令和5年1月15日放送の大河ドラマ『どうする家康』第2回「兎と狼」のあらすじ紹介、感想、家康公ファン的注目ポントをまとめました。
今回は家康公の生涯を左右した、大樹寺で登譽上人から「厭離穢土欣求浄土」の教えを授けられる場面が描かれると期待していたのですが……
※ネタバレ全開で行きますので、ご注意ください。
第2回「兎と狼」あらすじ
第2回 兎と狼
2023年1月15日(日)織田軍に包囲され、絶体絶命の松平元康(松本潤)。だが、なぜか織田信長(岡田准一)は兵を引く。元康は慌てて大高城を飛び出し、瀬名(有村架純)を残す駿府に帰ろうとするが、家臣団は故郷の三河に戻りたいと猛反対。元康は渋々三河へ向かうが、敵の罠にはまり、重臣の鳥居忠吉(イッセー尾形)が大けがを負うなど松平軍は壊滅状態に。何とか岡崎の大樹寺に逃げ込んだが…。
冒頭、天文13年(1543年)三河国・岡崎城にて、松嶋菜々子さん演じる家康公生母・於大の方による出産シーンからスタート。
虎の年、虎の日、虎の刻に生まれたため、家康公は虎の化身だという於大の方。
そして前回第1回「どうする桶狭間」のラストシーンに戻ってきます。
大高城にて「撤退するか」「織田勢と一戦交えて討ち死にするか」の2択を迫られる家康公。
一旦は織田勢に包囲されるも、攻め込まずに兵を引く岡田准一さん演じる織田信長。
また回想シーンとなり、領国を今川家と織田家の両方から攻められている状況下において、家康公の父・松平広忠が家康公を安全な場所に逃がすために、松平家家臣・戸田宗光が家康公を船で駿府まで連れて行こうとした所、実は宗光は織田方と内通しており、一行は織田信長の手勢に襲撃され、家康公は織田方に拉致されます。
藤岡弘、さん演じる信長の父・織田信秀は家康公を人質として広忠を隷属させようと脅迫しますが、広忠は家康公を見捨てる選択をしたため、家康公は打ち首にされてしまいそうになります。
そこを信長が救出して、以降頻繁な回想シーンによって「かわいい子兎」と言われたり相撲をとらされぶん投げられたりなど、延々と続きます。
なぜか引き上げていった織田軍を見て、夜になったら大高城を脱出して駿府へ向かおうと決断する家康公。
しかし夜になると、三河国・岡崎城から文が届き(夏目広次が書いたと思われる)、今川家から派遣されていた岡崎城代・山田景隆が討ち死にしたという報せを受けると、三河家臣団は駿府への帰還ではなく岡崎入りを主張します。
岡崎には妻子がいると主張する家臣団と、自分の妻子は駿府にいると主張する家康公の間で言い合いとなり、ここでも「駿府で育った家康公」と「岡崎で生きている三河家臣団」の間にある溝が浮き彫りとなります。
三河国・矢作川にて岡崎へ向かう三河家臣団と別れる家康公ですが、そこで軍勢が近づいている事に気づき、一同身構えます。
軍勢は松平昌久の率いる軍勢で、家康公は家臣らの反対を押し切って、救援に来たという昌久を信じて身を晒しますが、すかさず裏切りの火縄銃を浴びせる昌久。
あれだけ反発していた本多忠勝が身を呈して家康公を守りますが、側にいた鳥居忠吉は左胸を撃たれてしまいます。
その頃、駿河国・駿府では、瀬名の父・関口氏純が受け取った文から、今川軍が続々と退却していることを知りますが、夫である家康公の行方は分からず不安な瀬名姫。
昌久による騙し討ちから逃げた家康公らは、岡崎城の北約3kmの場所にある松平家先祖代々の菩提寺・大樹寺に匿われます。
大樹寺の木の上で昼寝して住職の登譽上人から叱られる若者、後の徳川四天王が一人・榊原康政が初登場します。
負傷兵たちを見て自責の念にかられる家康公に、今はそれをいう時ではないと諭す松重豊さん演じる家康公側近・石川数正。
追ってきた昌久勢に大樹寺を包囲され、もはや逃げ場のない家康公は、境内にある松平家先祖代々の墓前に向かいます。
そこで、三河家臣団の者たちを救うために自害しようとする家康公と、その様子を偶然覗き見する康政。
家康公自害の寸前で現れたのは、何と登譽上人ではなく本多忠勝(!?)
