史跡徳川将軍小杉御殿跡は、かつて小杉御殿のあった跡地のことであり、現在は神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目の中原街道沿いにその記念碑が建立されております。
中原街道はまだ東海道が整備される前の時代、徳川家康公が江戸ご入府や鷹狩りなどに利用し、小杉御殿も利用しておりました。
東海道が整備されて以降は利用されなくなり、徐々に寂れていき、今日ではその遺構もほぼ残っておりません。
史跡徳川将軍小杉御殿跡
今日、中原街道沿いに史跡徳川将軍小杉御殿跡の石碑が建立されております。
武蔵小杉駅から徒歩15分程度で着く場所ですが、駅前から川崎市の市バスを利用して西明寺前バス停で下車すればかなり近いです。
石碑は西明寺の門前にあります。
石碑の裏側には、以下の通り碑文が刻まれております。
史跡徳川将軍小杉御殿跡
小杉御殿はこの附近東西旧多摩川河畔迄約四万平方米の地に一六〇八年(慶長十三年徳川秀忠の代)造営され一六七二年(寛文十二年徳川家綱の代)に全部撤收となったものである
昭和四十四年二月
武蔵中原観光協会建之
小杉御殿とは
小杉御殿は慶長年間に仮の御殿が建立され、後に寛永17年に正式な御殿が建立されたようです。
その様子は『新編武蔵風土記稿』に以下の通り描かれております。
古蹟小杉御殿蹟
村の中程にあり、此御殿は昔將軍家此處へ御鷹狩の頃、又は相州中原の御殿へ渡らせたまふ時、御中やとりの爲に慶長の頃此所にかりの御殿出來しなり、その後寛永十七年新に御造立有て、安藤市郎兵衛小俣平右衛門といひしもの兩人その事をうけたまはれり、その頃のさまは表御門裏御門などいかめしくして、御門の外には下馬札を立られ、内には御馬屋敷郷蔵御賄屋敷御殿番屋敷などさま〲たちつゝけり、しかるに明暦元年に至りその御殿の造骨をわかちて、品川の東海寺に賜はりしかば、其頃よりはわたらせたまうこともまれ〱になりしにや、寛文十二年にのこれる御殿をば江戸上野の弘文院へ賜はりしと云、或は萬治三年に御殿を悉く廃せられしともいひ、又寛文元年御殿地の内にありし竹木等も御拂となりしかば、その頃御殿をまもりし井出七郎左衛門願ひあげしにより、かの竹木及び三千坪餘の地をば其まゝ同人にたまはれりと、今は昔田地となり御守殿跡とで、纔に二百坪餘長く除地となれり、そこに稲荷の小祠をたつ、かの子孫は清五郎とて江戸に居り、當所にも子孫のこり喜左衛門といひて世々この所に居り、今もその地を進退す、
引用元:蘆田伊人[1981]『大日本地誌大系9新編武蔵風土記稿第3巻』(雄山閣)P.195「新編武蔵風土記稿巻之六十四 橘樹郡之七 古蹟小杉御殿蹟」
とても立派な御殿が立っていた事が分かります。
中原街道 枡形による防衛
小杉御殿は中原街道に面した地に建てられました。
中原街道とは、現在の神奈川県平塚市中原から江戸城虎ノ門までを結ぶ街道であり、東海道が整備されるまでの間よく利用されていた道です。
6 江戸幕府のころ
(1)二ヶ領用水と小杉御殿
小杉宿と中原街道中原街道は、家康が鎌倉街道を改修し、好んで利用した道で、東海道が整備されるまでは天下の公道であった。起点は今の平塚市の中原であった。中原は、関東を支配した後北条氏の拠点、相模国の中原(ちゅうげん)にあり、それだけに新しい関東の主家康にとって重要な所であった。(中略)中原街道は、その中原にちなんだ名称で、そこから用田、瀬谷、左江戸(中山の時もあった)の宿を通り、市場で開けた小田中、宿の小杉、渡しの丸子をへて江戸虎の門から江戸城に入った。
