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世良田山長楽寺(群馬県太田市)|家康公が庇護した徳川家と東国の禅文化発祥の地

長楽寺・本堂(概観) 家康公ゆかりの地:関東編

前回の記事では、徳川家発祥の地とされる場所にある世良田東照宮をご紹介しました。

今回は、その世良田東照宮を境内に建てた長楽寺をご紹介します。

長楽寺は、徳川家康公の側近の1人・南光坊天海が住職を務めた事もありました。

元々は臨済宗の寺として承久3年(1221年)に、新田義重にったよししげの四男・新田義季にったよしすえ(後世、家康公が源氏の末裔を名乗る際に徳川家の開祖とされた)が、臨済宗の開祖である栄西の高弟・栄朝を招いて開基しました。

そのため、長楽寺は東国における禅文化発祥の寺であり、常時500人もの学僧が研学修行に励んでいたと言われています。

寛永13年(1636年)から3代将軍・徳川家光の命により日光東照宮の大改修が開始され(寛永の大造替かんえいのだいぞうたい)、寛永21年(1644年)に日光東照宮の旧社殿を長楽寺の境内に移築して、世良田東照宮が創建されました。

↓世良田東照宮についてはこちら↓

世良田東照宮(群馬県太田市)|最初の日光東照宮社殿が現存する徳川家発祥の地
金ピカの豪華絢爛な社殿で有名な日光東照宮ですが、実は最初から今の社殿ではありませんでした。 2代将軍・徳川秀忠が家康公を祀るために建てた最初の日光東照宮は、家康公の遺言により質素な社殿でした。 その後、3代将軍・徳川家光が今の金ピカ日光東照宮に建て替えたのですが、その時に最初の社殿は移築されました。 今回は、その日光東照宮の最初の社殿が現存する、世良田東照宮をご紹介いたします。

長楽寺の由緒

群馬県太田市にある世良田山長楽寺は、承久3年(1221年)に新田義季(徳川義季)が開基した臨済宗の寺です。

ちなみに、承久3年といえば、ちょうど放送開始されたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』主人公・北条義時が率いる鎌倉幕府軍と、後鳥羽上皇率いる軍勢が激突した『承久の乱』と同じ年ですね。

鎌倉時代〜室町時代には大変栄えた長楽寺でしたが、戦国時代には衰退してしまいます。

その後、小田原征伐によって北条家を滅亡させた豊臣秀吉により、徳川家康公は先祖伝来の三河国や家臣らと共に切り取ってきた遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国の5か国から、北条家が治めていた関八州へ移封となります。

関東への移封後は江戸に拠点を定めた家康公でしたが、先祖(という事にした)新田源氏ゆかりの地にして徳川発祥の地である世良田の荒廃ぶりを嘆き、側近の南光坊天海を長楽寺の住職に任命して、その復興にあたらせました。

また、天海が日光・輪王寺の住職も務めていた縁から、3代将軍・徳川家光の命による日光東照宮の大改修時に、日光東照宮に元々あった社殿を長楽寺の境内に移築して「世良田東照宮」として創建しました。

こうして徳川家や徳川幕府の後ろ盾により再び栄えた長楽寺でしたが、残念ながら明治維新後に起きた神仏分離や廃仏毀釈の流れに飲まれて、荒廃してしまいました。

おのれ明治新政府め歴史の流れとはいえ、残念な事ですね。

その後、現在の形となって今日に続いているそうです。

長楽寺・山門案内看板『長楽寺』

長楽寺

新田氏の祖義重の子徳川義季を開基とし、日本臨済禅の祖栄西の高弟栄朝を開山として、承久じょうきゅう三年(一二二一)に創建された東日本最初の禅寺(東関最初禅窟)である。ただし禅の専門道場ではなく、顕教けんぎょう密教を兼修したので、三宗兼学の寺として知られた。
創建当時は、広大な境内には塔頭たっちゅう子院が軒を並べ、五百を超える学僧が止宿して研学修行にはげんだ。その中には入宋したものも多く、これらを含めて当寺出身者は全国に禅風を挙揚こようし、日本仏教史に重要な地歩を占めた。聖一国師・神子栄尊・無住むじゅう一円・一翁院豪・月船琛海げっせんしんかいその他枚挙にいとまがない。
新田氏を始め関東武士の崇敬も篤く、周辺の庶民にもその教化は及びその思想的影響ははかり知ることができない。
室町時代の初期には日本十せつの制が成立すると当寺もその一つに数えられた。
戦国時代末期になると、寺運は著しく衰退した。

