徳川家康公ゆかりの地めぐり「浜松編」1日で観光する日帰り旅モデルコース
徳川家康公は元亀元年(1570年)に三河国・岡崎から本拠地を移して以降、天正14年(1586年)に本拠地を駿河国・駿府に移すまでの17年間、遠江国・浜松を本拠地としていました。
今回は、そんな浜松の家康公ゆかりの地を巡るツアープラン・モデルコースをご紹介いたします。
三方ヶ原古戦場(静岡県浜松市)|徳川家康公の生涯唯一の惨敗「三方ヶ原の戦い」
三方ヶ原古戦場は、若き日の徳川家康公が軍神・武田信玄に真正面から野戦合戦を仕掛け、生涯唯一の惨敗を喫した「三方ヶ原の戦い」が行われた古戦場跡です。
元亀3年(1572)12月22日、家康公の居城・浜松城の北に広がる三方ヶ原台地にて、徳川・武田両軍が激突しました。
この敗北が、後の家康公を作り上げていく大きなターニングポイントとなりました。
宗源院(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で討死した成瀬正義らが眠る寺
宗源院は、静岡県浜松市にある曹洞宗のお寺です。
宗源院には、徳川家康公の忠臣で「三方ヶ原の戦い」にて討死した成瀬正義の墓所があります。
また、同じく「三方ヶ原の戦い」にて徳川勢の旗手を務め、その撤退戦の最中に討死した外山正重の墓所もあります。
広沢山普済寺(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で家康公が焼いた寺
広沢山普済寺は、静岡県浜松市にある曹洞宗のお寺です。
「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に敗れた徳川家康公は、命からがら浜松城に逃げ帰りました。
その晩、家康公は普済寺を焼いて「浜松城が燃えている」と武田勢に思わせ、油断させました。
その直後、犀ヶ崖付近で夜営していた武田勢に対して、大久保忠世らが率いる徳川勢が夜襲をしかけます。
結果、武田勢に痛手を負わせることに成功し、家康公は信玄に一矢報いました。
夏目次郎左衛門吉信の碑(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で家康公への恩を返して討死した忠臣
夏目次郎左衛門吉信の碑は、静岡県浜松市にある犀ヶ崖古戦場の向かいにある記念碑です。
夏目吉信は徳川家康公の家臣でしたが、三河一向一揆の際には他の家臣らと共に離反して家康公に刃を向けました。
しかし捕縛された際、家康公の寛大な処置により許されます。
この時の恩義を忘れなかった吉信は、後年「三方ヶ原の戦い」において、家康公が武田信玄に敗れて浜松城へ逃げ帰る際に、家康公の身代わりとなって武田勢と戦い、犀ヶ崖の近くで討死を果たしました。
本多肥後守忠真の碑(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で家康公を守るために討死した忠臣
本多肥後守忠真の碑は、静岡県浜松市にある犀ヶ崖古戦場の一角にある石碑です。
本多忠真は徳川家康公の家臣で、あの本多忠勝の叔父です。
忠真は「三方ヶ原の戦い」において、家康公が武田信玄に敗れて浜松城へ逃げ帰る際に、殿(しんがり)を務めてこの地で討死を果たしました。
犀ヶ崖古戦場(静岡県浜松市)|徳川家康公が武田信玄に一矢報いた合戦
犀ヶ崖古戦場は静岡県浜松市にある、古戦場です。
徳川家康公が武田信玄に野戦を挑むも惨敗し、浜松城まで逃げ帰った「三方ヶ原の戦い」。
その敗走の晩に、徳川勢が武田勢の夜営地を夜襲しました。
今でも、その急峻な崖に古戦場としての趣を感じることができます。
浜松城(静岡県浜松市)|徳川家康公が17年間過ごした「出世城」
浜松城は静岡県浜松市にある城跡です。
元亀元年(1570年)、徳川家康公は岡崎城から本拠地を移して以降、天正14年(1586年)に本拠地を駿府城に移すまでの17年間に渡り、この浜松城を本拠地としていました。
今回は合計117枚に及ぶ写真を余すことなく掲載して、浜松城の魅力を大特集いたします。
元城町東照宮(静岡県浜松市)|徳川家康公と豊臣秀吉の銅像が並ぶ神社
元城町東照宮(もとしろちょうとうしょうぐう)は、静岡県浜松市にある神社です。
戦国時代に引間城(曳馬城)があった地に、明治19年(1886年)に建立されました。
かつて、浜松城を本拠地とした徳川家康公を祀っています。