元城町東照宮(もとしろちょうとうしょうぐう)は、静岡県浜松市にある神社です。
戦国時代に引間城(曳馬城)があった地に、明治19年(1886年)に建立されました。
かつて、浜松城を本拠地とした徳川家康公を祀っています。
元城町東照宮の縁起
元城町東照宮は、元浜松城代・井上延陵により明治維新後の明治19年(1886年)に建立されました。
その後、以下の経緯により地元の神社として人々から親しまれるようになっていきます。
東照宮は元城町にあったものの、こうした経緯から地域住民とは特にかかわりがなかった。また、元城町は元城域であった事情から神社がなかった。 そこで、当時元城町に住んでおり、浜松市議会議員でもあった弁護士の大石力は、地域住民の融和を図るとともに、彼らのよりどころとなる神社が必要であると考え、東照宮を地域の神社としようと考えた。そこで、所有権を井上延陵の孫からもらいうけ、大日本報徳社からは管理する立場を引き取った。1936年(昭和11年)には元城町に権利の移転が完了し、大祭が開かれている。また、祭事の際には同時に井上延陵の碑前で慰霊祭が行われている。
しかし、建立当初の元城町東照宮は第二次世界大戦時の浜松空襲にて焼失してしまいます。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月18日と7月29日、後に浜松空襲と呼ばれた集中砲火がアメリカ軍によって行われ、東照宮の本殿なども戦火に巻き込まれ、焼失した。荒涼とした焼け跡にの境内には小さい祠が設けられた。石造りの鳥居は戦災を免れ当時のまま残っている。 1958年(昭和33年)、当時の市長坂田啓造が中心となって都市計画を立てることとなった。その際、焼失した東照宮の処遇が問題となったものの、大石力が尽力し町民にとってこの場所がどれほど大切な場所であるか訴えて認められた。その後、大石力自身が建設委員長となり、敷地を処分しても寄付を受けず、鉄筋コンクリート造りの防火建築、銅板瓦葺き和風権現造りの社殿と社務所が建立された。
引間城跡に1886年(明治19年)井上延陵(八郎)により造営された東照宮社殿は戦災を受け消失したが、1958年(昭和33 年)再建されたのが、現在の社殿である。鉄筋コンクリート造り、銅板葺きの権現造りである。拝殿前の石段下には1901年(明治34年)に建立された井上延陵の高さ台石共に3.5メートルの巨碑が建っている。
残念ながら社殿などは空襲の際に焼失してしまいましたが、石鳥居だけは戦災前のものが現存しているとのことです。
元城町東照宮
鳥居
こちらが、元城町東照宮の鳥居です。
この石鳥居は元城町東照宮で唯一、戦災前からあるものです。
石鳥居には「大正六年四月建立」と刻まれています。
こちらが、鳥居の扁額です。
元城町東照宮は『浜松家康の散歩道』の順路でもあります。
【関連記事】
→『浜松家康の散歩道』順路3.椿姫観音
引間城跡(曳馬城跡)
元城町東照宮の鳥居横には、引間城跡(曳馬城跡)の石碑があります。
なお、上の写真奥の建物は元城町公民館です。
こちらが、引間城跡(曳馬城跡)の石碑です。
石碑の横には、引間城本丸跡について記された案内看板が設置されています。
引間城本丸跡
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込川が天竜川の本流にあたり、西岸に町家が発達しました。「船越」や「早馬」はこの頃の地名です。
戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衛(頭陀寺城城主)がいました。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。
徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。元亀3年12月(1573)武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(元目)口」へ撤退したと言われています。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。
その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっています。平成27年1月 監修:静岡文化芸術大学 磯田道史教授