引用元:新中原誌刊行会[1977]『川崎 新中原誌』(株式会社有隣堂)P.185
この中原街道ですが、小杉御殿を通過する場所では直角のカーブが2連続する鍵型道路となっております。
写真は中原街道を東京側から戸塚方面へ向かう写真です。
カーブの右側に小杉御殿跡の石碑が建っております。
小杉御殿の石碑側から撮影した写真です。
この手前のカーブの後、すぐに連続してもう1つ直角のカーブが続きます。
もう1つのカーブは現在、西明寺交差点となっております。
なぜ小杉御殿の所で中原街道が鍵型になっているかというと、枡形の城門と同じ理屈で防御力を高めるための工夫であり、万が一、小杉御殿に滞在中の家康公や徳川将軍らを狙って敵が攻めてきた際には、直角のカーブを曲がる際に行軍速度が落ちる敵を御殿側から攻撃して撃退するための仕掛けとして、あえて中原街道を鍵型に曲げたという訳です。
【枡形の城門について詳しくはこちら】
小杉御殿跡
小杉御殿は既に遺構が残っておらず、今日では御殿跡に石碑が建つのみです。
ですが、かつて小杉御殿があった頃は、以下のように賑わっていたそうです。
6 江戸幕府のころ
(1)二ヶ領用水と小杉御殿
小杉御殿(中略)域内には、乱があれば城塞となる妙泉寺、西明寺、泉沢寺が並んでいた。豊臣方の勢力が関西に余力をもっていた当時、誕生したばかりの江戸幕府にとって、多摩川は江戸防衛にも大切であった。その流域の小杉周辺は、古くから鎌倉への道や小田中の市で開けていたうえ、幕府の防衛的地点としてのあらたな性格が加わり、その様相を一変しつつあった。1608(慶長13)年、小杉陣屋の西側一帯に、第2代将軍秀忠が仮御殿を建てたのもそのひとつである。1606(慶長11)年、江戸城の拡張工事が完了するころから、西国の大名の参勤がふえた。仮御殿は、そうした大名たちの宿舎にも供され、家康以下、綱吉までの将軍とその一族の領内視察や鷹狩りなどにも用いられた。そのころ小杉には、城下町づくりのかぎ形の道が造られ、小杉陣屋を中心とする用水工事による人々の出入り、時には将軍や大名の行列が泊まるなどして、それまでの村では想像もできないことがおきていたのである。
引用元:新中原誌刊行会[1977]『川崎 新中原誌』(株式会社有隣堂)P.184~P.185
龍宿山金剛院西明寺
西明寺の門前にはその縁起が書かれておりますが、その中に家康公に関する事も書かれております。
近世徳川家康公も小杉御殿の隣地西明寺を崇敬し境内を殺生禁制の地と定め祈祷料として御朱印地を寄進された。
引用元:龍宿山金剛院西明寺縁起
西明寺の発祥は弘法大師・空海にまで遡り、また鎌倉幕府5代執権・北条時頼の信仰も篤かったとの事です。
小杉御殿跡を見物の際は、ぜひ参拝してその歴史に触れてみてはいかがでしょうか。
本多正信による大久保忠隣失脚の謀略が行われた場所
徳川家重臣の小田原城主・大久保忠隣(ただちか)が失脚する事件がありましたが、一説によるとその失脚は家康公唯一無二の謀臣・本多正信が仕掛けた謀略とする説があります。
正信は家康公の寝所(寝室)に帯刀したまま入ることを許されていた唯一の家臣であった、というほど家康公からの信頼厚い謀臣でした。
本多正信関係史跡案内
中原街道御殿(神奈川県川崎市)慶長十九年正月六日、家康は鷹狩りで中原に出むいて滞在した。この御殿は『徳川実紀』は中原となっているが、新規造営の中原街道小杉御殿と比定する。ここに小田原城主大久保忠隣反逆との情報が入った。家康は正信と相談し、正信を江戸の秀忠に急報させたが、これは冤罪であった。