「俺でよければ介錯してやる」と介錯人を買って出る忠勝に、無能な大将だからこれしかできぬと語る家康公。
その時、忠勝の後ろの壁に掛けられている「厭離穢土欣求浄土」の言葉を見て、家康公は「汚れたこの世を離れ、極楽浄土に行けという教えじゃ」と話します。
その様子を影から見つめている数正のところへ、酒井忠次がやってきます。
忠次が家康公自害の様子を見て止めに入ろうとしますが、数正がそれを止めます。
家康公に「私の父は、お主の父君を守って死んだ。じじ様は、お主のおじい様を守って死んだ。俺は、俺の命を捨てるだけの値打ちがあるお方を主君と仰ぎたい。それだけだ」と語る忠勝。
それに家康公が「今度はわしが、お前たちを守るために死ぬんじゃ。少しは主君として認めたらどうだ」と返すと、悔し涙を流しながら「ふざけるな!」と叫ぶ忠勝。
そして「俺の真の望みは、いつの日かお主を主君と仰ぎ、お主を守って死ぬことであったわ」と胸の内を吐露します。
「厭離穢土欣求浄土」の言葉と共に、信長による折檻時代の記憶を思い出す家康公。
「この世は地獄だ」という信長の言葉と、相撲の回想シーンが流れます。
ここで信長相手に関節技を決めた家康公に、家康公を気に入って笑う信長。
そして、覗き見していた康政が忠次に見つかりますが、そこで康政から「厭離穢土欣求浄土」について「あの世に行けという意味ではございませぬ。汚れたこの世をこそ浄土にすることを目指せ。かような意味と登譽上人様に教えてもらいました。まっ、様々な解釈があるのでしょうが、武士ならば、ましてやご領主たる身であらせられるならば、かように解釈なさるのがよろしいかと」という説明が伝えられます。
「まこと、地獄のような現世でございますからなぁ」と言い残して去っていく康政。
そして、大樹寺の山門を開門して、家康公が一人で昌久勢の前に現れます。
「松平蔵人佐元康である!」と名乗りを上げ、続けて「我ら、これより本領・岡崎へ入る! 我が首欲しければ取ってみるがよい! かかって参れ! ただし、ただし岡崎で我が帰りを待つ1,000の兵たちが怒りの業火となって貴殿の所領に攻め入るであろうからしかと覚悟せよ! また、一旦は敗れたる今川であれど、新当主・氏真様のお力で早晩立ち直るは必定! その今川と我らを一度に相手できるならばやってみよ! 三河は我が父祖が切り取った国じゃ。必ずや、この元康が今一度平定し、いかなる敵からも守ってみせる! 織田からも、武田からも守ってみせる! わしは虎の年、寅の日、虎の刻に生まれた武神の生まれ変わりじゃ!」と啖呵を切り、三河家臣団に向けて「そなたたちのことは、このわしが守る! わしが守るんじゃあ!」と叫びます。
腰を抜かす昌久の横を、家康公を筆頭に通り過ぎていく一行。
家康公の無事を祈る瀬名姫の元に、家康公が無事に岡崎入りしたという消息が伝えられます。
また「桶狭間の戦い」で信長に討ち取られた今川義元の嫡男・氏真の元にも伝えられ、今川勢の立て直しを命じる氏真。
阿部寛さん演じる甲斐の仙人虎・武田信玄が、家臣・飯富昌景(山縣昌景)に「松平の若大将、いかほどのものかよく調べておけ」と命じます。
岡崎城入りした家康公は、皆の前で演説を打って一同歓声をあげます。
最後は、家康公の誕生直後の様子として、広忠が卯年ではないかと於大の方に尋ねますが、しかし「数日早く生まれたことにすればよいのです。(中略)兎などいけませぬ、狼に狩られてしまいます」と返す於大の方。
最後は高笑いしながら「いよいよ食らいに行くか、白兎を」という信長で、待て次回。
第2回「兎と狼」感想
前回の第1回でも思いましたが、この時点で織田信長がマントを羽織った西洋風の服装をしているのは違和感を感じました。