天正十八年、徳川家康は小田原北条討滅の功により、秀吉より関東の地を与えられた。家康は長楽寺の現況を嘆いて、天海僧正をその住職に任じて、祖先開基の寺の復興にあたらせ、寺領百石を与えた。天海は当寺を臨済宗から天台宗に改め、境内を整備し、伽藍がらんを修復し、末寺七百有余か寺を擁する大寺院に成長させた。天海は同時に日光輪王寺の住職でもあったので、日光東照宮が改築されるにあたり、元和造営の社殿の一部を長楽寺の境内に移し、東照宮を勧請した。幕府は社領として二百石を与え、長楽寺をその別当寺として管理と祭祀にあたらせた。
しかし、明治維新によって徳川幕府が崩壊すると、荒廃の悲運に際会せざるを得なかったが、最近多くの人々によってその歴史的価値が認識され、各方面の努力を得て復興の曙光を仰ぐに至った。

(以下略)

昭和六十二年三月

引用元:長楽寺案内看板『長楽寺』

それでは、さっそく長楽寺の境内を見てみましょう。

世良田山長楽寺

長楽寺・世良田東照宮・新田荘歴史資料館は、全体で太田市歴史公園とされています。

最寄駅の東部伊勢崎線・世良田駅から道なりに徒歩約20分で、長楽寺の総門に到着します。

(ちょうど、下図の一番右下が総門で、赤字の「現在地」が勅使門です)

長楽寺・案内看板『歴史公園案内図』

徳川氏発祥の地

本町は、一二世紀中頃源義国の長子新田義重がこの地に荘園を開き、新田の荘と呼ばれました。さらに、義重の子義季よしすえは徳川の地を領して徳川義季と名のりました。その後、承久三年(一二二一)この義季は、世良田に長楽寺を創建しました。
徳川義季を先祖として、家康は松平を徳川に復姓し、更に、三代将軍家光は、日光東照宮の大改築を行い、奥社にあった拝殿と宝塔を天海大僧正に命じて、徳川氏先祖の地世良田に移築しました。こうして世良田・徳川の地は徳川氏先祖発祥の地として、将軍家の厚い庇護のもとに繁栄を続けました。

引用元:太田市歴史公園案内看板『徳川氏発祥の地』

長楽寺は隣接する世良田東照宮と一緒に巡るのがオススメです。

総門

こちらが、長楽寺の総門です。

長楽寺・総門(概観)

長楽寺の総門は行政の文化財に指定されているという訳ではないようですが、重厚な門構えが迫力あります。

長楽寺・総門(左から)

総門には「東關最初禅窟」の文字が掲げられています。

これは「国(関東)でかれた最初禅窟(禅寺)」という意味です。

長楽寺・総門(看板)東闢最初禅窟

ただし、今日の長楽寺は「天台宗別格本寺」です。

長楽寺・総門(看板)

元々、長楽寺は臨済宗の寺として始まりましたが、戦国時代末期に天台宗の僧侶だった南光坊天海が住職になると、長楽寺も臨済宗から天台宗に改められました。

長楽寺の総門は、本堂の山門まで一直線に道が続いています。

長楽寺・総門(正面)

長楽寺の山門には扁額の下に、徳川家を象徴する三つ葉葵の家紋「葵の御紋」が掲げられています。

長楽寺・総門(扁額・葵の御紋)概観

こちらが、長楽寺・総門の扁額です。

長楽寺・総門(扁額・葵の御紋)

総門の裏手には庚申塔などがあります。

長楽寺・庚申塔(総門近く)

