徳川家康公が羽柴秀吉と直接対決した合戦「小牧・長久手の戦い」。
互いににらみ合いを続けているうちに秀吉が和平工作を行い、その後の飛躍も考えると政治的には秀吉が勝利した合戦と言えます。
ですが、合戦そのものでは家康公が羽柴軍に勝利したのをご存知ですか?
「小牧・長久手の戦い」は合戦の期間が長引いた上に、交戦地点も複数あって複雑なのですが、まずは「長久手の戦い」が行われた「長久手古戦場跡」をご紹介します。
「長久手古戦場跡」の見所ベスト3
- 家康公と秀吉の唯一の直接対決「小牧・長久手の戦い」で、家康公が勝利した「長久手の戦い」が行われた場所が「長久手古戦場跡」。
- 合戦の痕跡自体は無いが「長久手の戦い」が行われた合戦場の地形を再現した縮景がある。
- 長久手エリアの史跡巡りに便利な、無料レンタサイクルがある。
「長久手の戦い」とは?
天正12年(1584年)3月から同年11月までの間、徳川家康公・織田信雄連合と羽柴秀吉が尾張国の小牧と長久手を中心に行った合戦が「小牧・長久手の戦い」です。
その長い期間の多くは駆け引きやにらみ合いなど膠着状態でしたが、局地的な戦闘は各所で行われました。
その中でも「白山林の戦い」「桧ヶ根の戦い」「長久手の戦い(仏ヶ根の戦い)」が行われた地域が、この長久手古戦場エリアです。
長久手古戦場エリアでの「小牧・長久手の戦い」に関する史跡をまとめると、以下の通りです。
「小牧・長久手の戦い」長久手エリアの史跡一覧
「白山林の戦い」関連史跡
- 白山林古戦場跡
(徳川方・榊原康政らが羽柴秀次軍を撃破した「白山林の戦い」が行われた場所) - 長久手合戦史跡 木下勘解由塚
(「白山林の戦い」で敗走する羽柴秀次を逃がすために討死した木下匡利の供養塚)
「桧ケ根の戦い」関連史跡
- 堀秀政陣跡
(「白山林の戦い」で勢いづいた徳川方を返り討ちにした堀政秀が布陣していた場所) - 家康床几石・色金山歴史公園
(小幡城を出発した家康公が布陣した場所。その時に家康公が腰掛けた石が残る場所) - 教圓寺
(色金山を出発した家康公が立ち寄り、参拝した寺) - 岩作城址
(色金山を出発した家康公が経由した城があった場所) - 富士浅間神社(御旗山)
(色金山を出発した家康公が堀秀政軍と池田恒興・森長可軍を分断するために布陣した場所)
「長久手の戦い」関連史跡
- 長久手古戦場跡
(「長久手の戦い」が行われた場所。現在の『古戦場公園』一帯) - 武蔵塚(森長可の供養塚)
- 勝入塚(池田恒興の供養塚)
- 庄九郎塚(池田元助の供養塚)
- 常照寺(森長可、池田恒興・元助父子の墓)
- 鎧掛松
(「長久手の戦い」合戦後に、武将達が鎧をかけた松があった場所) - 血の池公園
(「鎧掛松」に鎧をかけて、槍や刀に付いた血を洗い落とした池があった場所) - 長久手城跡
(徳川方・加藤忠景が奮戦するも討死し、池田恒興に落とされた城の跡地)
その他の関連史跡
- 二本松塚
(江戸時代の人々が「長久手の戦い」戦死者を弔って植えた松の跡地) - 長久手古戦場耳塚
(家康公が勲功の証として削ぎ取るよう命じた、敵方の片耳を埋めた供養塚) - 首塚
(安昌寺の雲山和尚が「長久手の戦い」戦死者を弔うために建てた供養塚) - 安昌寺
(雲山和尚が手厚く供養したため、後年、尾張藩主や多くの藩士が訪れた寺)
長久手古戦場エリアの総所要時間:約半日(レンタサイクルの利用で短縮可)
史跡「長久手古戦場跡」
「長久手古戦場跡」の記念碑が建てられている古戦場公園は、かつて「長久手の戦い」が行われた仏ヶ根の位置にあります。
この場所では、羽柴方の森長可が徳川方の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃により眉間を撃ち抜かれて、即死しました。
長可の討ち死により羽柴方の池田・森軍の左翼が崩れ始め、次第に徳川方が優勢になっていきます。
羽柴方の池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしますが、徳川方・永井直勝の槍により討死しました。
恒興の嫡男・池田元助(池田輝政の兄)も、徳川方・安藤直次(安藤帯刀)に討ち取られました。
そのため、この「長久手古戦場跡」周辺には、森長可を供養する「武蔵塚」、池田恒興を供養する「勝入塚」、池田元助を供養する「庄九郎塚」があります。
「長久手古戦場跡」までの経路
「長久手古戦場跡」は、愛知高速交通東部丘陵線(通称「リニモ」)の長久手古戦場駅から徒歩約5分です。
このリニモは、常設実用としては国内初のリニアモーターカーです。
非常に急なカーブですが、下の動画のように難なく走行していました。