信長が西洋人と直接の交流を持つのは、もっと後の有力者となってからではないのかなと。
そうすると、まだあくまでも尾張のうつけ者的な海のものとも山のものとも分からない奴が、今川義元を討ち取って一躍その名を轟かせたというような時点で、はたして西洋のマントを入手する機会があったのかどうか……
家康公と信長の回想シーンですが、これはおそらく(なぜか分からないけど)家康公を気に入った信長が、信忠から家康公を守ったり、戦国乱世の時代を生き抜くために強くなれという教えを叩き込もうとしたりという、家康公への信長なりのエールだったのかなと思いました。
岡田信長は不器用な人なんですね、きっと。
しかし松本家康と岡田信長のシーンは、どうしてこうBL要素的な方向性が強いのかね……
そして、三河国・矢作川にて岡崎へ向かう三河家臣団と別れる家康公の場面ですが、前回の第1回にて鳥居忠吉の忠義エピソードを丸ごとカットしてしまったせいで、ここで「フン」と言って去っていく忠吉が「ただの頑固オヤジがヘソ曲げた」的な感じにしかならなくなっています。
これでは忠吉が報われなさすぎる……どうして家康、という感じです。
歴史ファンなら登場の瞬間に「裏切り者がやってきた」と思う松平昌久ですが、演じる東京03の角田晃広さんの演技がいい味出しています。
大樹寺にて住職の登譽上人が登場しますが、こちらも演じる里見浩太朗さんがとても良い感じの貫禄ある住職感を出していて、この辺りまでは「自害しようとした家康公を登譽上人が諭して、厭離穢土欣求浄土の教えを授ける場面」に大変期待していました。
この登譽上人なら、それは家康公も人生が変わるよなぁ……と思っていました。
しかし、墓前シーンで登場したのは登譽上人ではなく、何と本多忠勝!?
そして自害するだの介錯する(切腹は中々即死できないので、切腹の直後に苦しまないように首を斬り落とす役)だの何だのという話を続けます。
いや、確かに忠勝の台詞は「先祖代々の家と家の繋がり」としての旗本のメンタリティを上手く言い表していたように思いますよ。
ただ、この場面でやる必要は全くないかなと思いました。
結局、この『どうする家康』における家康公は、登譽上人から「厭離穢土欣求浄土」の教えを授けられる訳でもなく、やや自己解決気味に決心して大樹時を包囲する昌久の前に現れ、啖呵を切って道を開けさせた訳です。
忠勝との主従の絆が生まれるエピソードは、また別の場面でしっかりと描けば良いじゃないですか。
ここの場面の改変(創作)は本当にがっかりしました。
第2回「兎と狼」家康公ファン的注目ポイント
家康公ファンの一人として、気になったポイントを挙げてみます。
家康公が織田家へ向かう事となった経緯について
『どうする家康』では、領国を今川家と織田家の両方から攻められている状況下において、家康公の父・松平広忠が家康公を安全な場所に逃がすために、松平家家臣・戸田宗光が家康公を船で駿府まで連れて行こうとした所、実は宗光は織田方と内通しており、一行は織田信長の手勢に襲撃され、家康公は織田方に拉致されるという形で描かれました。
この戸田宗光なる人物、一般的には戸田康光とされており、本来の戸田宗光の曾孫にあたる人物だそうです。
なお、この戸田宗光(戸田康光)は今川家の怒りを買い、居城の田原城を攻められて討ち死にします。
この田原城の戦いでは、井伊直虎の祖父・井伊直宗も討ち死にしています。
ここで、井伊直虎を主人公として描いた大河ドラマ『おんな城主直虎』の物語にも繋がっていく訳です。
この辺りの経緯は前後関係も含めて諸説ありますので、今回の『どうする家康』ではこの説を採用したのかぁ……という感じですね。
なぜ松平昌久は同じ松平家なのに信用ならないのか?
