元の配慮で全員退席し、家康公と於大の方の二人きりとなります。
親子水入らずで昔話をする二人、そして「母はここが好きでありました。昨日のことのように覚えています。この城に嫁いだ日のこと。小さなそなたを、この手で抱いた日のこと」と言いながら慈愛に満ちた笑顔を向ける於大の方。
そんな母の手を取り「心の中でずっと母上のことをお慕い申しておりました」と涙ぐむ家康公。
「母もそなたを思わぬ日はありませんでした」と家康公を抱きしめる於大の方。
しかしその直後、家康公の耳元で「今川と手をお切りなさい。今川はもうおしまいです」と於大の方は言い始めます。
「そなたは信長様には勝てません」と言い、信長が対等な同盟を結び三河を任せると言ってくれていると続けます。
「私の妻は今川御一門衆であり、駿府には今も私の妻と子供がおります」という家康公に「それが? それが何だというのです?」と返す於大の方。
「私が今川を裏切れば、妻と子はどうなるか!」と怒る家康公に、於大の方は「それが何だというのです! つまらぬことです」と言い放ちます。
唖然とする家康公に、於大の方は「そなたの父上は、かつて尾張におったそなたを見捨てました。恨んでおいでか?」と問いかけます。
そして「私は大層立派なご判断であったと思います」と続けます。
「主君たる者、家臣と国のためならば己の妻と子ごとき平気で打ち捨てなされ!」と言う於大の方に「出ていけ!」怒る家康公。
「そなたを助けている吉良義昭殿を攻め、所領を切り取られよ。それが信長様への返事になる」と言い残して去っていく於大の方。
瀬名からの手紙が届き、家臣の妻らは服を縫い綺麗な姿で夫を待っていると伝えてきました。
その手紙を読む家康公の元に、数正と忠次がやってきます。
わしは聞かぬぞと言い立ち去ろうとする家康公に、数正は「申し上げねばなりませぬ」と道を塞ぎます。
「数正、お前は今川様のご恩を忘れたのか! そうであろうな、お前は情が薄いからな!」と言い放つ家康公に、忠次が「殿、少し城下を歩きませぬか」と持ちかけます。
岡崎城下の田畑を歩く家康公らと、田畑で農民に混ざり農作業に汗を流す鳥居忠吉の姿が。
忠次曰く、家康公らが岡崎に帰ってきたから、今年は今川に絞り取られずに済むとみんな喜んでいると言います。
今川から独立するなどとは一言も言っていないと言う家康公に、そう言わなければ兵が集まらなかったという忠次。
そして、皆それほどひもじい思いをしてきたと言います。
「まことに恐れ多いことながら、我ら三河衆は皆、とうの昔に今川を見捨てておりまする。殿のご心中を思えば左衛門も涙が出ます! されど、されど! どうか、どうか、どうかご決心くだされ!」と頼み込む忠次。
「何を申しているのかわかっておるのか!」「わかっておりまする! 松平のため、岡崎のためでござる!」
なおも駿府へ帰るという家康公に太刀を差し出し、そして「左衛門のことは、お手討ちにしてくだされ」という忠次。
「よし……」と言って太刀を受け取り、構える家康公。
そこに「数正もお手討ちにしてくだされ!」と数正も加わり、忠次と二人で田んぼに土下座して家康公に決断を迫ります。
嫌じゃ嫌じゃと拒む家康公も、遂には力なく太刀を下ろして田んぼに崩れ落ち、泣き叫びます。
その姿を遠くから見ていた鳥居忠吉が、地面に額を擦り付けながら一人平伏します。
そして、家康公は遂に決断を下します。
吉良義昭を攻め、今川への敵対を示しました。
駿府にて家康公離反の報せを受け、嘘じゃと驚く今川氏真。
そして、瀬名の元にお富さんたち(三河衆の妻たち)が連れて行かれましたという報せが入ります。
駆けつけた瀬名の目の前で、お富やおふみら女衆が斬り殺され、そして信康も連れ去られてしまいます。
信元から信長の待つ清州へ行こうと言われ、夜の清洲城で剣を振るう信長の姿が映り、待て次回。
第3回「三河平定戦」感想
今回の第3話、まず言いたいのは「忠吉の忠義が描かれた」という事に尽きます。
冒頭の貯め込んでいた軍資金や武具を披露する場面や、後述の田畑のあぜ道での場面など、しっかりと描かれています。
第1話を観て「忠吉の忠義エピソードが全部カットされている!」と文句を垂れていた私ですが、しっかりと描いた古沢脚本に謝罪したいと思います。
また、冒頭の貯め込んでいた軍資金などを忠吉が披露する場面ですが、ここでも石川数正と三河衆の間に温度差がある描写がされていると感じました。