引用元:元城町東照宮・案内看板『引間城本丸跡』
この案内看板は、テレビ等に引っ張りだこの人気歴史学者・磯田道史先生が監修されたとのことです。
磯田先生の手がけた案内看板を拝見するのは初めてでしたので、思わぬ場所で出会いとても驚きました。
手水舎
こちらが、元城町東照宮の手水舎です。
こちらが、手水鉢です。
手水舎には、元城町東照宮の由緒について記された看板が設置されています。
手水舎の屋根の下あたりには、よく見ると猫の彫刻があります。
境内の様子
こちらが、元城町東照宮の境内の様子です。
手水舎の隣には、元城町東照宮を建立した井上延陵の記念碑が残っています。
拝殿前の石段下には1901年(明治34年)に建立された井上延陵の高さ台石共に3.5メートルの巨碑が建っている。
この石碑は明治34年(1901年)当時のものだそうなので、おそらく元城町東照宮の現存する最も古い建造物かと思われます。
二公像|徳川家康公・豊臣秀吉公(日吉丸)像
元城町東照宮は「浜松のパワースポット」「出世神社」「出世パワースポット」などと呼ばれています。
祀られている家康公の他にも、若き日の秀吉にもゆかりがある地ということで、2人の天下人と縁があるからだそうです。
元城町東照宮(旧引間城)は徳川家康だけでなく、もう一人の天下人豊臣秀吉にもゆかりがある。 秀吉は引間城を整備した飯尾氏の配下である松下氏に16歳から3年間仕え、浜松で過ごしていた。16歳のころに引間城を訪れ、猿まねをして栗を食べたという逸話も残っている。 敷地内には、2015年に徳川家康公顕彰400年記念事業浜松部会が行った事業の一環で、2人のブロンズ像が設置され出世のパワースポットとなっている。
境内には「二公像」と呼ばれる、徳川家康公と豊臣秀吉の銅像が置かれています。
この二公像にも、磯田道史先生監修の案内看板が設置されています。
ちなみに、この案内看板に写っている写真は、ジャズピアニストとして有名な上原ひろみさんです。
磯田先生に上原さんという、謎の豪華っぷりですね。
「若き日の家康・秀吉二公と引間城」
元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。
戦国時代のこの城には、後に天下人となる二人の武将が相次いで訪れています。
天文二十年(一五五一年)、尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉公(当時十六歳)が今川家臣の居城であった引間城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけを得たとされています。
元亀元年(一五七〇年)には、今川家から独立を果たした徳川家康公(当時二九歳)が遠江を平定し、この城に住み、浜松という地名も定めました。
この城は期せずして、二人の天下人が戦国武将としての一歩を踏み出した運命の地となりました。ここ引間城跡の東照宮と二公像は「出世の街 浜松」を代表するまさに聖地といえます。秀吉公(一五三六〜一五九八)
浜松時代 一五五一(十六歳)〜一五五三(十八歳)家康公
浜松時代 一五七〇(二十九歳)〜一五八六(四十五歳)監修 浜松市文化顧問 磯田道史
二公像の間にはお立ち台がありますので、訪れた際はぜひここでポーズをキメて写真を撮影してみてください(私は当然、家康公と同じポーズで記念撮影しました)。
こちらが、元城町東照宮にある家康公の銅像です。
銅像の台座にも、磯田先生による説明文が添えてあります。
浜松時代の若き徳川家康公像 三十一才
一五七三年(元亀三年十二月二十二日)
三方ヶ原合戦時に武田軍に立ち向かった時のご勇姿家康公はここ元城町東照宮(引間城本丸)を居所とし、新たに浜松城を築いた。しかし、武田信玄公に領土を侵され、危険を案じた織田信長公から「浜松を捨てよ」との命令が出た。そのとき家康公は「我もし浜松を去らば刀を踏み折りて武士を止むべし『武徳編年集成』」と言い放ち、命令を無視して踏みとどまり、戦国最強とうたわれた武田軍に挑み、この地より出陣した(三方ヶ原合戦)。しかし結果は大敗北。
本社北東角の元目口にからくも生還した。戦には負けたが、武田軍を城まで踏み込ませることなく、撤退させた家康公。今川家や織田家の命令をはなれ初めて自分の意思で戦い、浜松城を保って領民を守り抜いたお姿である。
史学博士 磯田道史
引用元:磯田道史『浜松時代の若き徳川家康公像 三十一才』(元城町東照宮・案内看板)