三河国・矢作川にて家康公らに騙し討ちをしかけてきた松平昌久ですが、彼は家康公と同じ苗字(当時の家康公は松平元康)なのに、なぜ襲いかかってきたのか。
松平家にも色々な流れがあり、元々岡崎城を領していたのは昌久の属する大草松平家でした。
しかし、昌久の父・松平信貞(昌安)の代に家康公の祖父・松平清康に敗れた結果、岡崎を清康に引き渡し、以後従属したそうです。
ちなみに、今回の『どうする家康』第2回における大樹寺包囲の一件の後、永禄6年(1563年)に「三河一向一揆」が起きると、昌久は反家康方に加わって東条城に籠城してしまいます。
なお、その後昌久は行方知れずとなって歴史の舞台から姿を消しました。
松平昌久はなぜ火縄銃部隊を組織できていたのか?
【令和5年1月22日追記】
以下、平山先生のツイートを引用させていただきます。
どなたのツィートだったかはわかりませんが、大草松平氏が鉄炮をかなり装備していることを疑問視する意見がありました。当時鉄炮はそんなに普及していなかったのでは?ってやつです。いいえ、戦国日本の鉄炮拡散の速さと数量は、外国人宣教師が信じられないと記録しているほどです。#時代考証の呟き
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 17, 2023
戦国期東海の事例をみてみますと、天文16年(家康が人質になったっていわれる時期)の合戦手負注文(遠江天野氏)には、負傷の原因が、弓矢、鑓、刀傷で、矢傷が圧倒的。その後、弘治4年(永禄1年)には鉄炮による戦死者が記録されるようになる。以後は鉄炮が普通に登場する。
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 17, 2023
鉄炮は、北条氏の事例から1挺8貫500文で、現在の50~60万円ほどとなる。三河では、米俵1俵=2斗5升入=500文であり、米1石=4俵=2貫文なので、米に換算して約4石分ということになります。それなりに高価ですな。でも当時は猟師が所持して狩猟を行っていますので、一般にもかなり普及してますね。
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 17, 2023
史料をみていくと、少なくとも永禄期までは、全国の大名、国衆、土豪、山の民、海賊衆、百姓の区別なく、鉄炮の購入を行っています。戦国大名の鉄炮衆は、こうした人々を動員したものです。大名が大量に鉄炮を一括購入し、全軍に装備したというイメージは、小説や映画の見過ぎですね。事実ではないです
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 17, 2023
三河の事例では、家康家臣深溝松平家忠が、天正6年11月11日の軍役着到で、侍85人、中間126人、鉄炮15、弓6、鑓25などと記録されています(『家忠日記』)。三河国衆ならば、深溝松平氏も15挺は装備していますね。大草松平も、数十なんて表現してなかったでしょ?10~20挺程度は保持しているんですよ。
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 17, 2023
ということで、松平昌久勢が『どうする家康』劇中にて配備していた火縄銃の数は、決して間違っていない描写だったということだそうです。
ちなみに、火縄銃のことを「鉄砲」ではなく「鉄炮」と表記されているのは、当時書かれた表記によるとのこと。
火縄銃ですのでね。だから火へん。 https://t.co/mVvvvmiDJ1
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 17, 2023
なるほど、そうだったのですね。
大変勉強になります。
大樹寺での「厭離穢土欣求浄土」の改変は何なのか?
