今回は、徳川家康公が詠んだ和歌を特集します。
和歌は奈良時代末期に成立した『万葉集』など、日本における伝統芸能でも特に古い歴史を持ちます。
そんな和歌は詠み手の人間性や価値観、経緯や背景、理想や信念が滲み出るものではないでしょうか。
家康公が詠んだ和歌から、家康公の人柄に迫ってみたいと思います。
また、家康公の嫡男にして徳川幕府二代将軍を務めた徳川秀忠、家康公の次男ながら数奇な運命を辿った結城秀康、外様大名ながら家康公から譜代大名並みの待遇を受けた藤堂高虎、今川義元の嫡男にして今川家滅亡後も家康公と親交のあった今川氏真、日本史上最大の野戦合戦「関ヶ原の戦い」で家康公と渡り合った石田三成らの和歌もご紹介します。
それでは、家康公たちの和歌を見てみましょう。
※新たな作品を発見次第、随時追記していきます。また、未掲載の和歌をご存知でしたら、筆者Twitterまで情報提供いただけますと幸いです。
徳川家康公の詠んだ和歌
徳川家康公の詠んだ和歌を、年代順にご紹介します。
永禄6年(1563年)
幾ちとせ籬の菊の色に香に君が今年の榮え增すらむ
(幾ちとせ籬の菊の色に香に君が今年の栄え増すらむ)
出典:富士之煙(近藤守重[1817]『不尽の煙』)
富士之煙。永祿六年七月、松平元康名を家康と改む。富士之煙は寫本にて傳はり、徳川將軍家の和歌を蒐めしもの。序文の末に「文化十四年丁丑四月十七日、御書物奉行臣近藤重藏藤原守重敬記」とあり。すなはち幕府の書物奉行近藤守重の編にかゝり、各の歌に正確なる出典を示せり。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.125
籬とは、竹や柴などで作った目の粗い垣根のことです。
家康公は永禄元年(1558年)に松平元康と名乗り始め、永禄6年(1563)7月6日〜10月24日の間に松平家康に改名しています。
永禄3年(1560年)に「桶狭間の戦い」が起こり、実質的な主君だった今川義元が織田信長に討ち取られ、また家康公自身もその後、今川家から独立して岡崎城を拠点に三河平定を開始しました。
この和歌が詠まれた永禄6年は数え年で、家康公22歳の年でした。
家康公は、どのような心境でこの和歌を詠んだのでしょうか。
天正3年(1575年)
ころは秋ころは夕ぐれ身はひとつ何に落葉のとまるべきかは
出典:富士之煙(近藤守重[1817]『不尽の煙』)
富士之煙。「ころは秋」云云「口碑、長篠御陣のころの御詠」と註あれども疑はし。長篠役は夏五月の事なり。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.151
家康公がこの和歌を詠んだ天正3年(1575年)は、織田信長・徳川家康公と武田勝頼の間で「長篠の戦い」が行われました。
前景の引用文献に記されている通り「長篠の戦い」において、設楽原にて両軍本隊が激突したのは天正3年5月21日でした。
従って「ころは秋」というこの和歌が詠まれた時期は、かの「長篠の戦い」出陣中でなかったと考えられます。
ただ、一大決戦に臨む家康公のナーバスな心情が読み取れるという解釈もできそうですね。
天正12年(1584年)
さきがけて火花を散らす武士は鬼九郎とや人は言はまし
出典:富士之煙(近藤守重[1817]『不尽の煙』)
富士之煙。「小牧御陣の時簗田彌二九郎へはらひ切月山の刀を賜はりし時添て賜はりし御詠」と註す。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.172
※引用文中の「簗田彌二九郎」は「梁田弥二九郎」。
天正12年(1584年)、家康公と羽柴秀吉が戦った「小牧・長久手の戦い」において、家康公が家臣の梁田弥二九郎の武功を讃えて詠んだ和歌です。
小牧御陣とあるので、小牧山城に在陣中のことと思われます。
月山の刀というのは、鎌倉期から室町にかけて活躍した刀工とその一派・月山の刀を下賜したということでしょう。