ちなみに、総門の近くには長楽寺の『境内名勝原図』が描かれた看板があります。

長楽寺・案内看板『境内名勝原図』

かつての栄えていた姿が目に浮かびますね。

勅使門

長楽寺の総門から中に入らずに、世良田駅から歩いてきた県道14号線をもう少し先に進むと、長楽寺の勅使門ちょくしもんがあります。

長楽寺・勅使門(概観)工事中

勅使門とは、天皇と勅使(勅旨を伝えるために天皇が派遣する使者)のみが通るために建てられた門の事です。

つまり、勅使門は「天皇と勅使専用の門」という事ですね。

ただし、長楽寺・世良田東照宮の勅使門は徳川幕府の上使も利用できたそうです。

長楽寺案内看板『長楽寺の勅使門』

群馬県指定重要文化財
長楽寺の勅使門
指定年月日 昭和三十二年四月二十三日
所 在 地 太田市世良田町三一一六‐三

この門は、江戸時代東照宮の正門ともいわれた。勅使または幕府の上使が参拝するときにのみ使用され、それ以外は開かれることがなかった。そのため、「あかずの門」ともいい、俗に「赤門」ともいわれる。
建築年代ははっきりしていないが、東照宮が遷宮された寛永二十一年(一六四四)と同時代に造られたものと思われる。東照宮に残っている修理棟札を見ると、この門は、上使門とも呼ばれており、東照宮付属の建物として、徳川幕府の手により修理が行われていた。
神仏分離政策により明治八年、長楽寺、東照宮が分離された時、長楽寺に所属したものである。
門の造りは、銅板葺四脚門、本柱・控柱ともに円柱である。軒は二軒半繁垂木、正面の控柱には頭貫を渡して、その中心に割束をもって丸桁を支えている。側面は頭貫上に割束を立て、虹梁を支え、その上に大瓶束を立てて棟木を支え、また、かぶら懸魚を用いている。
昭和四十三年に解体修理をした時に、保存上から、位置を約二メートル西へ移した。

昭和五十三年三月
太田市教育委員会

引用元:長楽寺案内看板『長楽寺の勅使門』

楽寺・勅使門(標石)新田荘遺跡長楽寺境内

長楽寺の勅使門は群馬県の指定重要文化財に指定されており、令和3年10月1日〜令和4年3月20までの間、保存修理工事が行われています。

長楽寺・勅使門(工事中)その1

養生シートの隙間から僅かに勅使門が見えました。

長楽寺・勅使門(工事中)その2

蓮池と渡月橋

長楽寺の勅使門の裏手に回ると、蓮池と渡月橋があります。

長楽寺・渡月橋(勅使門から)近景

渡月橋のかかる蓮池は、承久3年(1221年)の長楽寺創建当時の遺構を残す貴重な史跡です。

長楽寺・案内看板『長楽寺の蓮池と渡月橋』

長楽寺の蓮池と渡月橋

この池は、長楽寺の住持義哲西堂の永禄八年(一五六五)の日記(永禄日記 県重要文化財)にもある池で、承久三年(一二二一)長楽寺創建当時の遺構を残す一つである。別名心字池ともいい、心の字をかたどってつくられ、南の池の二つの島は心の字の二点を現しているといわれる、以前は北の池に白、南の池に紅の蓮があり、盛夏の頃には池一面に紅白の花が咲き、さわやかな芳香があたりに漂っていた。
中央にかゝる弧状の橋を渡月橋といい、後鳥羽上皇から下賜されたと伝えられる五面の勅額の一面に「渡月橋」とあるのは、この橋のことと考えられる。元は木橋であったが、寛政八年(一七九六)石橋に改められた。北側の橋桁の内側に御修復篠木勝左衛門外十六名と、棟梁市田吉左衛門、石工天野源兵衛の氏名が彫刻されている。
木橋当時の欄干の擬宝珠は現在の本堂(旧大師堂)勾欄の擬宝珠として保存されている。
昭和五十七年、歴史公園計画事業の一環として、池の浚渫及び周辺の整備を行ったが、本格的な学術調査は後日をまつことになった。
なお。池の汀にある岩石は昭和四十四年護岸のために据たもので、元は素掘の池であった。

(竜宮伝説)
北の池は、底が竜宮に通じていて、何か必要なものがあれば、その品名を書いた紙を池に投げこむと、水面が渦巻いてその紙を吸いこみ、やがて忽然としてその品物が浮上するといわれていた。ある時、寺に大行事があって、千畳張りの蚊帳を借りた。それは蓮の糸で織られた精巧な蚊帳だった。寺僧がこれを惜しんで返さなかったため、以来、いくら紙を投げこんでも、池の水面には何の異変も起らなくなったという。

