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徳川家康公の旗印|厭離穢土欣求浄土の意味と込められた想いとは?

家康公坐像脇のぼり旗(写し)厭離穢土欣求浄土(駿府城公園東御門展示) 徳川家康公ってどんな人?

大河ドラマなど歴史ドラマの合戦シーンでは、各武将の旗印(文字などが書かれている旗)がしばしば映ります。

戦国時代の武将は、この旗印にそれぞれ様々な想いを込めていました。

中には自身の信念や思想などを表す言葉を掲げていた武将もいたようです。

有名どころだと、例えば武田信玄は孫武の『兵法』(孫子の兵法)に書かれた「疾(と)きことの如く、徐(しず)かなることの如く、侵掠(しんりゃく)することの如く、動かざることの如し」から引用して「風林火山」を旗印に書きました。

毘沙門天の生まれ変わりを名乗る上杉謙信は、沙門天の名前から1文字をとって「毘」を旗印に書きました。

日本史上最大の野戦合戦・関ヶ原の戦いにて、家康公と堂々戦った石田三成「大一大万大吉」を旗印に書いていて、これは「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味であり、三成の信念を旗印に掲げていました。

では、家康公の旗印「厭離穢土欣求浄土」とは、一体どういう意味なのでしょうか?

今回は徳川家康公の旗印に書かれた「厭離穢土欣求浄土」という言葉の意味と、その言葉に込められた家康公の想いに迫ってみます。

家康公の旗印「厭離穢土欣求浄土」という言葉の意味は?

「厭離穢土欣求浄土」という言葉は、仏教・浄土宗の言葉です。

読み方は「おんりえどごんぐじょうど」もしくは「えんりえどごんぐじょうど」と読みます。

この言葉は「厭離穢土」が「このれた国(世界)をれる」という意味で、「欣求浄土」は「阿弥陀如来の極楽浄土への往生を欣求(切望)する」という意味です。

語源は、源信の『往生要集』冒頭の章名に由来します。

駿府城で晩年を過ごした家康公ですが、その跡地に建てられた駿府城公園・東御門の展示では、厭離穢土欣求浄土の意味を以下の通り紹介しています。

厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)

厭離 けがれた、この世を嫌になり離れること
穢土 この世をけがれた世界として、いとい離れること
欣求 よろこび求めること
浄土 心からよろこんで浄土に往生することを願い求めること

“汚れた世の中を、美しい平和の世になるよう”
家康公の願いがこめられています

引用元:駿府城公園 東御門 家康公坐像脇 のぼり旗(本陣用“のぼり旗”写し)

家康公坐像脇のぼり旗(写し)案内・厭離穢土欣求浄土(駿府城公園東御門展示)

では、なぜ家康公は旗印に「厭離穢土欣求浄土」という言葉を選んだのでしょうか?

家康公はなぜ旗印に「厭離穢土欣求浄土」を書いたのか? その理由は?

家康公と「厭離穢土欣求浄土」という言葉の関係について、Wikipediaには以下の通り書かれています。

永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は自ら大軍の指揮を執り駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。5月17日(6月10日)、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌5月18日(6月11日)夜、松平元康(徳川家康)が指揮を執る三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。一方の織田方は清洲城に篭城するか、出撃するべきかで軍議が紛糾していた。

翌5月19日(6月12日)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、幸若舞『敦盛』を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前4時頃に居城の清洲城より出発。小姓衆5騎のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神宮に到着。その後、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。

(中略)

今川家の実質的な当主の今川義元や松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。

大高城を守っていた松平元康(後の徳川家康)も戦場を離れ、大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。前途を悲観した元康は祖先の墓前で切腹して果てようとした。その時、当寺13代住職登誉天室が「厭離穢土 欣求浄土」を説き、元康は切腹を思いとどまった。そして教えを書した旗を立て、寺僧とともに奮戦し、郎党を退散させた。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は今川軍の城代山田景隆が捨てて逃げた三河岡崎城にたどりついた。

尾張・三河の国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日(7月14日)に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・岡部元信以下が踏み留まって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城。駿河に帰る途上にある三河刈谷城を攻略して水野信近を討ち取るなどし、義元の首を携えて駿河に帰国したが、信近の兄の水野信元はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた重原城も奪還した。

一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。しかし元康は義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由に、今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後は美濃の斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。

引用元:桶狭間の戦い - Wikipedia(家康公に関する記述のみ抜粋)
※引用文中の赤字及び黄色マーカーは筆者による。

つまり、家康公が「厭離穢土欣求浄土」という言葉を旗印に掲げるようになったのは、この「桶狭間の戦い」での出来事がきっかけだったようです。

この「桶狭間の戦い」は2020年放送の大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれましたが、残念ながら家康公のこのエピソードは劇中で描かれませんでした(風間俊介さん演じる家康公は中々良かったですが)。

2023年放送の大河ドラマ『どうする家康では家康公が主人公ですので、家康公が大樹寺で「厭離穢土欣求浄土」の言葉と共に喝を入れられる場面は描かれるでしょう。

家康公を演じる松本潤さんがどのような演技を見せてくれるのか、今からとても楽しみですね。

また、他には以下のような説明もあります。

松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ隠れた。前途を悲観した元康は松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。