武士が武人らしく武芸に励み、合戦においては勇ましく戦う武士を好んだ家康公らしい、力強い作風の和歌ですね。
天正14年(1586年)
徳川の家に傳ふる古箒落ちての後は木の下を掃く
※作者不詳
出典:關侍傳記(関侍伝記)6巻
關侍傳記巻之六「佐竹對陣の事」。秀吉家康小牧對陣も和議成りし頃、徳川氏譜代の家老石川伯耆守は何故か家康を離れて秀吉の部下となる。諸人これを嘲り、伯耆守の門に右落首をなすと云。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.174
この和歌は家康公の詠んだ和歌ではありませんが、関わり深い和歌ですのでご紹介します。
天正13年(1585年)11月13日、家康公を古くから支えてきた側近中の側近の一人・石川数正が、突如として徳川家を出奔して豊臣秀吉の家臣になってしまいます。
この出奔事件を受けて、誰かが数正の屋敷の門に落書きしたのがこの和歌です。
和歌中の「古箒」は数正の官職「伯耆守」をもじったもの、「落ちての後」は家康公の元を去り秀吉の軍門に降ったこと、「木の下を掃く」は秀吉がかつて「木下藤吉郎」を名乗っていたことにかけて秀吉に臣従する数正の有り様を表現していると思われます。
天正16年(1588年)
綠立つ松の葉ごとにこの君のちとせの數を契りてぞみる
(緑立つ松の葉ごとにこの君のちとせの数を契りてぞみる)
出典:聚樂第行幸記(聚楽第行幸記)・豊鑑
聚樂第行幸記及び豊鑑に據る。題は詠寄松祝和歌。行幸は天正十六年四月の御事にして五日間御駐輦あり。歌會は十六日。作者約七十人、過半は公卿堂上の人々なり。衆妙集に「聚樂行幸の御會に人々にかはりて寄松祝といふことを」と詞書せる五首の中に、秀次・氏郷・沙門道林に代りて作りし三首あることは注意に値す。當時代作はしきりに行はれたるが如し。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.182
行幸とは、天皇が外出することを言います。
秀吉の築いた京都・聚楽第への行幸は、天正16年(1588年)と1592年(天正20年)の2回行われました。
この和歌は天正16年(1588年)、秀吉が正親町上皇と後陽成天皇を招いた行幸の折に、秀吉を始め諸大名らが詠んだ和歌の1首です。
その折、秀吉は天下人の実力を背景に、並み居る諸大名に対して、天皇を尊崇すべきことを誓わせた一事が見られるが、その折に秀吉はさらに、自らも和歌を詠じて奉っているほか、並み居る武将に献上歌を強制的に作らせているのである。そのときの家康の歌は、
緑立つ松の葉ごとにこの君のちとせの数を契りてぞみる
というのであった。
(中略)家康の歌は――緑の松の葉にはたくさんの葉がついているが、その葉の一本一本ごとに後陽成天皇の千年の御歳を契ってみた――という意味である。表には天皇の千歳を祝するような言葉づかいではあるが、それは家康その人が、天皇をお迎えして得た喜びではなく、言ってみれば、つくろった喜びのみせかけでしかない。
心の真実をありのままに詠んでいないか、それとも、もっと悪いことになるが、天皇の行幸を秀吉のように喜ぶ心を持ち得なかったか、どちらかであったわけである。従って歌の末尾の「契りてぞ見る」という"試み""遊び"にちかいものがうかがわれる言葉でむすばれてしまっているのであろう。
(中略)天皇をお迎え申し上げた喜びを、胸の底から感じたであろう秀吉は、その思いをそのまま表現し得た"まごころ"がうかがい知れるのに対して、家康の方は、心から感激したのかしないのか、全くわからない人物であり、かつ歌はまごころではなく、理くつのうた、つくろった歌でしかなかった。
引用元:小田村寅二郎[1971]『日本思想の源流:ー歴代天皇を中心にー』(公益社団法人 国民文化研究会)