さて、リニモ「長久手古戦場」駅のホームから降りますと、大きなイオンモールがありますが、その左隣にはいかにも古戦場公園っぽい雰囲気の林が広がっていますね。
「長久手古戦場跡」モニュメント
リニモ「長久手古戦場」駅からすぐにでも「長久手古戦場跡」へ向かいたいところですが、その途中には下の写真のモニュメントがあります。
「小牧・長久手の戦い」をモチーフにしたモニュメントのようで、これから古戦場へ向かうという気持ちを高めてくれます。
このモニュメントは竹下内閣時代に行われた「ふるさと創生事業」による補助金1億円を投入して、長久手市が設置したモニュメントだそうです。
「小牧・長久手の戦い」で、秀吉軍と家康軍が一戦を交えた地は、「長久手古戦場」として、昭和一四年九月七日、国の史跡に指定されました。
長久手の歴史に親しみながら、長久手を愛する気持ちを養い、ふるさとの意識の高揚を図るために、町政二十周年記念事業及びふるさと創生事業として、このモニュメントを建設しました。
モニュメント本体は、のぼりの形にまとめるとともに、犬山城成瀬家、大阪城天守閣、徳川美術館に収蔵されている長久手合戦屏風から代表的な場面をスクリーン化して、屏風のイメージを持たせ、歴史のドラマを現代に再現しているものです。
また、スクリーン上部には、長久手合戦にゆかりのある武将の家紋(右から徳川家康、織田信雄、井伊直政、羽柴秀吉、池田恒興、堀秀政)をあしらっています。引用元:長久手市モニュメント『長久手合戦とは』
このモニュメントには「小牧・長久手の戦い」の概要を伝える案内文も記されています。
長久手合戦とは
天正十年(一五八二年)六月、織田信長が家臣明智光秀の手にかかり本能寺にたおれました。このため、残された遺児や家臣の中で後継者争いが起こりましたが、この中で最初に駆け出したのが羽柴秀吉でした。秀吉は明智光秀を討ち(山崎の戦い)、柴田勝家を破り(賤ケ岳の戦い)、次第に天下統一への階段を昇りつめていきました。
こうした中で、信長の次男信雄(のぶかつ)は、日に日に強大になる秀吉の勢力に対し、しだいに身の危険を感じるようになり、織田信長の同盟者であった徳川家康に助けを求めました。家康はいつかは秀吉と対決せねばならないと考えていたので、これを承諾しました。引用元:長久手市モニュメント『長久手合戦とは』
天正十二年(一五八四年)三月、ついに秀吉軍と家康・信雄連合軍は、ともに兵を挙げました。両軍はしばらく小牧でにらみ合いましたが、先に動いたのは秀吉軍でした。家康の本拠地岡崎を攻めるために三好秀次を総大将とした別動隊を送りましたが、その動きを察知した家康も行動を開始し、四月九日長久手で激しい戦闘が起こりました。
この日の戦いは、家康軍の勝利に終わりましたが、後に秀吉は信雄と和睦し、信長の後継者としての地位を確立しました。引用元:長久手市モニュメント『長久手合戦とは』
上の引用文中にある「三好秀次」は秀吉の甥で、後の豊臣秀次のことです。
秀次は後に子供のいなかった秀吉の後継者として関白に就くも、秀吉に実子・秀頼が誕生すると、秀吉に追い詰められて自害した豊臣秀次です。
ここ「長久手古戦場跡」の周辺地域は、まさにこの天正12年4月9日の激戦「長久手の戦い」が行われた場所なんですね。
かつての激戦が偲ばれます。
二本松塚
長久手市のモニュメント『長久手合戦とは』の隣には、小さな塚があります。
この塚の周辺には案内看板も何もないのですが、塚石に「二本松代石」という文字が記されているのを確認できます。
この『二本松塚』について調べてみたところ、実は「長久手の戦い」にゆかりのある史跡だそうです。
なお庄九郎塚の南30mには、江戸時代に戦死者鎮魂のため植えた松の跡、二本松塚(刻銘:二本松代石)があります。
大きなモニュメントのすぐ隣にある、とても小さな塚石なので見落としがちですが、江戸時代の人々が「長久手の戦い」で散っていった人々を弔うために植えた、鎮魂の松の痕跡を今日に伝える史跡です。
ぜひ見落とさずに立ち寄ってみてください。
長久手古戦場跡(古戦場公園)
モニュメント『長久手合戦とは』と『二本松塚』から少し北上すると、すぐに『古戦場公園』の石標が見えてきます。
こちらが『古戦場公園』の入口です。
『古戦場公園』の入口から少し進むと、一見ただの原っぱのような公園の景色が広がっています。
ですが、この原っぱはただの原っぱではありません。
実は、この原っぱは「長久手の戦い」が行われた『長久手古戦場』の地形を「縮景」という手法により再現した庭園なんです。
天正12年(1584)日本の歴史に大きな影響を与えたといわれる「長久手合戦」がこの地で行われた。
