『血の池公園』は「長久手の戦い」後に、徳川家康公の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗ったと伝わる池の跡地です。
その際、脱いだ鎧をかけた松が『鎧掛松』です。
現在『血の池』は埋め立てられて『血の池公園』となっており、池だった面影は一切ありません。
また、その近くにある『鎧掛松』も合戦当時のものではなく、現在あるのは3代目の松だそうです。
一部では『血の池公園』は心霊スポットだと言う声もありますが、はたして真相や如何に――
『血の池公園』『鎧掛松』の見所ベスト3
- 「小牧・長久手の戦い」で最も激戦だった「長久手の戦い」の後、徳川方の武将らが槍や刀を洗った池と、その時に鎧を掛けた松。
- 『血の池』は昭和53年〜昭和60年頃に埋め立てられて消滅した。『鎧掛松』は2代目が昭和55年に松食い虫の被害により枯れてしまい現在の松は3代目。
- 『血の池』でgoogle検索すると「心霊」という言葉が出てくる。
『血の池公園』と『鎧掛松』の由来
なぜ『血の池公園』という物騒な名前なのか? 名前の由来とは?
『血の池』の由来は、「長久手の戦い」に勝利した徳川方の武将や兵が、敵の血が付いた槍や刀をここにあった池で洗ったことに由来します。
その後、毎年「長久手の戦い」が行われた4月9日になると、池の水が血の色に染まるようになったことから、池の名前を『血の池』と呼ぶようになりました。
天正12年(1584年)3月から同年11月までの間、徳川家康公・織田信雄連合と羽柴秀吉が尾張国の小牧と長久手を中心に「小牧・長久手の戦い」を行いました。
その中で、4月9日に現在の『長久手古戦場跡』一帯において、家康公が自ら率いる軍勢・井伊直政勢・織田信雄勢の連合軍と、羽柴方の池田恒興・池田元助・池田輝政・森長可の軍勢が激突します。
この「長久手の戦い」は午前10時ごろに開戦し、戦闘は2時間余り続きました。
「長久手の戦い」は徳川勢の勝利に終わりますが、その合戦場の近くにあった『血の池』で武具に付いた敵の血を洗い落としたそうです。
『鎧掛松』とは?
『鎧掛松』は「長久手の戦い」に勝利した徳川方の将兵らが『血の池』で武具を洗う時に、池の近くにあった松の枝に鎧を引っ掛けたことに由来します。
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鎧掛松
『鎧掛松』は『武蔵塚』から「古戦場通り」を横断しつつ、北へ進んでいきます。
長久手市立交通児童遊園の駐車場内に『鎧掛松』があります。
こちらが、長久手の『鎧掛松』です。
『鎧掛松』の隣には、案内看板があります。
鎧掛けの松
以前この近くに池があり長久手合戦の時、諸軍勢が手で水をすくって飲んだといわれ、また血に染まった刀や槍を洗ったともいわれている。昔から四月九日(合戦の日)ごろには水が赤く変わり、血の池と称されていたが現在この池は形をとどめていない。
この池で刀や槍を洗う際に、武将が鎧を掛けたといわれる「鎧掛けの松」の二代目が、松くい虫の被害に遭って昭和五十五年二月六日樹齢八十年の生命を絶った、このため、昭和五十七年七月一日三代目鎧掛けの松として植栽した。長久手教育委員会
引用元:鎧掛松案内看板『鎧掛けの松』
『鎧掛松』の根元には、小さな石碑が1つ置いてあります。
血の池公園
『血の池公園』への入口は四方にありますが、記念碑がある場所は公園の南側にある入口です。
下の地図にあるポイントに、記念碑があります。
こちらが『血の池公園』に唯一残る『血の池』の面影である記念碑です。
血の池のいわれ
天正十二年四月九日の長久手合戦では、この一帯が主戦場となり付近の御馬立山に布陣した家康軍と秀吉方の池田勝入、池田元助、森長可などの武将が対峙し、死闘を繰り返した結果秀吉方の三将が討死しました。
血の池は、家康方の渡辺半蔵などの武将が、血槍や刀剣を洗ったことからその呼び名がついたと言われています。毎年合戦が行われた頃になると池の水が血の色に赤く染まって漂ったと言い伝えられており、名松鎧掛けの松とともに永く人々の心に語り継がれてきました。昭和六十年三月
長久手町引用元:血の池公園案内看板『血の池のいわれ』