考えてもみれば、秀吉にとっては快挙を成し遂げた行幸でしたが、その秀吉の傘下に入らざるを得なかった家康公にとっては、内心面白くなかった(少なくとも、心から嬉しいという訳ではないだろう)と思われますが、それを上手く取り繕うのもまた家康公の手腕なのでしょう。
文禄3年(1594年)
咲く花をちらさじと思ふみ吉野は心あるべき春の山風
出典:吉野山御會御歌(吉野山御会御歌)
文祿三年吉野山御會御歌。(中略)「文祿三年二月二十九日關白殿吉野の花御覧の時人々つかうまつりけるに、花の祝を」と詞書して出。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.205〜206
關白=関白とは秀吉のことです。
この和歌は、吉野の山で秀吉主催の花見の席が設けられた折に詠まれた和歌です。
この見事に咲く桜の花を散らしはしないだろう、心ある吉野の山の風ならば——と詠むほど、見事な桜の木々だったのでしょう。
待ちかぬる花も色香をあらはして咲くや吉野の春雨の音
出典:吉野山懐紙(文禄3年2月詠)
待ちかねた桜ももう今は色と香をあらわして咲いているだろうか、吉野に降る春雨の音がする中で。
(中略)吉野山の歌会のもので、同じく題は「花の願い」である。
春の雨のために、見に行けないが、春雨は花を育むものなので、春雨が降ったことによって、待ちかねる花が咲いたのではないか、と推量した。
(中略)この歌を書いた家康自筆の懐紙をみると、当時流行していた書風ではなく、字形にこだわらない、粘りある筆致で、力強い、個性的なものである。歌の詠み方に、詠者の性格が反映することがある。家康は、天下人となるだけあってか、筆致も詠歌もかなり個性的である。
なお、この歌会での武将の詠歌は、代作とされるものが含まれるが、家康が代作を頼むのであれば、もう少し内容がととのった歌を詠むような者に頼むであろう。とすれば、家康自作と考えてよいと思われる。引用元:綿抜豊昭[2011]『コレクション日本歌人選014 戦国武将の歌』P.36〜37
もう1首、家康公が吉野の山の桜を詠った和歌があります。
この和歌を詠んだ6年後、家康公自身の「待ちかぬる花」も「色香をあらはして咲く」ことになるのでした——
慶長5年(1600年)
旅なれば雲の上なる山越えて袖の下にぞ月をやどせる
出典:富士之煙(近藤守重[1817]『不尽の煙』)
富士之煙。「關原御陣所にて高野山常住光院に賜ひし御歌」と題詞し、左註に「高野山大徳院記錄に慶長五年於關原御陣所聖方總代常住光院へ被下置候大權現様眞筆之御色紙、御詠歌之寫旅なれば云々、此御色紙今高野山常住光院に現存す予かりうつす處なり」とあり。「予」とは近藤重藏のこと。慶長五年九月十五日、關原戰場に於いて家康が和歌を書きたること實に興味深しといふべし。家康の如き實利的の人間が歌を詠むとは如何と思ふ人もあるべけれど、さうしたものにもあらざるべし現に十數首の作が寫本にて傳はり、又彼が今川氏眞入道宗誾と歌道を論ぜしこと故老諸談に見ゆ。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.225
關原御陣所、すなわち慶長5年(1600年)9月15日、家康公が石田三成らを誘い出し雌雄を決した一大合戦「関ヶ原の戦い」における家康公の陣所にて、高野山の常住光院に贈った和歌だそうです。
江戸時代後期に『不尽の煙』を編纂した近藤守重によると「家康公のような実利的な人物が戦の陣所にて和歌を詠むことをどうかと思う人もいるが、そうしたものではない。現に、家康公が詠んだ和歌は十数首の作品が写本によって伝わっているし、家康公が今川氏真と歌道について語り合うこともあったという」といった意味のことが記されているそうです。
「関ヶ原の戦い」は早朝に開戦し、夕方には勝利を収めていることから、おそらくこの和歌を詠んだのは戦勝後の夕方から夜の間のどこかだと思われますので、さすがの家康公といえど少し気が緩んだのかもしれませんね。
