今回は、地域にある神社が実は、徳川家康公の謀臣・本多佐渡守正信ゆかりの神社でしたというブログです。
正信は唯一、家康公の寝所に帯刀したまま入室することを許されていた程、家康公から絶大な信頼を受けていた名参謀です。
実は筆者が家康公の次に好きな偉人は、この本多正信です。
事の発端は、インターネットで検索して発見した以下の説明でした。
当社の創立年代は不詳であるが、今日杉山社の御神体とされている御神剣に「慶長十八年四月一日願主本多佐渡守が両代官小林九良佐エ門、岡本八郎右エ門をして之を再建せしむ」と刻まれているところから将軍秀忠の時(西暦1613年)にあたり、それ以前古くからこの地に杉山社が健立されていたと思われる。
引用元:神奈川県神社庁/神社検索/杉山社
つまり、杉山社の御神剣に刻まれた文字によると、この杉山社は本多正信が慶長18年4月1日に再建したという事が分かります。
また、杉山社の境内には以下の通り、その由緒について書かれています。
境内の案内文に引用されている、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、杉山社については以下の通り記されています。
杉山社
村の西山丘の上にあり、村の鎭守にて觀音寺の持なり、勸請の年代を傳へず、本地不動の木像を神體とす、立身にして長二尺五寸餘、本社は一間四方にて宮作なり覆屋三間四方東に向ふ、それより十歩ばかりをへたてゝ鳥居をたつ、それより北の方一町ばかりにして西へをれて石階七十餘級あり、祭禮は年々九月二十日、當社勸請の年代を詳にせず、古棟札に慶長十八年卯月一日、領主本田佐渡守再造のよしをしるしたれば、それよりさきに勸請せしことしるべし其後慶安二年の棟札には、領主市岡太左衛門本田四郎兵衛とあり、又寛文九年の棟札に市岡五左衛門本田善之助とあり、天和四年のには市岡五左衛門一人をしるせり、引用元:蘆田伊人[1981]『大日本地誌大系9新編武蔵風土記稿第3巻』(雄山閣)P.136「新編武蔵風土記稿巻之六十 橘樹郡之三 杉山社」
※文中の「領主本田佐渡守」は引用元の原文のまま引用しましたが、正しくは「領主本多佐渡守」であり本多正信のことです。
杉山社(杉山神社)
杉山社(杉山神社)は、神奈川県川崎市多摩区西生田3丁目3-2にある、杉山大明神を祀る神社です。
表参道
杉山社の入り口は北、西、南の3か所ありますが、表参道は北側の入り口です。
『新編武蔵風土記稿』にも記されている通り、杉山社へ行くには石段を登る必要があります。
石段を抜けると、すてきな林道が続きます。
境内に設置された記念碑によると、令和元年に整備されたそうです。
林道を進むと、境内と鳥居が見えてきます。
鳥居(表参道)
境内は木々に囲まれており、とても静かで居心地の良い空間となっています。
鳥居のすぐ奥が本殿です。
筆者が訪れた時は、近隣の子供達が元気に遊んでいました。
鳥居の扁額によると、杉山大明神を祀っているようです。
西口
杉山社の西口へは、写真のように看板が設置されています。
杉山社の本殿を挟んで、表参道ルートの鳥居の反対側が西口の入り口です。
南口
杉山社には南口もあります。
ただ、写真の通り南口は最も「神社の入り口感」が薄いかもしれません。
境内の様子
本殿から表参道の鳥居を向いた様子です。
本殿から右手側を向いた様子です。
境内はこじんまりとしていながらも、子供達が遊びまわったりできる程度の規模はあります。
水盤・日露戦役紀念碑
杉山社には手水舎がありませんが、水盤は鳥居近くに設置されています。
ただ、普段は利用できないようです。
鳥居の近くには日露戦争戦没者の慰霊碑がありました。
戦没者の慰霊碑を見かけると胸が痛みます。
社殿・狛犬
杉山社の社殿は、小さいながらも品のある佇まいです。
向かって右側、阿吽の「阿」の狛犬です。
狛犬の後ろに見える鳥居などのエリアが鹿島社です(後述)。
向かって左側、阿吽の「吽」の狛犬です。
杉山社の狛犬は明治32年10月に建立されました。
社殿自体には扁額がないようです。
個人的には、とても好きな社殿の形をしています。
鹿島社
杉山社の社殿右側には、石鳥居や祠があります。
一見、比較的新しい物に見えますが、左側の祠の質感は古そうな感じがします。
『新編武蔵風土記稿』によると、こちらは鹿島社というそうです。
杉山社
(中略)末社鹿島社
本社に向て右にある小祠なり、石にて作る、引用元:蘆田伊人[1981]『大日本地誌大系9新編武蔵風土記稿第3巻』(雄山閣)P.136「新編武蔵風土記稿巻之六十 橘樹郡之三 杉山社」
少なくとも『新編武蔵風土記稿』が編纂された文化・文政期(1804年から1829年)には、既に鹿島社もあったようです。
案内情報
- 名称:杉山社(杉山神社)
- 住所:神奈川県川崎市多摩区西生田3丁目3-2
- 交通:小田急線「読売ランド前駅」下車・徒歩約6分