引用元:長楽寺案内看板『長楽寺の蓮池と渡月橋』

長楽寺・蓮池と渡月橋(勅使門から)

この渡月橋を渡ると、長楽寺・三仏堂までまっすぐ参道が続いています。

長楽寺・渡月橋から三仏堂への参道

三仏堂・太鼓門

長楽寺の三仏堂は、3代将軍・徳川家光の命で再建されたものが、改修されながらも現存しています。

太鼓門も、江戸時代初期に建てられたものが、改修されながら現存しているとの事です。

長楽寺・三仏堂案内看板『長楽寺三仏堂及び太鼓門』

群馬県指定重要文化財
長楽寺三仏堂及び太鼓門
指定年月日 昭和五十七年(一九八二)四月二十日
所 在 地 太田市世良田町三一一六‐三(三仏堂)
太田市世良田町三一一九‐六(太鼓門)

三仏堂は、長楽寺の中心的な建物であり、慶安四年(一六五一)に三代将軍徳川家光の命により再造され、数回の修復(最終的には昭和五十九年の解体修理)を経て現在に至っている。桁行五間、梁間四間、一間の向拝付寄棟造、東向き総丹塗、屋根はもと茅葺であったが、明治九年瓦葺、昭和五十九年銅板平葺に改めた。建物の仕様は、外部の正面両隅間を中敷居入りの窓とし、竪連子を組み込み明障子付杉戸引違、中央を四ツ折桟唐戸両開きとし、内・外陣境の両脇間を格子戸引違に、両側面の前より第一、第二間を板戸引違とし、明障子を設け、第三間を板壁とする。
内陣須弥壇上に向って右より、釈迦如来(像高二.二メートル)・阿弥陀如来(像高二.五三メートル)・弥勒菩薩(像高二.二四メートル)の三躯を安置する。
三躯はいずれも木造寄木造の坐像で、右から順に、過去・現在・未来をあらわし、三世仏と呼ばれる。釈迦如来坐像および弥勒菩薩坐像の胎内には次の銘あり。

(中略)

太鼓門は、鼓楼ともいわれ、三仏堂の西に隣接して立ち、様式手法等により江戸時代初期のもので、その後、三仏堂同様に修理を経て現在に至っている。
桁行三間、梁間三間、袴腰付、入母屋造、銅瓦葺、東向き、中央一間扉構、上部は四周に縁をめぐらし、高欄が付く。正・背面の中央間に火灯窓、嵌板に華麗な彩色透彫文様を施す。楼上に太鼓をかけ、寺の諸行事の合図に使用した。

平成十九年(二〇〇七)三月
太田市教育委員会

引用元:長楽寺案内看板『長楽寺三仏堂及び太鼓門』

三仏堂

こちらが、長楽寺の三仏堂です。

長楽寺・三仏堂(遠景)

常楽寺・三仏堂の常香炉です。

長楽寺・三仏堂(常香炉)

常香炉には「葵の御紋」があしらわれています。

長楽寺・三仏堂(常香炉)近景

屋根は元々、茅葺き屋根だったそうですが、明治9年(1876年)に瓦葺にされ、その後昭和59年(1984年)には銅板平葺に改修され、今日に至っています。

長楽寺・三仏堂(右から)

長楽寺・三仏堂(左から)

長楽寺・三仏堂(正面)

三仏堂には梵鐘が吊り下げられています。

長楽寺・三仏堂(常香炉)釣鐘

長楽寺・三仏堂の賽銭箱です。

長楽寺・三仏堂(賽銭箱)

鈴の緒がある場所に、三仏堂では銅鑼が設置されています。

長楽寺・三仏堂(扁額と銅羅)

こちらが、長楽寺・三仏堂の扁額です。

長楽寺・三仏堂(扁額)

太鼓門

こちらが、長楽寺の太鼓門です。

長楽寺・太鼓門(正面)

太鼓門は三仏堂の裏手に少し進むとあります。

長楽寺・太鼓門

太鼓門の上部には高欄が付いています。

長楽寺・太鼓門(内部)