慶長18年(1613年)
しみじみと清き流れの清水川かけ渡したる二ツ橋かな
出典:二ツ橋地名由来の碑(慶長18年12月詠)
二ツ橋地名の由来はこの歌のいずれかは詳かでないが、二首ともにこのあたりの清らかなたゝずまいにふれて詠まれたものでその昔は豊かな自然に恵まれた土地であつたと思われます。
引用元:『二ツ橋地名由来の碑』昭和六十二年十一月吉日 瀬谷区役所
記念碑には「徳川家康 慶長十八癸丑年十二月詠」と記されています。
家康公が訪れた折に詠んだ和歌が、二ツ橋という地名の由来になったことを記念する石碑です。
↓現地を訪れた記事はこちら↓
元和2年(1616年)
松たかき丸山寺の流の井いくとせすめる秋の夜の月
武士の道の守りをたつか弓やはたの神に世を祈るかな
(武士の道の守りをたつか弓やはたの神に世を祈るかな)
つひにゆく道をばたれも知りながら去年の櫻に色を待ちつつ
治まれるやまとの國に咲き匂ふいく萬代の花の春かぜ
のぼるとも雲に宿らじ夕雲雀つひには草の枕もやせむ
稻むらに友をあつむる村雀ねがひある身のいそがしきかな
(稲むらに友をあつむる村雀ねがひある身のいそがしきかな)
出典:富士之煙(近藤守重[1817]『不尽の煙』)
元和二年四月十七日徳川家康駿府に薨ず。年七十五。右歌いづれも富士之煙に出。「松たかき」駿府郊外の丸山寺(福田寺とも云)に遊びて。「つひにゆく」江戸服部坂櫻が岡にて。「治まれる」元和二年二月二十九日大相國拜任のとき花契萬春、徳川實紀にも出。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.235〜236
元和2年(1616年)は、家康公にとって生涯最後の年です。
正月には鯛の天ぷらで食あたりし、体調を崩します。
その後、体調を持ち直しもするものの4月17日に薨去されました。
前年の慶長20年(1615年)、家康公は「大坂夏の陣」にてついに豊臣家を滅亡させ、天下に並び立つ恐れのある脅威から解放されました。
晩年、常に抱え続けていた懸案から解放されたからなのか、家康公は数首の和歌を詠んだようです。
どことなく、死期が近いことを悟っているような、そんな哀愁漂う作風にも思えます。
辞世の句
辞世の句
嬉やと再び覚めて一眠り浮世の夢は暁の空
先にゆき跡に残るも同じ事つれて行ぬを別とぞ思ふ
出典:徳川実紀(東照宮御実記)
元和2年(1616年)4月17日巳の刻(現在の午前10時頃)、家康公は駿府城にて薨去されます。
享年75歳。
死因は鯛の天ぷらが食あたりしたと言われてきましたが、近年の研究により否定され、現在は胃がん説が有力です。
↓家康公が召し上がった「鯛の天ぷら」再現に挑戦↓
「嬉しやと〜」の和歌は、当時としては長命の人生を(それも激動の人生を)生き抜いてきた家康公だからこその、しみじみとした趣を感じる作品です。
「先にゆき〜」の和歌は、自身に仕えてきた徳川家臣団の諸将に向けての和歌だと思われます。
「先にゆき」は家康公自身を、「跡に残る」のは家臣らを意味し、あの世に「つれて行ぬ」のが「別」だと思う、と詠んだ和歌だと解釈できます。
しかし、戦国時代から江戸時代初期までの時代は、仕える主君が亡くなったら後追い自殺をする「殉死」が一般的に行われていました(例えば、家康公と「水魚の交わり」と評されたほどの腹心・本多正信が、家康公の薨去後に殉死しなかったことを批判する声があった等)。
そうした殉死文化を踏まえてこの和歌を考えると、家康公は「先に死のうが後に残ろうが同じこと」であり「あの世に連れて行くわけにはいかないし、それが別れというものなのだから、この世のことを任せたぞ」とでも言い遺したかったのかもしれませんね。
生きてこそ、この世を極楽浄土に変えていくことができる——旗印に「厭離穢土欣求浄土」の仏語を掲げて戦い抜いてきた家康公だからこその、辞世の句だったのかもしれません。
家康公は和歌が嫌いだったのか?
