その他の史跡・ゆかりの地 その他の史跡・ゆかりの地 X Facebook はてブ Pocket LINE コピー当ブログでは徳川家康公や徳川家、徳川家臣団ゆかりの地や史跡、神社仏閣などを中心にご紹介していますが、それ以外の史跡やゆかりの地などもご紹介しています。ぜひご覧ください。
その他の史跡・ゆかりの地東急株主限定企画『懐かしの東急8000系ツアー』に行ってきました 東急株式会社傘下の伊豆急行が開催する、株主限定企画『懐かしの東急8000系ツアー』に行ってきました。 伊豆急行線で活躍中の8000系車両に、東急線で走っていた時代のラッピングを施した特別仕様の電車に乗車して、伊豆急行線の伊豆高原駅〜伊豆急下田駅間を往復するという企画です。 2022.09.14その他の史跡・ゆかりの地
その他の史跡・ゆかりの地堀久太郎秀政本陣跡(愛知県長久手市)|「桧ヶ根の戦い」で秀政が布陣した場所 堀久太郎秀政本陣跡の記念碑は、愛知県長久手市の桧ヶ根公園内にあります。 秀政は「小牧・長久手の戦い」における「桧ヶ根の戦い」で、徳川方の榊原康政勢や大須賀康高勢らを破りました。 ですがその直後、色金山に布陣していた徳川家康公が御旗山に移動して金扇の馬印を立てると、それを見て戦況の不利を悟り撤退しました。 2022.03.19その他の史跡・ゆかりの地
その他の史跡・ゆかりの地武蔵塚(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」で討死した森長可の供養塚 『武蔵塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の森長可ながよしの供養塚です。 長可は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。 長久手古戦場エリアの史跡巡りに便利な、無料のレンタサイクルを借りられる長久手市郷土資料室からすぐ近くにあります。 2022.02.11その他の史跡・ゆかりの地
その他の史跡・ゆかりの地勝入塚・庄九郎塚(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」で討死した池田恒興・元助父子の供養塚 『勝入塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の池田恒興の供養塚です。 『庄九郎塚』は同じく「長久手の戦い」で討死した、恒興の嫡男・池田元助の供養塚です。 恒興と元助は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。 2022.02.10その他の史跡・ゆかりの地
その他の史跡・ゆかりの地橘樹郡家跡第32次調査現地見学会に行ってみた感想(川崎市) 昨日、川崎市教育委員会が行った『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』に参加してみました。 今回は、その概要と感想をまとめたいと思います。 橘樹郡家(たちばなぐうけ)とは、かつて武蔵国橘樹郡にあった郡家の事です。 郡家は、飛鳥時代以降の律令制度において、郡の官人(郡司)が政務を執った役所でした。 田租や正税出挙稲を保管する正倉や、宿泊所などから構成されていました。 2020.12.06その他の史跡・ゆかりの地
その他の史跡・ゆかりの地多摩川浅間神社|源頼朝の妻「尼将軍」北条政子ゆかりの地 多摩川浅間神社は、東京都大田区にある神社です。 多摩川浅間神社の創建は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の妻・北条政子が頼朝出陣の後を追って同地を訪れた際の出来事に由来しています。 文治年間(1185年〜1190年)に創建されました。 また、近年では映画『シン・ゴジラ』のロケ地としても有名です。 2020.10.17その他の史跡・ゆかりの地
その他の史跡・ゆかりの地源頼朝公落馬地|源頼朝公の死因は? なぜ死んだ? 怨霊説!? 今回は神奈川県平塚市にある史跡『源頼朝公落馬地』を訪れました。 2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は鎌倉幕府執権・北条義時が主人公ですが、その物語は源頼朝公亡き後の鎌倉幕府における「御家人13人による合議制」が舞台です。 では、その鎌倉幕府を開いた源頼朝公は、なぜ亡くなったのでしょうか? その死因は何だったのでしょうか? 2020.10.15その他の史跡・ゆかりの地
その他の史跡・ゆかりの地「法政大学発祥の地」記念碑|明治13年設立の東京法学社跡 「法政大学発祥の地」記念碑とは、法政大学の前身となる東京法学社が明治13年に設立された場所に建てられた、法政大学発祥地の記念碑です。 JR御茶ノ水駅で下車して目の前の明大通りを明治大学側に進むと、東京都千代田区神田駿河台1丁目の明大通り歩道上にあります。 2019.10.25その他の史跡・ゆかりの地
その他の史跡・ゆかりの地日本国憲法草案審議の地|吉田茂らが審議した日本国憲法発祥地の史跡 日本国憲法草案審議の地とは、日本国政府と連合国軍総司令部の間で日本国憲法の草案審議が行われた史跡の事です。東京都港区六本木1丁目8-4に記念碑が設置されています。昭和21年(1946年)2月、日本側は外務大臣吉田茂と法務大臣松本烝治が、総司令部側代表は民生局長ホイットニー准将と民生局次長ケーティス大佐が、同地にて日本国憲法の草案を審議しました。 2019.03.17その他の史跡・ゆかりの地