太鼓門では太鼓を叩いて、寺の諸行事を行う際の合図としていたそうです。

忠霊塔・世良田村帰還元軍人記念副碑・供養塔

三仏堂の近くには、忠霊塔や慰霊碑、そして供養塔や地蔵尊などがあります。

こちらが、忠霊塔です。

長楽寺・忠霊塔

明治新政府に反旗を翻した西郷隆盛が新政府軍と戦った「西南戦争」から、太平洋戦争に至るまでに亡くなった英霊を祀っているそうです。

長楽寺・忠霊塔案内看板『平和を見守る忠霊塔』

こちらは、世良田村帰還元軍人記念副碑です。

長楽寺・世良田村帰還元軍人記念副碑

三仏堂の側には、地蔵尊や供養塔なども並んでいます。

長楽寺・三仏堂近くの供養塔

山門・鐘楼・本堂

こちらが、長楽寺の山門です。

長楽寺・山門(概観)

山門前からは前出の総門まで一直線の道でつながっています。

長楽寺・山門から総門への道

総門や勅使門、太鼓門と比べると少しこぢんまりとした山門です。

長楽寺・山門(右から)

山門の前には石碑がありましたが、文字は判読できませんでした。

長楽寺・山門石碑

山門のすぐ奥には長楽寺の本堂があります。

長楽寺・山門(正面)

長楽寺・本堂前の様子です。

長楽寺・本堂と境内の様子

長楽寺の鐘楼です。

長楽寺・鐘楼(側面)

鐘楼は本堂に背を向ける方角に建っています。

長楽寺・鐘楼(正面)

梵鐘には「幸福の鐘」と書かれています。

長楽寺・鐘楼(梵鐘)

長楽寺の本堂は落ち着いた佇まいで、中々いい感じの様子です。

長楽寺・本堂

長楽寺・本堂前にある常香炉です。

長楽寺・本堂(常香炉)

長楽寺・本堂脇にある『ぼけ封じ観世音菩薩』です。

長楽寺・ぼけ封じ観世音菩薩

長楽寺・本堂には2つの家紋「丸の内に一つ引き」と「三つ葉葵」が掲げられています。

長楽寺・本堂(近景)

「三つ葉葵」の家紋は皆さんご存知、徳川家の家紋ですが、もう1つの家紋「丸の内に一つ引き」は新田家などが用いていたそうです。

古くは新田家ゆかりの地でもある世良田らしい光景ですね。

こちらは、長楽寺・本堂の賽銭箱です。

長楽寺・本堂(賽銭箱)

こちらは、長楽寺・本堂の扁額です。

真新しい様子ですね。

長楽寺・本堂(扁額)

という訳で、本来ならば本堂まで見学して終了なのですが、ここ長楽寺に訪れる際には絶対に見逃さないでほしい場所がまだ残っています。

次項から、それらをご紹介いたします。

新田公並一族従臣忠霊供養塔

長楽寺を訪れる際に見逃さないでいただきたい見所ですが、前出の太鼓門から奥へと進んでいきます。

長楽寺・太鼓門から新田公並一族従臣忠霊供養塔に向かって

下の写真のように道が2手に分かれますが、その分岐するあたりに新田公並一族従臣忠霊供養塔があります。

(ちなみに、この分岐点から道なりに奥へと進むと開山堂などがあります)

長楽寺・新田公並一族従臣忠霊供養塔と開山堂

こちらが、長楽寺の境内にある新田公並一族従臣忠霊供養塔です。

長楽寺・新田公並一族従臣忠霊供養塔(概観)

新田義貞と彼に従った新田一族従臣らを祀る供養塔であり、建立は昭和16年(1941年)だそうです。

長楽寺・案内看板『新田公並一族従臣忠霊供養塔』

新田公並一族従臣忠霊供養塔

昭和十六年に建立されたこの塔は、当時の世良田村有志十数名からなる発起人により、新田一族並従臣忠霊供養塔建設会が組織され、その呼びかけに応じた、県の内外素百名に及ぶ篤志家と、世良田国民学校児童をはじめ各種団体の賛同により、その浄財が寄せられ完成された。
その建立の趣旨は、新田義貞公戦没して六百余年、公の事績は国民の広く知るところであり、国や県等においても神として奉斎されているが、新田一族のそれはあまり世に現れず、従臣に至ってはほとんど顧りみられない現状を遺憾とするものであり。
太平記により、堀口貞満の言を借りれば「義を重んじ節に殉じて死屍を戦場に曝した者は、一族百三十二人、郎党士卒八千余人」とある。その後の転戦を合せれば、万余に及ぶ将兵が、二度と再びふるさとの地を踏むことなく、異郷の土と化したのである。
ここに義貞公と並んで新田一族従臣の忠霊を供養のため造塔の佛事をなさんとするものであった。
開眼法要は十月五日、男爵新田義美、群馬県知事代理尾崎喜佐雄をはじめ郡内官民多数の列席を得て営まれた。
以後毎年五月八日、五十年を経た今日も、関係者によって供養の法要が営まれている。