家康公は和歌が嫌いだったとする説があります。
家康公の侍医・板坂卜斎が記した『慶長記』によると、慶長5年のこととして「根本、詩作・歌・連歌は御嫌ひ」という家康公の言葉を記しています。
定説では、こうした所から「家康公は和歌や詩等が嫌いだった(あるいは苦手だった)」と考えられていたようです。
しかし、近年の研究では、一概にそうとは言い切れない人物像が明らかになってきました。
(中略)慶長九年三月のこと、江戸から上洛の途次、家康は熱海温泉に七日間逗留し、その間に独吟による百韻連歌を詠んだというのである。
春の夜の夢さへ波の枕かな。あけぼの近くかすむ江の船。一村の雲にわかるゝ鴈啼て
このような詠風で、ひとりで連歌百韻を詠んでいるのである。
そして『東照宮御実記』附録巻二二には、家康が「折にふれ時によりて、御吟詠ありしを、後々よりくり返し諷詠し奉れば、さながら御文思の一端をしるに足れり。よてふるくより書にもしるし、口碑にも伝へしものどもをかきあつめて、御文事のすゑに附し奉ることになん」として、家康の和歌・狂歌・連歌が三〇首ほど収録されていることからも分かるように、家康は詩歌の詠作にまったく無関心だったというわけではなかった。引用元:引用元:笠谷和比古[2016]『ミネルヴァ日本評伝選 徳川家康――われ一人腹を切て、万民を助くべし――』(ミネルヴァ書房)P.368~P.369
温泉旅行の最中に一人で連歌を詠むという事は、家康公にとって和歌は決して嫌いなものではなく、娯楽として楽しむ身近なものだったという事が分かります。
こうした家康公の傾向について、前出の笠谷和比古国際日本文化研究センター名誉教授によると、家康公は文事・遊芸に対しても学問としてのアプローチをしていく人物であったと分析されています。
自己の感情表現としての詩作・吟詠については、慰み事としてほどほどのところに止めていたが、同じ和歌や日本の古典についても、それを学問的観点からとらえる「和学」ということでは、家康はむしろ積極的な関心を示していた。例えば、慶長一九年三月、家康は古典文学の世界における最高の秘伝とされている「古今伝授」(『古今和歌集』の解釈に関する秘伝)を受けるために、公家の冷泉為満に駿府来訪を求めている。また、飛鳥井雅庸から『源氏物語』の解釈に関わる秘伝である「源氏三箇大事」の相伝を受けており、そのほか、京から公家衆を駿府に招いて、『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』などの講釈を聴聞することは頻りであった。
家康はこのように、文事・遊芸の問題にあっても、どこまでも学問的にアプローチしていくところにその本領があった。引用元:笠谷和比古[2016]『ミネルヴァ日本評伝選 徳川家康――われ一人腹を切て、万民を助くべし――』(ミネルヴァ書房)P.369
むしろ、家康公は古典文学などの領域に対して、相当深い部分まで理解していた事が伺えます。
こうした分析から考えると、家康公は和歌などの風雅に対して、決して嫌いではなくむしろ個人的には結構楽しんでいた人だったようです。
↓家康公が読んだ本についてはこちら↓
他の武将が詠んだ和歌
ここまで家康公の詠んだ和歌をみてみましたが、家康公と縁の深い大名らの和歌も少しみてみましょう。
家康公の嫡男・徳川秀忠
「関ヶ原の戦い」以降
萬代の春に契りて梓弓やまと島根に花をみるかな
(万代の春に契りて梓弓やまと島根に花をみるかな)
出典:富士之煙(近藤守重[1817]『不尽の煙』)
寛永九年正月二十四日徳川秀忠薨ず。年五十四。右歌、富士之煙。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.237
早川のあやふき岸のふし柳今年もあはれ綠そへつつ
出典:平瀨家藏短冊手鑑(平瀬家蔵短冊手鑑)
平瀨家藏短冊手鑑。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.237
家康公の次男・結城秀康
天正15年(1587年)
思いきやこの島山により來つつ散り殘りたる花を見むとは
(思いきやこの島山により来つつ散り残りたる花を見むとは)