現在の『血の池』は既に埋め立てられており、池としての面影は残っていません。
長久手市のWebページに、昭和53年当時の埋め立て前の『血の池』の写真が掲載されていました。
引用元:昭和53年頃の血の池(長久手市)
元々あった『血の池』は、思っていた以上に大きな池だったようです。
これだけ大きな池なら、合戦の後に水を飲んだり武具を洗ったりしたのも納得できますね。
上の写真は昭和53年当時の写真ですが、『血の池公園』にある記念碑の日付が昭和60年だったことと合わせて考えると、おそらく昭和53年〜60年の間に埋め立てられたのだと思われます。
何ともったいないことをしてしまったのでしょうか。
『血の池』が残っていないのは残念でなりません。
近年における『血の池公園』と『鎧掛松』について(追記:令和4年2月15日)
Twitterで川出康博さん(@NOhsEvwabN0GbCd)から『血の池公園』と『鎧掛松』の近年における経緯について、情報を教えていただきました。
紹介いただいた血の池公園と鎧掛けの松も昭和14年当初は国指定史跡となりましたが、その後周辺の開発により、昭和40年12月10日付けで解除されました。
血の池公園は昭和55年に埋め立てられました。なお、鎧掛けの松は現在4代目です。
看板が間違っており、申し訳ありません。 https://t.co/NIQAFFaYXG— 川出康博 (@NOhsEvwabN0GbCd) February 14, 2022
『血の池公園』と『鎧掛松』は共に、昭和14年に国指定史跡となるものの、昭和40年に解除されたそうです。
また『血の池公園』は昭和55年に埋め立てられたそうです。
『鎧掛松』については、現在の松は4代目の松との事です。
貴重な情報ありがとうございます!
『血の池公園』は心霊スポットなのか?
Googleで「血の池公園」を検索すると、なぜかサジェストに「心霊」という言葉が一緒に出てきます。
『血の池公園』がどういう風に心霊スポットなのかというと、何でも毎年「長久手の戦い」が行われた4月9日になると、かつて『血の池』があった公園の広場周辺が血で赤く染まるだとか、夜中に生首が飛んでいるといった噂があるからだそうです。
ここで、そもそも「長久手の戦い」には何人が参加して、何人が討死したのかをまとめてみましょう。
まず「長久手の戦い」の両軍兵力は、徳川方が家康公3,300人、家臣・井伊直政勢3,000人、同盟者・織田信雄勢3,000人、合計9,300人。
羽柴方は池田恒興勢2,000人、嫡男の元助・輝政勢4,000人、森長可勢3,000人、合計9,000人。
両軍ほぼ同規模の軍勢ですが、その死者数は大きく差が開きました。
つまり「長久手の戦い」の死者数は、徳川方が総勢9,300人に対して死者数590人、対する羽柴方が総勢9,000人に対して死者数2,500人でした。
「長久手の戦い」の死者数は合計3,090人余りに登る訳ですが、その合戦場に近く、また合戦直後には武具の血を洗い流した池なのですから、いかにも討死した人たちの亡霊が彷徨っていても不思議ではない感じがします。
というのが、おそらく『血の池公園』が「心霊スポット」呼ばわりされてしまっている理由なのでしょう。
そこで、まず手軽に事故物件を調べられる有名Webサイト『大島てる』で調べてみましたが、『血の池公園』周辺はおろか「長久手の戦い」の合戦が行われた付近一帯も含めて、事故物件の掲載数はとても少ない状態にあります。
また、そもそもGoogle検索の上位に出てきたWebサイトの情報も、よく読んでみると誤った情報が掲載されていて、思わず笑ってしまうような内容です。
その一例を以下に引用します。
野間駅から徒歩で約10分にあるこの「血の池公園」は地元では有名な公園で、心霊スポットともいわれています。この付近では昔、かの有名な源頼朝が身を隠した最後の土地であり、池で頼朝を殺めた武器を洗ったりしたことから血の池と呼ばれるようになりました。
その歴史から多くの心霊現象も報告されています。例えば、池から頼朝の声が聞こえてきたり落ち武者の霊が出たりするといわれています。もしかしたらかつてここで最期を遂げた者たちの怨念がたくさんあるのかもしれません。