この点につきましては、後述したいと思います。
刈谷城攻めについて話す場面にて、忠勝は家康公を「殿」と呼ぶばかりか、生母の兄を本当に討ち取っても良いのかと、家康公を慮ります。
この辺り、第1回ではあれほど反発していながらも、前回の第2回での出来事を経て、家康公を自らの主君と認めたという感じが出てきていますね。
しかし一方で、家康公は水野信元への敵対・攻撃について、単なる「個人的な好き嫌い」を口にします。
この辺り、大変未熟な人間性が前面に出ているように見えますが、おそらくこれは意図的な演出だと思われます。
現在の時点では、まだまだ主君として大変未熟な人物として描かれるのは、きっと後の成長から逆算して設計された人物像と演出なのだと思います。
この辺りも今後の展開が楽しみですね。
松平勢による刈谷城攻めの活線シーンですが、なかなか迫力のある映像に仕上がっていて嬉しく思います。
近年の大河では(おそらく予算の都合から)、ある程度は合戦シーンの映像が「見るからにスタジオ撮影っぽい」感じに仕上がるのも仕方ないと思って観ていましたが、今回の『どうする家康』は合戦シーンの映像がかなり良い感じに仕上がっていると思います。
これは先々の合戦も、特に「三方ヶ原の戦い」や「長篠の戦い」、あるいは「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」など、大いに期待できそうですね!
今川義元の嫡男・今川氏真が瀬名の父・関口氏純から松平勢への加勢依頼を受け、突っぱねる場面ですが、氏真はこの時点ではまだ家康公に援軍を送ってはやりたいが送れない事情があったという形で描かれています。
刈谷城での首実検の場面ですが、はい出ました近年の大河ドラマで準レギュラーの首桶氏。
本作『どうする家康』でも首桶氏はご出演され、早速生首に華を添える名演技を見せてくれました。
首桶氏は今回も良い仕事してますね!
三河家臣団の言い争いを収めた後、家康公・数正・忠次の3人で話し合う場面ですが、冷静に知恵を出すものの理解されにくい数正と、それを「まあまあ」と宥めながら相手の情に配慮する忠次、この2人は中々良いコンビかもしれませんね。
しかし風呂好きローマ人甲斐の虎・武田信玄は相変わらずローマ人のような風貌で、身にまとう衣服まで古代ローマの服みたいに見えてきます。
そして、於大の方の「主君たる者、家臣と国のためならば己の妻と子ごとき平気で打ち捨てなされ!」という台詞ですが、実際に家康公の父・広忠の決断を側で見てきた於大の方が言うと重みが違いますね。
また、この台詞は平成12年(2000年)放送の大河ドラマ『葵 徳川三代』にて、津川雅彦さん演じる家康公が西田敏行さん演じる次男・秀忠が二代将軍に就任した宴の夜に言った「人の上に立つものは、心に一匹の鬼を飼わねばならぬ。成り行きによっては、妻や子も捨てねばならぬ。頼むべきは身内にあらず。忠義の家臣と心得よ」という名台詞を彷彿とさせます。
こうしてみると『どうする家康』で描かれている現時点での家康公が、どのような人物になっていくのか楽しみでもあります。
そして何と言ってもこの第3回最大の見せ場だと思う名場面は、家康公に忠次と数正が決断を頼み込む場面だと思います。
二人の決死の説得も見事ですが、遠くで見ていた鳥居忠吉が人知れず平伏して、田畑の畔道に額を擦り付ける姿に涙してしまいました。
こういうのに弱いんですよね……
忠吉が軍資金を貯めていた話は、本来ならば第1回で墓参りとして家康公が岡崎に行った時の話だと思います。
しかし、あえてその話をこの第3話に持ってきたという訳です。
この忠吉が額をつけて平伏する場面の意味合いを強調する演出として、狙ったのだろうと思います。
今回の『どうする家康』は放送開始から色々な意見も出ているようですが、とりあえず第2回までで脱落しなくてよかったと思いました。
第3回「三河平定戦」家康公ファン的注目ポイント
家康公ファンの一人として、気になったポイントを挙げてみます。
石川数正は裏切ります
後に、石川数正は豊臣秀吉の引き抜きに応じて家康公の元を去り、秀吉に寝返ります。
ある歴史系Youtuberの方が動画内で言及したところ、一部からネタバレやめろという批判を受け、謝罪されたそうです。