出典:豊公歌集
豊公歌集に出で「按藝藩通志嚴島部に、こは太閤西征の時この島の座主水精寺にて興行ありしなるべし、寺に此短冊を藏せりと云、太閤の西征は天正十五年に在り」云々と註す。天正十五年三月廿日秀吉島津氏征伐の途中、嚴島に立寄りたる由は甫菴太閤記にも記し、秀吉の歌を載せたり。(中略)豊公歌集は明治三十一年日下寛編纂なるが、予は寫本にて一見せり。未刊行か。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.176
天正16年(1588年)
玉をみがく砌の松はいくちとせ君が榮えむためしなるらむ
出典:聚樂第行幸記(聚楽第行幸記)・豊鑑
聚樂第行幸記及び豊鑑に據る。題は詠寄松祝和歌。行幸は天正十六年四月の御事にして五日間御駐輦あり。歌會は十六日。作者約七十人、過半は公卿堂上の人々なり。衆妙集に「聚樂行幸の御會に人々にかはりて寄松祝といふことを」と詞書せる五首の中に、秀次・氏郷・沙門道林に代りて作りし三首あることは注意に値す。當時代作はしきりに行はれたるが如し。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.182
外様大名ながら家康公の信頼厚い大名・藤堂高虎
文禄4年(1595年)
身の上を思へばくやし罪とがの一つ二つにあらぬ愚かさ
歸るさの道をたがはぬ燈火かな浮世の闇を照らすばかりに
出典:關原軍記大成(関原軍記大成)26巻
關原軍記大成巻之二十六「大谷吉隆自害附戸田平塚戰死」。藤堂高虎は大和大納言秀長(秀吉の異父弟)に仕へ、天正十九年正月秀長薨ずるや其猶子中納言秀保の後見役となりぬ。然るに秀保も亦文祿四年四月僅に十七歳にして病歿せしかば、高虎世をはかなみ、薙髪して一時高野山に入る。「身の上を思へばくやし」は高野にての述懷。やがて又秀吉に召されて還俗し、宇和島に封ぜられしが、「歸るさの道をたがはぬ」は高野を出づる時の感慨なり。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.209
藤堂高虎は主君を7回替えたことから薄情者だ何だと言われることもあった人物ですが、家康公には良く尽くし、譜代同然の厚い信頼を受けるに至ります。
家康公に出会えたことが、高虎にとってようやく待ちわびた主君に出会えたという僥倖だったのかもしれません。
高虎は、はじめ浅井家に仕え、以後、転々と主君を変えて、秀吉の弟である秀長に仕えることになる。天正十九年(一五九一)に秀長が没し、その子の秀保の後見役となった。しかし、その秀保も文禄四年(一五九五)四月に十七歳にして病没してしまう。高虎は、出家しようと、高野山に入る。(中略)その高野山で詠んだとされるものである。
(中略)高虎の死体は、玉傷、槍傷だらけで、右手の薬指、小指はなく、左の中指は短く、爪がなかったという。自らが死ぬような人生を歩み、仕えた人が死んでいった。『高虎遺書録二百ヶ条』に「寝室を出たときから、その日は死番と心得るべきである」とある。
高野山を出るときに、「帰るさの道を違はぬ灯かなうき世の闇を照らすばかりに」と詠んでいる(関原軍記大成)。この灯とは、高野山で得た「悟り」を意味するが、それは、今日が死ぬ日だという覚悟に通じるものではなかったか。引用元:綿抜豊昭[2011]『コレクション日本歌人選014 戦国武将の歌』P.26〜27
実は、数々の死線をくぐり抜け、ボロボロになりながら生き抜いた人だったことが分かります。
また、家康公と高虎の間にはこのような逸話があります。
元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うとその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した。
引用元:藤堂高虎 - Wikipedia
当時の人々にとって、宗派や信仰は現代人の我々と比較にならないほど重要な意味を持っていました。
そのような時代に、即座に宗旨替え(宗派を替える事)してしまう高虎のこの逸話は、単なる変わり身の早さなどではなく、仕える主君を転々とした高虎だからこその特別な想いがあっての決断だったのではないでしょうか。