太田市商業観光課

引用元:長楽寺案内看板『新田公並一族従臣忠霊供養塔』

とても立派な供養塔ですね。

長楽寺・新田公並一族従臣忠霊供養塔

逆竹・牛石・開山堂

さて、新田公並一族従臣忠霊供養塔のある分かれ道を奥へ進むと、開山堂が見えてきます。

長楽寺・開山堂の門(概観)

長楽寺・開山堂前にある逆竹です。

長楽寺・開山堂前の逆竹

「水戸黄門」の愛称で有名な水戸藩第2代藩主・徳川光圀(家康公の十一男・頼房の三男が光圀)も、この逆竹を杖に使ったそうです。

長楽寺・開山堂前の逆竹(石碑)

逆竹

開山栄朝禅師が行脚中に使用した竹杖を逆さにさしたところ、そこから竹が生えてきて何度となく竹が枯れそうになりましたがまた新しい竹が生えてきました。又この竹は仏頂竹ともいいとても珍しいたけです。水戸黄門様もこの竹を杖としてお使いになられておりました。

引用元:長楽寺記念碑『逆竹』

こちらは、長楽寺・開山堂の前にある牛石です。

長楽寺・開山堂前の牛石

この石は元々、牛だったそうです。

長楽寺・開山堂前の牛石(石碑)

牛石

開山栄朝禅師は、全国を行脚し牛が留まった場所に一字一堂を建立することを発願したしたところ、ここまで来たとき牛が倒れてしまったのでここに寺を建てました。倒れた牛はそのまま石になってしまったと伝えられています。
又この石に座って願い事をするとその願いがかなうと言われております。

引用元:長楽寺案内看板『牛石』

他にも、開山堂の前には地蔵尊と石碑があります。

長楽寺・開山堂前の地蔵

この石碑は『聖観世音菩薩』『御大坊丈様』と書かれています。

長楽寺・開山堂前の石碑『聖観世音菩薩』『御大坊丈様』

こちらが、長楽寺の開山堂です。

長楽寺・開山堂と門

門と堂のみというシンプルな構えです。

長楽寺・開山堂と門(正面から)

周囲の竹林とあわせて、とても趣があります。

長楽寺・開山堂の門

開山堂・正面の様子です。

長楽寺・開山堂(正面)

長楽寺・開山堂

こちらが、長楽寺・開山堂の扁額です。

長楽寺・開山堂(扁額)

栄朝禅師の墓・新田家累代墓供養塔・新田岩松家の墓(新田家累代墓)

長楽寺・開山堂の裏には、長楽寺の歴代住職の方々の墓があります。

長楽寺・歴代住職らの墓(概観)

その中央には、長楽寺を開山した栄朝禅師の墓があります。

長楽寺・開山した栄朝禅師の墓

開山堂の脇には、新田家累代墓供養塔があります。

長楽寺・開山堂と新田家累代墓供養塔

この新田家累代墓供養塔の奥に進むと、新田家の累代墓があります。

長楽寺・新田家累代墓供養塔

新田家累代墓供養塔の近くにある供養塔(?)です。

長楽寺・新田家累代墓供養塔近くにある供養塔?