すなわち、戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味であった。

引用元:厭離穢土 - Wikipedia

こうした理由から、家康公は旗印に「厭離穢土欣求浄土」と書いて戦に臨んでいたようです。

【令和5年1月16日追記】『どうする家康』での描き方について

大河ドラマ『どうする家康』では大樹寺での「厭離穢土欣求浄土」の場面が大改編されています。

何がどうなったのか、詳細は以下の感想記事をご覧ください。

『どうする家康』感想|第2回「兎と狼」
令和5年1月15日放送の大河ドラマ『どうする家康』第2回「兎と狼」のあらすじ紹介、感想、家康公ファン的注目ポントをまとめました。 今回は家康公の生涯を左右した、大樹寺で登譽上人から「厭離穢土欣求浄土」の教えを授けられる場面が描かれると期待していたのですが……

家康公はいつから「厭離穢土欣求浄土」の旗印を使い始めたのか?

実は「厭離穢土欣求浄土」と書かれた旗印を最初に使い始めたのは、徳川家康公ではありません。

「厭離穢土欣求浄土」と書かれた旗印を最初に使い始めたのは、家康公の6世祖父にあたる松平家第4代当主・松平親忠だったと『東照宮御実記』に記されています。

厭欣旗

御旗はその当時、右京亮親忠(松平親忠)君が井田野合戦のとき、大樹寺の開祖である勢誉上人が作って送らせた「厭離穢土欣求浄土」と書いた白い四半五幅の旗を、昔からの御佳例で用いられた(これは筑紫陣(朝鮮出兵か)のときも用いられ、また、大坂夏の陣のときも、御吉例といって箱に納めて御輿の傍らにお持ちになられたという)。
その後、七本の白旗一幅に、長さを一丈八尺にして葵の丸を三つ黒く付けて、まねぎ(まねき)も白いものを用いられた。

引用元:大石学他[2012]『現代語訳徳川実紀 家康公伝5【逸話編】家康をめぐる人々』(吉川弘文館)P.172

ただし、上記の『東照宮御実記』については以下のように付記されています。

考えてみるに、厭欣の御旗は諸説さまざまであり、親忠君の時代から用い始められたといい、また清康君(松平清康)の御事(守山崩れ)があった後、織田信秀が三州(三河国)へ乱入したときに、大樹寺の登誉上人がこれ(御旗)を利用して防戦し勝利を得たので、御嘉例で後々も用いられたともいい、また(家康が)大高城を退去されたとき、大樹寺の鎮誉が書いて献上したといい、あるいは一向一揆の乱のとき、かの門徒と間違わないため浄土宗の旗はこの句を書いて掲げたともいう。いずれにしても古くから利用されており、今は日光山の御神宝として、この御旗を収蔵されているという。

引用元:大石学他[2012]『現代語訳徳川実紀 家康公伝5【逸話編】家康をめぐる人々』(吉川弘文館)P.173

なるほど、つまり結論としては「諸説ある」ようですね。

ただ、家康公がいつから「厭離穢土欣求浄土」の旗印を使い始めたかという疑問については、おそらく「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に討ち取られた後、家康公が大高城から退去して大樹寺境内の松平家先祖代々の墓前にて自害しようとした一件以降が有力なようです。

しかし、もう一つの説である「三河一向一揆の時に、味方を敵方(一向宗)と見分けるために浄土宗の言葉を旗に書いた」という説も興味深いですね。

いずれの説にしても、家康公はまだ若い頃から「厭離穢土欣求浄土」の旗印を使っていた事は確かなようです。

まとめ

徳川家康公が旗印に「厭離穢土欣求浄土」と書いた理由とその意味は、以下の通りです。

  • 元々、家康公は浄土宗を信仰していた(「厭離穢土欣求浄土」は浄土宗の言葉)。
  • 「桶狭間の戦い」で切腹しようとした時、大樹寺の登誉天室住職に「厭離穢土欣求浄土」と説かれて切腹を思い留まった
  • 以降、家康公は「穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない」という想いを込めて、旗印に「厭離穢土欣求浄土」と書いて掲げた。

以上が、徳川家康公の旗印「厭離穢土欣求浄土」という言葉の意味と、そこに込められた想いでした。

他の武将の旗印についても色々と調べてみると、その武将の人柄や願いなどがより一層分かって面白いかもしれませんね。

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「徳川家康公ってどんな人?」と質問されたら、あなたはどう答えますか? 「織田信長・豊臣秀吉と比べると、何か地味な人」「忍耐の人」「何となく運が良くて天下人になった人」「ケチ」といった答えをするのも、確かにどれも間違ってはいないと思います。 ですが、家康公の魅力はそれだけではありません。

↓「厭離穢土欣求浄土」の文字が刻まれた家康公の騎馬武者像↓

徳川家康公騎馬武者像(愛知県岡崎市)|珍しい騎馬武者姿の家康公銅像
徳川家康公騎馬武者像は、家康公が松平姓から徳川姓に改姓した25歳当時の姿を模した銅像です。 日本最大級の騎馬像であり、家康公の銅像としてはおそらく唯一の騎馬武者姿の銅像です。 令和元年11月2日に完成したため、現在最も新しい家康公の銅像ではないでしょうか。
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