ですが、これは有名な史実なのでネタバレでも何でもないと個人的には思います。
逆に、これほど家康公の側で支え続けてくれている数正が(第1回でも名言を言いましたね)、どのようにして家康公の元を去る決断を下すのかという視点から『どうする家康』を観てみると結構面白いと思うんですよ。
現に、第3回冒頭の鳥居忠吉が軍資金などを貯えていたという場面でも、酒井忠次らはみんなで海老すくいを踊りますが、数正だけはその輪に加わりません。
これで戦ができるとはしゃぐ三河衆と困惑する家康公をよそに、数正だけが眉間にシワを寄せながら冷静に物資の確認をしています。
また、瀬名からの手紙を読む家康公に進言しにきた数正に対して、家康公も「お前は情が薄い」と言い放ちます。
この辺りの「ズレ」が丁寧に描かれているあたり、今回の『どうする家康』は脚本がしっかりと考えられているのではないでしょうか。
大河ドラマをどのようなスタンスで、どのようにして楽しむのかは個人の自由であり、誰かに強要されるべきものではないと思います。
ですが、当ブログのスタンスとしましては「史実や通説あるいは有名な逸話などを踏まえた上で、創作要素含めてどのように脚本が描いてくるのか」を楽しみたいという考えです。
従いまして、今後も「歴史的な要素のネタバレ」はどんどんやっていきますので、ご了承ください。
東条城から援軍に来た吉良義昭とは何者なのか?
今川勢の一員として、東条城から家康公の元に援軍としてやってきた吉良義昭ですが、あの『忠臣蔵』で吉良上野介として有名な吉良義央の遠縁です。
『どうする家康』第3回の劇中にて、永禄4年(1561年)に家康公に降伏した義昭は、その後、岡崎へ移住させられました。
しかし永禄6年(1563年)、西三河に『三河一向一揆』が勃発すると、義昭は一揆勢と同盟を結んで、再び家康公との決戦に臨みます。
ですが結果は家康公の勝利に終わり、東条城は落城、義昭は三河からの撤退に追い込まれました。
その後、摂津国・芥川にて亡くなったそうです。
ただ、義昭の兄・吉良義安に吉良家の家督継承が認められたため、吉良家は滅亡せずに残ります。
この義安の子孫が、かの『忠臣蔵』で有名な赤穂事件で知られる吉良上野介です。
歴史はこういう時代を超えての繋がりとかが見えると、また一層面白いですね。
家康公と室町幕府13代将軍・足利義輝の接点
永禄4年(1561年)3月、家康公は室町幕府13代将軍・足利義輝に馬を献上しました。
『どうする家康』の劇中では描かれていませんが、水野信元の仲介により家康公が織田信長と和睦を実現したのが永禄4年(1561年)2月の出来事ですので、その翌月の出来事ということになります。
ここで家康公と将軍・義輝(ひいては中央政権たる室町幕府)の間に接点が出来ました。
そして翌永禄5年正月20日には、義輝が松平家・今川家双方に停戦命令を出しています。
ですが、この停戦命令後も家康公は今川方への攻撃を行い、氏真の従兄弟で東三河西郡上之郷城主・鵜殿長照を討ち取ります。
この時、家康公は長照の実子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕虜にしました。
家康公は側近・石川数正に今川家を説得させ、瀬名・信康・亀姫と鵜殿・氏次兄弟を人質交換することに成功します。
これによってようやく、家康公は瀬名・信康・亀姫を駿府から岡崎に迎え入れることができました。
この辺りの話は、次回の第4話あたりで描かれそうだなと予想しています。
家康公はいつから源氏姓を名乗り始めたか?
永禄4年(1561年)4月15日付の文書が初見です。
つまり、次回放送の第4回では(おそらく描かれないと思いますが)家康公は源氏姓を名乗り始めます。
ですが、家康公と源氏姓は後々重要な要素にもなると思いますので、一応取り上げておきます。
『どうする家康ツアーズ』第3回
大河ドラマの名物でもある本編終了後の「紀行」ですが、本作『どうする家康』では石川数正役・松重豊さんのナレーションで史跡や品物などを紹介すると共に、家康公役・松本潤さんが今回は岡崎城を訪れるという構成が第1回から続いています。
【紹介された史跡・ゆかりの地・品物など】
駿府城公園
- 家康公銅像
- 駿府城跡天守台発掘調査現場
(今川時代の堀が発見された)
静岡浅間神社
(今川義元が烏帽子親を務め、家康公が元服した場所)