徳川家康公の像は各地にありますが、本銅像は家康公が晩年を過ごした駿府城の跡地に建てられた銅像です。
現在は駿府城公園の一角にあります。
はじめに
駿府城は徳川家康公によって天正13年(1585年)に築城され、翌天正14年(1586年)に本丸御殿が完成し家康公が移りました。
その後、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにより後北条氏が滅亡し、家康公はそれまでの三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国から、後北条氏の治めていた関八州へ移封される事となり、駿府城を離れます。
しかし、慶長13年(1608年)に駿府城本丸御殿が完成すると、家康公は再び駿府城に入り、元和2年(1616年)齢75歳で駿府城にて薨去されました。
徳川家康像
駿府城公園は中央部分が広場のようになっておりますが、その一角、駿府城本丸跡の場所に家康公の銅像が建てられております。
「大御所」として駿府城に戻ってきた晩年の家康公を銅像にしたそうですが、趣味の鷹狩りに興じている際のお姿なのか、とても凛々しい印象の銅像です。
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都内にある家康公の銅像と比較しても、駿府城公園にある家康公の銅像の方が威厳があるように見えます。
家康公の銅像前には、駿府城についての案内板もあります。
この案内板には以下の通り記されております。
駿府城
今から約六五○年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は七歳から十八歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永録三年(一五六○)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永録十一年(一五六八)武田氏により駿府を追われました。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正十年(一五八二)に追放した後、同十三年(一五八五)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正十八年(一五九○)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長八年(一六○三)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長十年(一六〇五)に将軍職を息子秀忠に譲り、同十二年(一六○七)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。
静岡市教育委員会
引用元:『駿府城』案内板(静岡市教育委員会)
徳川家康公お手植えのミカン
家康公の銅像近くには、家康公お手植えのミカンがあります。
この家康公お手植えのミカンについては、以下の通り案内板が設置されております。
徳川家康公が将軍職を退いて隠居のおり、紀州(和歌山県)より献上された鉢植えのミカンを天守閣下の本丸に移植されたものと伝えられている。
(以下略)
引用元:『静岡県指定天然記念物 家康手植えのミカン』案内板
静岡市教育委員会
静岡県教育委員会
【家康公お手植えの植物まとめ】
さいごに
家康公ファンとして駿府城は欠かすことのできない史跡です。
駿府城を訪れる際は、ぜひこの家康公の銅像とお手植えのミカンも見逃さないように見物されてはいかがでしょうか。
また、各地にある家康公の銅像を見比べてみるのも面白いかもしれません。
案内情報
名称:徳川家康像
住所:静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1(駿府城公園内)
交通:JR静岡駅徒歩約15分・静岡鉄道新静岡駅徒歩約12分
参考:【公式】駿府城公園
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