秀吉は小牧山で長期戦となった戦いを打開しようと三好秀次を総大将に池田隊、森隊、堀隊ら総勢2万人の大軍を岡崎へ攻めこませた。この動きを察知した家康は自ら1万3千人の軍を率いてこの後を追った。
家康は4月9日午前10時頃この地で池田隊、森隊、堀隊の秀吉軍と対戦し、勝利者となりその実力を天下に知らしめることとなった。この公園は戦いの中心となった地形を縮景という手法で表現したものです。くわしくは、公園北側の「長久手町郷土資料室」に展示してあります。
引用元:古戦場公園案内看板『長久手古戦場』
ちょうど上の写真の案内看板がある場所から眺めると、下の写真の景色を楽しむことができます。
上の写真の「縮景」では、右の山が桧ヶ根(羽柴方・堀秀政が布陣した場所)、中央の山が御旗山(家康公の本陣地)、左の山が仏ヶ根(主戦場の地)、3つの山の手前を流れる川が香流川(家康公が色金山から御旗山へ移動する際に降った川)を表現しているそうです。
また、この看板のすぐ側には、家康公が色金山に布陣した時に座ったと伝わる『家康床几石』のレプリカがあります。
この『家康床几石』は、色金山歴史公園に本物が現存していますので、色金山の記事にて改めてご紹介します。
こちらが『長久手古戦場跡』の記念碑です。
『長久手古戦場跡』記念碑は、先ほどご紹介した縮景の向かって右側にあります。
この『長久手古戦場跡』記念碑は標石が1本立っているだけで、周囲に案内看板のようなものは特にありません。
『長久手古戦場跡』記念碑は、昭和62年(1987年)に建立された物です。
この記念碑の周囲に案内看板等はありませんが、すぐ目の前には長久手市郷土資料室がありますので、あえて記念碑の周囲に看板を設置する必要はないのでしょう。
長久手市郷土資料室
長久手市郷土資料室は「小牧・長久手の戦い」長久手古戦場エリアの史跡巡りをするのに必須といえる、レンタサイクルを無料で借りられる場所です。
また、館内には「小牧・長久手の戦い」に関する詳細な案内や、合戦場の立体模型など、必見の展示物があります。
この案内看板は「1発端」「2岡崎侵攻作戦」「3岩崎城落城」「4白山林の戦い」「5桧ヶ根の戦い」「6仏ヶ根の戦い」「7和睦」の全7枚構成で、館内の壁面に設置されています。
館内の中央には「長久手古戦場」一帯の合戦場を再現した立体模型が展示されています。
現在地の『古戦場公園』周辺の航空写真では、写真右奥に家康公の布陣した「御旗山」があり、他に森長可の供養塚である「武蔵塚」、池田恒興の供養塚である「勝入塚」、恒興の嫡男・池田元助の供養塔である「庄九郎塚」の位置関係が一目で分かります。
長久手市郷土資料室では、長久手古戦場に関するリーフレットを無料で配布しています。
それも、上の写真の通り3種類もありますので、お立ち寄りの際はぜひ入手するのをお忘れなく。
無料レンタサイクル
長久手市郷土資料室では、史跡巡り用の無料レンタサイクルを借りられます。
詳細情報や運営状況などは、公式Webページをご確認ください。
無料レンタサイクルは電動自転車ではありませんし、変速ギアも付いていません。
ですが、長久手古戦場エリアの史跡巡りには欠かせない、貴重なサービスです。
今回、私もこの“相棒”のおかげで、長久手古戦場エリアの「小牧・長久手の戦い」関連史跡を全て回りきることができました。
そもそも長久手古戦場周辺にはレンタサイクルのサービスが他にありませんし、しかも無料で借りられますので、もう感謝しかありません。
長久手市郷土資料室の管理人の方も、気さくな方で快くレンタサイクルを貸し出して下さりました。
ありがとうございました。
「長久手の戦い」長久手古戦場の史跡マップ
長久手市郷土資料室の入口すぐ前には、周辺の史跡案内の地図があります。
長久手市郷土資料室で頂けるリーフレットで確認しても良いのですが、旅先で手に入る資料はやはり綺麗に持ち帰りたいものです。
この看板の地図をスマートフォンで撮影しておけば、史跡巡り中にも手軽に確認することができて便利です。
ただ、当ブログではこの看板にも載っていない史跡もご紹介しますので、旅のお供にご活用いただければと思います。
この後は、さっそく『古戦場公園』の園内にある「勝入塚」と「庄九郎塚」をご紹介します。
アクセス・案内情報
- 名称:長久手古戦場跡・長久手市郷土資料室
- 住所:愛知県長久手市武蔵塚204
- 電話:0561-62-6230
- 交通:愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)長久手古戦場駅から徒歩約5分
- 参考:長久手古戦場野外活動施設(郷土資料室、和弓場)/長久手市