(中略)正信は小杉御殿の家康との密談で忠隣を庇ってはいない。このあと、家康は小田原城破却命令と京都にキリシタン取り締まりで出張中の忠隣に近江流罪を伝えた。この小杉御殿は四第将軍家綱の寛文十二年(一六七二)、全部撤去されて消滅した。
引用元:山本純美、他[2002]『別冊歴史読本(第27巻7号)No.596 戦国13人の名軍師』(別冊歴史読本)P.143
ただし、この大久保忠隣失脚の事件については諸説あり、本多正信・正純父子による謀略を否定する説があります。
なお、本多正信・正純父子が、政敵である忠隣を追い落とすための策謀を巡らせたとする見解も江戸時代からある。正純は岡本大八事件に部下が関与したことで政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣を排斥することで足場を固めておきたかったとする。『徳川実紀』も本多父子による陰謀説を支持している[9]。ただし、当時の史料でこの点に触れたものは無く、ただ細川忠興が書状で忠隣改易により、正信の権勢は以前の10倍になったと評している[10]。正信は配流後の忠隣へ、小田原にいる忠隣の母と夫人の無事を伝える書状送っており[11]、先述の起請文が出される原因となった忠隣と親しい者に該当する。また、大久保忠教も正信が忠隣に恩があることから両者の諍いは作り事と断じている[12]。また、豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、和平論を唱える可能性のあった忠隣を遠ざけたとする説もある[11]。
出典
9.藤野保『徳川幕閣』p97-98。
10.『細川家記』
11.三津木国輝『大久保忠世・忠隣』名著出版、2000年
12.『三河物語』
正信は若かりし頃、三河一向一揆に一揆側として参加して家康公と敵対して戦い、一揆鎮圧後は家康公の元に戻る一向宗の家臣らとは異なり、諸国を放浪する旅に出ました。
その期間に、正信の妻子を面倒見ていたのが忠隣であり、後に正信が家康公の元に帰参する際に取りなしたのも忠隣でした。
このように、正信にとって忠隣は恩人に当たりますので、謀略にかけて失脚させたとは考えにくいのではないでしょうか。
【追記】令和2年4月2日
この大久保忠隣失脚に関して本多正信が関わり、その謀略の舞台が小杉御殿であったとする説について、以下の文献を見つけました。
なお、家康一行は六日に中原御殿に到着している。翌七日に小田原に赴くことになっていたため、供奉している者たちは、中原御殿で次の荷物の移動の準備にとりかかっていた。このとき武田氏の親類衆の一人であった穴山玄蕃守信君の旧臣馬場八郎左衛門が封事(意見)を家康に差し出し、小田原城主大久保相模守忠隣に叛逆の企てがあることを訴えたのである。これについては、『武徳編年集成』(巻六二)に詳しい。それによると、八郎左衛門は、穴山信君(梅雪)の家老であった。はじめ家康の四男である水戸城主万千代(武田信吉)に付けられたが、家臣との間に争いを生じて小田原城へ貶謫(官位を下げ、遠地に移すこと)とされることになった。そして数年後、忠隣のもとで蟄居していたが、やがて八〇歳余となり、虚妄なことを訴え出たと記している。
この封事を受けた家康は大いに驚き、側近の本多正信に忠隣の行動について尋ねるとともに、その所業を調査することを命じている。家康はそのまま中原御殿に滞在したが、十二日には江戸から土井大炊頭利勝がきて、密かに秀忠からの連絡を受けている。これによって十三日に家康は、江戸に向かって中原御殿を出発し、同日「武州小杉ノ旅営迄至らせ玉ふ、夜半台徳院(将軍秀忠)爰に出御、御密語あり」(『武徳編年集成』巻六二)とある。(中略)十三日夜半、小杉御殿まで出迎えた秀忠と密談した結果、秀忠はその夜急ぎ江戸城に戻り、家康は翌十四日に江戸城西の丸に入り、改めて秀忠と対面している。そして、同日成瀬隼人正正成が使者として駿府に赴いた。