今川家滅亡後も家康公と親交のあった今川義元嫡男・今川氏真
天正3年(1575年)
月日へて見し跡もなき故郷にその神垣ぞ形ばかりなる
出典:今川氏真詠草
月日がたって、再び故郷を訪れると、かつて見たものは跡形もなく、わずかに神垣が少し残っているだけよ。
(中略)天正三年(一五七五)五月初旬、いわゆる長篠の合戦がおこなわれる。この時、氏真は後詰をしており、勝頼が負けて、引き上げていった後、かつて父とともに過ごし、自分の領地であった駿河国に入った。そこは、武田の軍が退却するときに焼亡の地となっていた。それを見たおりの歌である。
引用元:綿抜豊昭[2011]『コレクション日本歌人選014 戦国武将の歌』P.24〜25
「関ヶ原の戦い」以降の晩年
吉野川せせのしら浪岩こえて梢にかかる五月雨の雲
出典:後水尾院撰集外三十六歌仙(後水尾天皇による『集外三十六歌仙』)
慶長十九年十二月二十八日今川氏眞江戸にて卒す。年七十七。右一首、後水尾院撰集外三十六歌仙に河五月雨。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.234〜235
賤機やくもらぬ花の神垣は春に和らぐ光そふらむ
出典:今川氏眞家集(今川氏真家集)
大日本地名辭書によれば、右歌、今川氏眞家集に出と云。駿府賤機山淺間神社にて。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.235
「関ヶ原の戦い」で対決した好敵手・石田三成
天正15年(1587年)
春ごとの頃しもたえぬ山櫻よもぎが鳥の心地こそすれ
出典:豊公歌集
豊公歌集に出で「按藝藩通志嚴島部に、こは太閤西征の時この島の座主水精寺にて興行ありしなるべし、寺に此短冊を藏せりと云、太閤の西征は天正十五年に在り」云々と註す。天正十五年三月廿日秀吉島津氏征伐の途中、嚴島に立寄りたる由は甫菴太閤記にも記し、秀吉の歌を載せたり。(中略)豊公歌集は明治三十一年日下寛編纂なるが、予は寫本にて一見せり。未刊行か。
引用元:川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)P.176
散り残る紅葉は殊にいとほしき秋の名残はこればかりぞと
出典:竜潭寺所蔵の短冊(龍潭寺短冊)
散り残った紅葉は、ことさらいとしいものであるよ。秋の名残というべきものは、他になにもなく、こればかりであると思うと。
(中略)この歌は彦根市竜潭寺所蔵の短冊に記される。題は「残る紅葉」。
(中略)「いとほし」は、もともと自分の心を痛める意で、「つらい」という意味であったが、それが転じて、他者に同情し、「気の毒だ」という意味でも使われ、さらには「いじらしくてかわいい」という意味でも使われるようになる。
(中略)たんなる憶測に過ぎないが、豊臣家に無垢なまでの忠節をつくした三成を思うと、「秋」に秀吉を、「散り残った紅葉」に秀頼を重ね合わせたという思いにかられる。引用元:綿抜豊昭[2011]『コレクション日本歌人選014 戦国武将の歌』P.46〜47
辞世の句
筑摩江や芦間に灯すかがり火とともに消えゆく我が身なりけり
「関ヶ原の戦い」で家康公に敗北して捕らえられていた三成は、慶長5年(1600年)10月1日、京都・六条河原にて斬首されました。
享年41歳。
秀吉を支える官僚として類稀なる才覚を発揮してきた三成ですが、秀吉の死後は家康公の謀略を防ぎきることができず、合戦による直接対決でも敗北し、捕縛の身となりました。
敏腕官僚だった三成ですが、繊細な一面を垣間見ることのできる辞世の句ですね。
参考文献・資料等
川田順[1943]『戰國時代和歌集』(甲鳥書林)
綿抜豊昭[2011]『コレクション日本歌人選014 戦国武将の歌』(笠間書院)
笠谷和比古[2016]『ミネルヴァ日本評伝選 徳川家康――われ一人腹を切て、万民を助くべし――』(ミネルヴァ書房)
二ツ橋町自治会[1962]歌碑(神奈川県横浜市瀬谷区瀬谷1丁目27)
瀬谷区役所[1987]『二ツ橋地名由来の碑』(同上)