こちらが、新田岩松家の墓(新田家累代墓)です。

長楽寺・新田岩松家の墓(新田家累代墓)概観

残念ながら、太田市教育委員会によって封鎖されています。

長楽寺・新田岩松家の墓(新田家累代墓)立入禁止

柵の内側には、複数の墓石が並んでいます。

長楽寺・新田岩松家の墓(新田家累代墓)

徳川義季公累代墓

最後に、徳川家の始祖・徳川義季の累代墓をご紹介します。

長楽寺・徳川義季公累代墓(入口遠景)

徳川義季公累代墓は、長楽寺・太鼓門の左斜め後ろ側にある道から階段を登るとあります。

長楽寺・徳川義季公累代墓(入口と石標)

徳川義季公累代墓の石標です。

長楽寺・徳川義季公累代墓(石標)

石標の後ろには石碑があります。

長楽寺・徳川義季公累代墓(石碑)

階段を登ると、如来像と石塔が並んでいます。

長楽寺・徳川義季公累代墓(概観)

徳川義季公累代墓の前にある如来像です。

長楽寺・徳川義季公累代墓(如来像)

お供え物の酒などがあり、地元の方々から大切にされているような印象を受けました。

こちらが、長楽寺・徳川義季公累代墓の宝塔です。

長楽寺・徳川義季公累代墓(宝塔概観)

徳川義季は寛元4年12月15日(1247年1月23日)に亡くなりましたが、この宝塔は建治2年(1276年)に建立されたようです。

長楽寺・徳川義季公累代墓案内看板『宝塔』

国指定重要文化財
宝塔
指定年月日 昭和三十六年三月二十三日
所 在 地 太田市世良田町三一一九‐四

ここは長楽寺の開基徳川次郎義季を始め、徳川氏累代の墓所と伝えられ、前方後円墳の後円部にあたり、古くから文珠山と呼ばれている。
この宝塔は凝灰岩製で、相輪は失われているが、現存部の高さ一メートル六十五センチである。屋蓋、軒口の切り方、軒反り、瓶型の塔身等に鎌倉時代の特色を良く表している優秀な石造宝塔である。
昭和六年、周囲の石垣を築造し塔を整備したさい宝塔の基礎底面に

敬白
奉造立多宝石塔
右所造立如件
建治二年丙子十二月廿五日(一二七六)
第三代住持比丘院豪

と銘文が刻まれているのが発見された。
塔の造立者院豪は寛元年中(一二四三~一二四六)に宋に渡った。正嘉二年(一二五八)長楽寺第三世となり、以来二十四年間住職であった。
弘安四年(一二八一)長楽寺で没し、その後「円明仏演禅師」と朝廷よりおくり名をされた高僧である。

昭和五十三年三月
太田市教育委員会

引用元:長楽寺案内看板『宝塔』

長楽寺・徳川義季公累代墓(宝塔)

「八幡太郎義家」の名で知られる源義家ですが、義家の子・義国は関東に下り、その長男・義重が「新田荘」を開いて新田氏の祖となりました。

(余談ですが、義家の5代目の直系子孫が鎌倉幕府を開いた源頼朝です)

新田義季は義重の四男として生まれ、上野国新田郡世良田荘徳川郷(現在の群馬県太田市尾島町)に根を張って徳川義季を名乗り始めました。

義季の子孫にあたる世良田親氏ちかうじは「永享の乱」で室町幕府の追及をうけて新田荘から逃れ、遊行僧となって諸国を放浪します。

のち三河国松平郷(愛知県豊田市)に移り住んで、松平信重の娘婿となり、松平親氏と名乗りました。

親氏が初代となる松平家ですが、その9代目が松平元康であり、のちに徳川家康を名乗る家康公その人です。

ちなみに、松平姓は枝分かれした他の系譜でも使用されていましたが、徳川姓は家康公の系譜のみが名乗ることを許されていました。

——というのが、家康公の自称する「新田源氏の系譜に連なる徳川家」の系図として、今日まで語られています。

真偽の程は定かではありませんが、家康公以降の徳川将軍家が長楽寺や世良田東照宮を大切にしていた事は確かです。

ぜひ、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。

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世良田東照宮(群馬県太田市)|最初の日光東照宮社殿が現存する徳川家発祥の地
金ピカの豪華絢爛な社殿で有名な日光東照宮ですが、実は最初から今の社殿ではありませんでした。 2代将軍・徳川秀忠が家康公を祀るために建てた最初の日光東照宮は、家康公の遺言により質素な社殿でした。 その後、3代将軍・徳川家光が今の金ピカ日光東照宮に建て替えたのですが、その時に最初の社殿は移築されました。 今回は、その日光東照宮の最初の社殿が現存する、世良田東照宮をご紹介いたします。
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