このように、家康は譜代の功臣である小田原城主大久保忠隣の叛逆についての訴えを受けたが、中原御殿から東海道を下って江戸城へ直行せず、一応、中原往還筋を通って小杉御殿に一泊し、ここで将軍秀忠と密かに打合せを行なっている。この小杉御殿での密談が、翌十九年正月の大久保忠隣の改易、さらに十月の大坂冬の陣という政治事件を企図したものであったとするならば、幕府政治の上できわめて重要な会談であったということができる。これによっても中原往還筋の小杉御殿は、官道である東海道筋の藤沢御殿・神奈川御殿とは異なる位置にあったといえよう。
引用元:村上直[2004]『江戸近郊農村と地方巧者』(有限会社大河書房)P.50〜P.51
著者の村上直法政大学名誉教授は日本近世史を専門とされ、小杉御殿のある神奈川県川崎市の図書館広報誌『かわさき図書館だより』に連載を持つなどされております。
大久保忠隣の失脚事件を本多正信が企図したか否かは諸説あり分かりませんが、少なくとも小杉御殿が失脚事件の重要な舞台であったことは確かなようです。
(追記終わり)
小杉御殿跡の三稲荷
先述の通り、小杉御殿は既に喪われており、現存しておりません。
しかし、その跡地には御主殿稲荷、御蔵稲荷神社、陣屋稲荷という3つの稲荷社(三稲荷)が建てられており、現在も参拝することができます。
三、小杉御殿跡
(中略)明暦元年に御殿を分ちて品川東海寺へ、寛文十二年殘りを上野弘文院へ賜はつた。或は万治三年とも云ふ、地内にあつた竹木三千餘坪は、御殿番井出七郎左衛門へ下賜せられた。其子孫今尚小杉に住む。一名横道と唱へらるゝ家である。却說御殿跡に、御主殿、御藏、陣屋の三稲荷今尚存せり。
引用元:安藤豊作[1933]『中原町誌-川崎中原合併記念-』(中原靑年團)P.147〜P.148「第十六章名勝=由蹟 三、小杉御殿跡」
小杉御殿跡の敷地内に建てられているため、御殿跡を見学したその足でお参りしてみてはいかがでしょうか。
御主殿稲荷
小杉御殿跡の石碑から徒歩で少しの場所に、ひっそりと御主殿稲荷があります。
御主殿稲荷とは
御主殿稲荷は、小杉御殿の御主殿跡に建立された祠です。
6 江戸幕府のころ
(1)二ヶ領用水と小杉御殿
小杉宿と中原街道(中略)1640(寛永17)年に、仮御殿は本格的な御殿として造りかえられ、西明寺前の約4haの敷地にそびえた。(中略)しかし、小杉御殿は、1655(明暦1)年、その一部を品川の東海寺に与え、1660年(万治3)年には、江戸上野の弘文院に与えて姿を消した。土地の約3分の1は御殿番井出七郎左衛門にたまわった。その子孫は小杉御殿跡の井出家で、御殿の御主殿(将軍の使用する建物)跡に建てられたという「御主殿稲荷」周辺を今も守っている。
引用元:新中原誌刊行会[1977]『川崎 新中原誌』(株式会社有隣堂)P.185
また、御主殿稲荷の前には「川崎歴史ガイド 中原街道ルート」の案内板『小杉御殿の御主殿跡』も設置されております。
この御主殿稲荷が小杉御殿の御主殿跡である事が書かれております。
御主殿稲荷
御主殿稲荷の祠です。
なお、祠の扁額には『御主殿稲荷』ではなく『御守殿稲荷』と表記されております。
御蔵稲荷神社
小杉御殿跡から北に向かうと、御蔵稲荷神社があります。
御蔵稲荷神社とは
御蔵稲荷神社は小杉御殿の御蔵跡に建てられた事がわかります。