上記のWebページですが、おそらく殺されたのは源頼朝ではなく正しくは源義朝でしょう(ここで頼朝が殺されていたら、その後の源平合戦も鎌倉幕府の開府もありません。当然、大河ドラマの『義経』も『平清盛』も『鎌倉殿の13人』も成立しません)。
義朝は頼朝の父ですが、1159年(平治元年)に「平治の乱」で平清盛に敗れ、京都から逃げようとしましたが、尾張国野間にて討ち取られてしまいました。
その義朝の首を洗った『血の池』のことだと思われます。
つまり、長久手にある『血の池公園』とは全く別の場所にある『血の池』を紹介しているWebページだということですね。
ですが、表示されているInstagramの画像は確かにここ長久手の『血の池公園』の画像ですし、説明文も画像も間違っているとなると、これはもう丸ごと不正確なWebページだと言わざるを得ません。
まあ、上記のWebページは特に酷いWebサイトだということであって、他の検索上位ページはきちんと書かれています。
そして、それらの検索上位ページに書かれた「心霊スポット」としての内容は、やはり前出の通り「長久手の戦い」が行われた4月9日には池が赤く染まることと、生首が飛んでいるということにまとめられます。
ただ、そもそも冷静に考えてみれば、(心霊スポットとして楽しみたい方にとっては無粋かもしれませんが)この『血の池公園』の周囲は現在、住宅街になっています。
4月9日になると毎年律儀に心霊現象を起こすような亡霊たちが『血の池公園』にいるのだとしたら、周囲の宅地開発は進まないでしょうし、住み続ける人もいないのではないでしょうか。
それどころか、そもそも『血の池』で行われたことは武具を洗って血を落とした程度のことであって、亡霊が出るとしたらむしろ「長久手の戦い」そのものが行われた場所全体に及ぶべきなのではないでしょうか。
そういう意味で考えると、むしろ『長久手古戦場駅』周辺の地域は開発がどんどん進んでいますし、駅前には大きなAEONモールもありますし、心霊現象などとは縁がなさそうに見えます。
それに、血を洗い落とした『血の池』自体も既に埋め立てられてしまっており、池の血を赤く染める亡霊側にしてみれば、公園の砂を血に染めなければならなくなってしまいましたので、とても大変そうですね。
そういう訳で「『血の池公園』心霊スポット説」はデマだと結論づけたいと思います。
ちなみに、私が『血の池公園』を訪れた時には、偶然遭遇した地元のおじいちゃんから「ご苦労さんです」と、優しい挨拶の言葉をかけていただきました事を申し添えたいと思います。
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アクセス・案内情報
『鎧掛松』へのアクセス・案内情報
- 名称:鎧掛松
- 住所:愛知県長久手市城屋敷410
- 交通:愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)長久手古戦場駅から徒歩約10分
- 備考:『武蔵塚』から自転車で約2分
『血の池公園』へのアクセス・案内情報
- 名称:血の池公園
- 住所:愛知県長久手市城屋敷410
- 交通:愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)長久手古戦場駅から徒歩約10分
- 備考:『武蔵塚』から自転車で約2分
『血の池公園』の名物グルメ情報・血の池タルト
Twitterですずき孔さん(@kou_mikabushi)から『血の池タルト』なる名物お菓子の情報を教えていただきました。
ちなみに長久手の血の池公園にちなんだ『血の池タルト』という名物があります。
血の池タルト 売り出し中 https://t.co/ACfhDTpwe6
— すずき孔 (@kou_mikabushi) February 14, 2022
この『血の池タルト』は、真っ赤なラズベリーと長久手産のイチジクジャムのタルトだそうです。
長久手古戦場巡りの際はぜひ、と言いたいところですが、まだ今のところはイベント等での限定販売みたいです。
貴重な情報をありがとうございます!