大河ドラマは「ドラマ」ですから、全てが史実ではなく、史実と史実の隙間を創作(フィクション)で埋めたり、あるいは史実の一部を創作に改変するということは多々ありますし、それがまたドラマとしての魅力を生み出すことも分かります。
ただ、今回の『どうする家康』における大樹寺での場面は、一体なぜこんな改変をしたのでしょうか。
史実によると、大樹寺では当時住職を務めていた登譽上人が、松平家先祖代々の墓前で自害しようとした家康公に「厭離穢土欣求浄土」という仏語(仏教の言葉)を教え説き、自害を思いとどまらせました。
そして、家康公は自身の旗印に「厭離穢土欣求浄土」の八文字を掲げて、戦国乱世を戦い抜いていきます。
そのような、家康公の生涯を大きく左右した重大な出来事なのに、今回の『どうする家康』での墓前の場面では登譽上人が一切関わらず、何と代わりに本多忠勝が登場して、やれ本多家先祖代々の云々だとか、介錯してやるだとかいう話を展開して、挙げ句の果てには家康公が「厭離穢土欣求浄土」の意味を間違って覚えており、それを覗き見していた榊原康政が「登譽上人の教え」と称して本来の意味を教えるという形になっていました。
「厭離穢土欣求浄土」は家康の旗印に使われた言葉。杉野は「史実と異なるので、意外でした!史実では、上人様(登譽上人)が『厭離穢土欣求浄土』という言葉を家康に教えたと言われていますが、今回は小平太にそういう役割を与えていただいて。やっている時はあまり深く考えていなかったのですが、後々になって、これは大きなことだったと思いました。後に、家康が旗印に掲げる言葉ですから。もちろん古沢さんの創作ですけれど、意外と、そういう大事なところを持っていく人だと思っています(笑)」と述懐。
引用元:「どうする家康」旗印“厭離穢土欣求浄土”榊原康政が教えた!杉野遥亮「意外」一連の撮影「足つるかと」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
正直に言わせていただくと、この創作は全く意味がわかりません。
また、本編後の『どうする家康ツアーズ』では、松重豊さんのナレーションで「先祖の墓の前で自害を試みた家康は、登譽上人の説得により思いとどまったと伝わっています」と説明していて、史実を知らない人が観たら混乱するのではないかなぁ……とも思ったりします。
この家康公が登譽上人から「厭離穢土欣求浄土」の教えを授かる場面、例えば安部龍太郎先生の『家康』ではこの場面が実に良く描かれていて、まさに家康公が生涯をかけて掲げ続ける理想を確信する場面として、読み手にスッと入ってきます。
というより、ある意味物語としてこれほど良い題材を無駄に改変した挙句、史実と比べて全く軽い展開にして、しかも全く家康公に感情移入できない感じの場面にしてしまうというのは、明らかに脚本家の失態ではないかと思います。
この改変が個人的には大変ショックでした。
前回の第1回でも鳥居忠吉の忠義の心を全く描かず、単なる「歯が抜けて何言っているか分からないご老人」としてしか描かれなかった事がどうしても心に引っかかっていましたが、この大樹寺での「厭離穢土欣求浄土」の場面を観て、本作の脚本家は「歴史を題材にしてドラマを創作する」という事に対して、どうも私の好みとは違う価値観をお持ちのようです。
今後、どのように作品を作っていくのかは分かりませんが、先行きが非常に不安な大河ドラマだなと思いました。
【令和5年1月22日追記】
平山先生がTwitterで、この大樹寺と厭離穢土欣求浄土の話についても言及されていらっしゃりましたので、以下に一連のツイートを引用させていただきます。
(3)家康を大樹寺に包囲した敵が大草松平昌久だった話
大高城を脱出し、岡崎に帰還した家康たちが敵に攻められ、菩提寺の大樹寺に入ったというのは、地元で大変有名な逸話です。#どうする家康 #時代考証の呟き— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 16, 2023
ただ、夢を壊すようで心苦しいのですが、史料で確認できず、史実とはいえないでしょう。このことは、家康が敵に囲まれ、思いあまって父祖の墓前で自刃しようとしたのを、登誉上人に押しとどめられ、かの「厭離穢土欣求浄土」の言葉を教えられたというのも、史実かどうかは確認できません。
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 16, 2023