また、二代将軍徳川秀忠公小杉御殿跡の石碑があります。
碑文はこちらです。
御蔵稲荷神社
御蔵稲荷神社の祠です。
階段をよく見ると、文字が刻まれています。
陣屋稲荷
陣屋稲荷は小杉御殿跡の石碑から北東の位置、住宅地の中にあります。
陣屋稲荷とは
陣屋稲荷は、徳川家康公の命により二ヶ領用水の工事を行った小泉次大夫の陣屋跡に建てられた稲荷社です。
小杉陣屋町という地名の由来も、この小泉次大夫の陣屋があった事に由来するそうです。
6 江戸幕府のころ
(1)二ヶ領用水と小杉御殿
二ヶ領用水と小泉陣屋家康は、天下の形勢を見ながら関東の経営に力を入れ、とくに江戸と結ぶ交通網の整備、江戸周辺の治水と新田開発に意を用いた。1597(慶長2)年、領内視察のため多摩川沿岸を巡視した家康に、小泉次大夫は、二ヶ領用水と六郷用水開さくによる新田造成を進言した。(中略)家康は、次大夫を代官にし(1601―慶長6年)、人足を天領だけでなく、旗本領などの私領からも徴発できる権限を与え、工事の完成に特別の配慮をした。
(中略)
次大夫は、この工事を進めるために小杉村に陣屋を置いて、そこで指揮をした。その付近は今でも陣屋町といい、江戸時代中ごろに建てられたと伝えられる陣屋稲荷がある。その北方、多摩川旧堤までの所に、次大夫が建立した妙泉寺の跡がある。次大夫は日ごろ帰依した僧日純を、房州小湊の妙本寺からここに招いたが、2代将軍秀忠も気に入り、しばしばこの寺を利用した。『中原町誌』によると、1597(慶長2)年、家康が入府の際、秀忠は妙泉寺まで迎えに出、茶室で日純と語ったとある。
(中略)今、妙泉寺跡には日純の建てた1618(元和4)年と1639(寛永16)年の碑があるが、その当時と以降の妙泉寺については、ほとんどわからない。
引用元:新中原誌刊行会[1977]『川崎 新中原誌』(株式会社有隣堂)P.182~P.184
【関連記事】徳川家康公が小泉次大夫に作らせた二ヶ領用水
二ヶ領用水は小杉御殿跡の付近も流れており、ちょうど中原街道と交差する地点があります。
徒歩10分程度で着きますので、ちょっと寄り道してみてはいかがでしょうか。
また、二ヶ領用水は桜や桃の名所でもありますので、特に春は散歩するにも気持ち良いかと思います。
陣屋稲荷
陣屋稲荷の祠です。
祠の前には狛狐があります。
向かって右側の狛狐の裏側には「大正十年二月初午」と刻まれています。
大正10年に置かれた狛狐という事は、99年前に設置されたという事ですが、しかし、残念な事に左側の狛狐は頭部がありません。
さいごに
今回は、徳川家康公ゆかりの地として小杉御殿跡を訪れました。
遺構がない中でも、中原街道の鍵型道路などにその名残を見る事ができました。
また、小杉御殿の跡に建てられた三稲荷は、江戸時代から受け継がれてきた歴史ある稲荷社でした。
すぐ側に武蔵小杉のタワーマンションがそびえる中、このような史跡が残されている事に感謝の念を抱きました。
これからも、家康公ゆかりの史跡として残され続けていく事を願います。
案内情報
- 名称:史跡徳川将軍小杉御殿跡(小杉御殿跡・御主殿稲荷・御蔵稲荷神社・陣屋稲荷)
- 住所:神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目~小杉陣屋町2丁目
- 交通:JR横須賀線、JR南武線、東急東横線「武蔵小杉駅」下車徒歩15分
史跡徳川将軍小杉御殿跡
御主殿稲荷
御蔵稲荷神社
陣屋稲荷
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