この二公像に添えられた説明も、磯田先生による文です。
こちらが、秀吉の銅像です。
こちらにも、磯田先生の説明文が添えてあります。
浜松時代の少年豊臣秀吉公像 十六才
一五五一年(天文二十年)
初めて武家奉公がかなったときの少年秀吉公のお姿武士になろうとして、尾張の国より針の行商をしながら主君を捜す旅に出た。浜松の馬込川ほとりで、浜松の豪族松下嘉兵衛に出会い、ここ引間城(元城町東照宮)までつれてこられた。引間城主飯尾家の宴会で、猿そっくりの口元で猿の物真似をして栗を食べて気に入られ、松下家へ初めての武家奉公の夢がかなった。『太閤素生記』
浜松市南区頭陀寺の松下屋敷で、武者修行を積み、良く働き、良く学んだ秀吉公は一六才〜一八才の三年間、この浜松で過ごし成長していった。その後、松下家から退職金をもらい尾張へ帰った。そして織田信長公と出会い織田家中で出世をはたし、ついには天下人となった。
史学博士 磯田道史
引用元:磯田道史『浜松時代の少年豊臣秀吉公像 十六才』(元城町東照宮・案内看板)
秀吉は天文6年(1537年)2月6日に生まれ、若かりし頃は木下藤吉郎と名乗り、松下嘉兵衛に仕えていました。
今川家の家臣・飯尾氏(今川家の家臣)の配下である、引馬城支城の頭陀寺城主・松下加兵衛(今川家の家臣の家臣)に仕えていた当時の秀吉は、今川家の陪々臣(今川家から見れば家臣の家臣の家臣)という立場でした。
なお、松下嘉兵衛は今川家の凋落後、家康公に仕えますが、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国・河内国・伊勢国内に3千石を与えられます。
さらにその後、天正16年(1588年)には1万6千石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられています。
権現道
社殿の左側には「権現道」と書かれた石碑があります。
案内看板など一切設置されておらず、由緒などは不明でしたが、調べたところ以下のような説明を発見しました。
三方ヶ原の戦いのあと家康が通ったとされる小道
社殿の左側に、権現道とほられた石碑があります。東照大権現は家康の尊称です。家康が三方ヶ原の戦いで敗戦した際、この西の小道から逃げ帰ったと言われているそうです。
家康公が武田信玄と戦い敗走した「三方ヶ原の戦い」において、家康公の逃げ帰った道だそうです。
なお、この「三方ヶ原の戦い」での家康公の敗走については、近隣の浜松八幡宮にもゆかりのスポットがあります。
終戦直後に建てられた祠の台座
社殿の裏側には、第二次世界大戦の終戦直後に建てられた祠の台座が残されています。
案内の掲示物には、以下の通り記されています。
終戦直後建てられた祠の台座
昭和二十年六月十八日の米軍B二九爆撃機一〇〇機による浜松大空襲で、元城町東照宮社殿及び森林全焼するも、終戦当時の元城住民は小さな祠を設けまして、氏神様として奉斎を続けたのです。
このことが昭和二十五年六月から始まった浜松土地区画整理事業の危機で、この東照宮の境内が換地として破壊されることがなく、二〇一六年現在五百年前の引間城跡として、日本遺産候補になれましたのも、この台座のお陰です。
氏子 兼子義男記引用元:兼子義男『終戦直後建てられた祠の台座』(元城町東照宮・案内看板)
ここでも、第二次世界大戦時の空襲による被害で、貴重な文化遺産が喪われていました。
とても残念ですが、そうした神社存続の危機を乗り越えて今日まで残してくださった方々に、感謝申し上げます。
社殿・狛犬
こちらが、元城町東照宮の社殿と狛犬です。
こちらが、狛犬右側(阿形)です。
こちらが、狛犬左側(吽形)です。
狛犬がよだれかけ(?)をかけていて、愛嬌があります。
なお、この狛犬の台座には「葵の御紋」があります。
社殿に扁額はありません。
こちらが、賽銭箱です。
社殿に扁額はありませんが、社殿の扉には「葵の御紋」があります。
社殿破風の鬼板と懸魚(げぎょ)にも、葵の御紋があしらわれています。
鬼板の「葵の御紋」です。
懸魚(げぎょ)の「葵の御紋」です。
屋根の側面や、棟紋にも「葵の御紋」があります。
さすがは、家康公ゆかりの地・浜松の東照宮ですね。
アクセス・案内情報
- 名称:元城町東照宮
- 住所:静岡県浜松市中区元城町111-2
- 交通:JR東海道新幹線・JR東海道本線「浜松駅」下車徒歩約17分、遠州鉄道鉄道線「遠州病院駅」下車徒歩約10分