ただ、家康の旗印は、浄土宗の教えに由来するのは間違いないので、地元に伝わる逸話を大事にして、古沢さんが脚色したのです。ここに榊原康政をもってくるとは、と思いました。『三河物語』などでは、岡崎城に今川方が在城していたので、遠慮して大樹寺に入り、後に正式に城請取を行ったとあります。
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 16, 2023
恐らく、今川氏真の許可を待っていたのでしょう。その間、大樹寺に滞在していたことは大いにあり得る話です。家康の岡崎入城は、氏真の許可と要請によるものだというのが、近年有力視されているものです。古沢さんは、こうした新説に配慮してくださり、氏真が家康の無事を喜ぶという設定を盛り込んで
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 16, 2023
くれました。ここに、氏真を支える家康という新研究がしっかりと取り入れられているのです。ただ、大樹寺などで、家康が敵に襲われたとあるのを、どう表現するかでかなり悩みました。織田軍が岡崎に桶狭間合戦直後に攻め寄せることはありえませんし、水野信元でも不自然です。ならば、今川義元戦死と
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 16, 2023
今川軍撤退を契機に、西三河で反今川の動きが出て、家康が攻められたという設定にすることで、大樹寺の逸話を活かそうというのが今回の趣旨です。ならば敵は誰がいいか、と思っていたところ、古沢さんが大草松平昌久をチョイスしたのです。これは慧眼だと、私は膝を打ちました。大草松平氏は、
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 16, 2023
もともと岡崎城を持ち城にしていましたが、家康の祖父清康に奪われたという因縁を持っています。また、三河一向一揆勃発の際には、一揆方に荷担し、後に三河を追放されました。これならば、今川軍敗北と家康の帰還を狙って、攻撃を仕掛けてもおかしくないだろうと思いました。もちろん、大草松平雅久に
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 16, 2023
よる家康襲撃は脚色ですが、家康が三河を統一するのがいかに前途多難かを暗示する物語になったのではないでしょうか。
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) January 16, 2023
何と、大樹寺の先祖代々の墓前で自害しようとしたのも、登譽上人から「厭離穢土欣求浄土」の教えを授けられたのも、平山先生によると史料が確認できず、史実とは言えないとのことです。
それを踏まえた上で、家康公が大樹寺に逃げ込み、先祖代々の墓前で自害を試みようとする場面を用意し、そして「厭離穢土欣求浄土」の教えによって再起するという流れ自体を物語に組み込んだというのが、どうやら今回の『どうする家康』における古沢脚本の意図だったようです。
だとすると、少なくとも「重要な場面が史実に反する」という観点から言うならば、そもそも史実とは言えないから創作の範疇として問題ないし、その上で(おそらく今後の物語の内容から逆算して)この大樹寺での場面を上手く創作したと言えるのではないでしょうか。
私個人の感想としては、やはり登譽上人から直接「厭離穢土欣求浄土」の教えを授かる場面を観たかったですが、それはあくまで個人の意見として消化した上で、この『どうする家康』という作品と向き合っていきたいと思えました。
この場面の創作につきましては、この先の物語を含めて、最終話まで観終わった後で改めて考えてみるのも良いかなと思っています。
とりあえず、最終話まで『どうする家康』と放送後の平山先生のツイートを、毎週の楽しみにしていきたい所存です。
『どうする家康ツアーズ』第2回
大河ドラマの名物でもある本編終了後の「紀行」ですが、本作『どうする家康』では石川数正役・松重豊さんのナレーションで史跡や品物などを紹介すると共に、家康公役・松本潤さんが今回は岡崎城を訪れるという構成でした。
【紹介された史跡・ゆかりの地・品物など】
岡崎城
- グレート家康公「葵」武将隊
- 東照公産湯の井戸
- 龍城神社
大樹寺
- ビスタライン
- 松平八代墓
- 家康の父・広忠の墓
- 厭離穢土欣求浄土