夏目次郎左衛門吉信の碑は、静岡県浜松市にある犀ヶ崖古戦場の向かいにある記念碑です。
夏目吉信は徳川家康公の家臣でしたが、三河一向一揆の際には他の家臣らと共に離反して家康公に刃を向けました。
しかし捕縛された際、家康公の寛大な処置により許されます。
この時の恩義を忘れなかった吉信は、後年「三方ヶ原の戦い」において、家康公が武田信玄に敗れて浜松城へ逃げ帰る際に、家康公の身代わりとなって武田勢と戦い、犀ヶ崖の近くで討死を果たしました。
そのおかげで、家康公は無事に浜松城まで退却することができました。
夏目吉信「三河一向一揆」での恩義と「三方ヶ原の戦い」での討死
夏目家は、松平家(徳川に改姓する前)に古くから仕えてきた譜代の家柄です。
Wikipediaに略歴がまとまっていましたので、引用します。
夏目氏は古くから松平氏(徳川氏)に仕える譜代衆であった。
永正15年(1518年)、夏目吉久の子として、三河国幡豆郡豊坂村にて誕生。
(中略)永禄5年(1562年)に板倉重定を攻めた三州八幡合戦(八幡村城)の際には、今川氏の攻撃で家康(元康)方が総崩れになった際、殿を務めて、国府までの間、6度踏み止まり奮戦したという。後に家康から軍労を賞され備前長光作の脇差を賜った。ところが、永禄6年(1563年)に三河一向一揆が起こると一揆側に加担し、大津半右衛門・乙部八兵衛・久留正勝ら門徒と共に野羽城(六栗城との説も)に籠って松平家康(後の徳川家康)に叛いて敵対した。(中略)後に忠義の士であるとして、伊忠が家康に嘆願して正式に帰参を許された。同年7月3日、三河・遠江の郡代となる。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いの時、吉信は浜松城の留守居だったが、櫓に登って戦場を遠望して味方が敗色濃厚なのを知って家康の救援に向かう。退却を進言するが、止めるのも聞かず家康が決死の突撃をしようとするので、説得を諦めて、強引に乗馬の向きを変えて、刀のむねで打って奔らせた。家康を逃がすために、25騎を率いて武田勢の追手に突入して奮戦。身代わりとなって戦死した。享年55。
引用元:夏目吉信 - Wikipedia
永禄6年(1563)に起きた「三河一向一揆」では、家康公の家臣の約半数が一揆側として戦いました(一揆側の中には、後に家康公の謀臣として大活躍する本多正信らもいました)。
この三河一向一揆での離反の罪を家康公に許され、家臣に戻ることを許してもらった恩を胸に、吉信は三方ヶ原の戦いで家康公を守り討死を果たしました。
家康公に仕える三河武士団には、吉信のような忠義の武士が多数いました。
それこそが、若かりし日の家康公を支え、活路を切り開いた大きな要因であった事は明白です。
なお、明治の文豪として名高い夏目漱石は、この吉信の子孫に当たります。
夏目次郎左衛門吉信の碑
こちらが、夏目次郎左衛門吉信の碑です。
現在は、記念碑と共に案内看板が立てられています。
夏目次郎左衛門吉信の碑
家康公の身代わりとなった勇猛な家臣夏目吉信は、1563(永禄6年)の三河一向一揆の時に捕らえられ処刑されるところを、家康公の寛大な処置により助けられました。以来この恩義を忘れることが無かった吉信は、三方ヶ原合戦の際、主君家康公の身代わりとなって敵陣の前に立ちはだかり、討死したといわれています。
引用元:案内看板『夏目次郎左衛門吉信の碑』
こちらが、記念碑の碑文です。
記念碑には公爵・徳川家達の書により「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」と書かれています。
この『夏目次郎左衛門吉信の碑』は「浜松家康の散歩道」のコースでもあります。
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アクセス・案内情報
- 名称:夏目次郎左衛門吉信の碑
- 住所:静岡県浜松市中区布橋2丁目13(犀ヶ崖古戦場の向かい側)
- 交通:浜松駅から遠鉄バス「さいが崖」バス停下車徒歩約1分